恋せよ遊女
萩屋の奥座敷でお千代は手習いに身が入らず、手本の物語をパラパラと読みふけっていました。
周りでは昼見世前の慌ただしさの中、今日は芸事の手習いで禿たちは二階の大広間にるようです。
芸事の先生は元遊女で、今は主にお座敷で三味線や唄などをお客さんに披露する仕事をしています。
なので、茶屋の二階からはその先生が唄っていると思われる歌声が、若い衆たちのかけ声が響く中で、ひときわ癒しのように胸の奥へと伝わってゆき、心が落ち着くような気分にさせられました。
(どんな唄なのかよく分からないけど、この歌声は癒される……)
お手本の物語を読むのをやめて芸事の先生の歌声に耳を傾けていると、さっきまで算術の指導を受けていた弥彦が、だらけるお千代の前にお茶を置きました。
「今日はいつもの熱心さがありませんね。何かあったのですか?」
「――いえいえ、何でもありませんよ。ちょっと二階の先生の唄に聞き惚れてしまって、手が止まってしまいました。はははっ」
二階の大広間から聞こえる声に『ああ、なるほど』と弥彦は納得すると、あれは流行りの唄らしく、上方よりさらに遠い国から広がったものらしいと教えてくれました。
「艶歌が多くてね。ここの遊女さんたちも旦那さんに向けてよく唄ってますよ。お千代さんも芸事に興味が湧きましたか?」
「う~ん。興味はあるけど、聞くだけでいいかな。やっぱり禿のころから読み書きの手習いも芸事もやってないと、それを活かせる前に借金が返せそうにないからね」
「でも唄だけでも覚える価値はあるんじゃないかな。それに紙に唄の歌詞を書き写すだけでも、十分読み書きの勉強になりますよ」
「たしかに、お座敷に上がって芸をするわけじゃないけど、船の旦那さんはいろは唄でもよろこんでくれるから、弥彦さんがいうように覚える価値はあるかも……」
「こうして耳に入ってくる唄を自分のモノにするだけならタダですからね。でもそれに夢中になってお手本帳の読み書きをやらないというのは本末転倒ですよ」
「…ですよねー」
たははははっと苦しい笑顔のお千代は、禿たちと唄いだした先生の声を聞きながらかな文字で歌詞を書いてみる。
(こひにこがれてなくせみよりも、なかぬほたるがめをごがす?)
――なんじゃそりゃ!?
心の中でひとりツッコミをしながら、この唄の意味を考えてみる。
(夏に雌を求めて鳴く雄蝉より、あのぽわぽわと夜に光る蛍の目が焦げた方がいい?ってこと??)
分けわからん……。
まじまじと自分で書いた文章を読みながら、その意味が分からずに悶えるお千代の姿に、笑いをこらえながら弥彦が指摘しました。
「ここは”め”ではなくて、”み”だと思いますよ」
「ほうほう、『み』だね――」
お千代はさっそくめの部分に棒線を引いて、その横にみの文字を書き入れた。
そしてもう一度唄の歌詞を読んでいくが、目から身になってもさっぱり意味が分からない。
(蛍の光で身を焦がしたら、死んでしまうんじゃないの!?もしかして、夏は蝉が五月蠅い。蛍は焼け死ぬって意味なのかな――。いや、それ男女の恋の唄じゃないよねぇ……)
うぐぬぬぬぅとへんな声を漏らしてお千代が考え込んでいると、今度は音もなく背後から女将さんが硯に置いてある筆を取り、余白に丁寧な筆づかいでかな文字ではなく、漢字交じりの文字を書きだしました。
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす。これは『上っ面だけで好いてる恋しいと軽口を叩く者より、何も言わない者の方が本心では相手を深く思っている』という意味なんでありんす」
「はう。女将さん!」
びっくりしたお千代は後ろへ振り返りました。
「唄のうわべだけをみても、その意味を知ることはできんせん。それと同様に、お千代はもっと殿方を深く知るべきでありんす」
「殿方を深く知る……?」
「あい。殿方と恋をしたことはありんすかぇ?」
「恋、ねぇ――」
恋したことがあったかも知れないが、あれを恋というなら私は恋焦がれて鳴く蝉の方だったと思う。
文字通り、恋焦がれるような心の思い出はなかった。
(太一のことはサヨのことがあって裏切られたと思う気持ちの方が強かった。今思えば、ただの仲の良い幼なじみの延長線のような恋だったなぁ)
ただ里の中で生きてくために一緒にいたい相手ではあったが、ここで暮らすようになったらどうでもいい人になっていった。
(それを恋というのも、何となくおこがましい……)
夜の相手をする旦那さんたちも情はあるが恋ではない。
ふ~むとお千代が目をつぶって考えていると、女将さんはうふふっと笑う。
「お千代、恋を知って女は美しくなるものでありんす。身持ちを崩さない恋の仕方を覚えなんし。誰も恋しいと思わない女に殿方は惹かれんせん」
「恋、……ひとりで何とかできないから難しい問題ですね」
「そうですえ。ひとりでできないから恋はオツなんでありんす」
女将さんはほほ笑みながらそう言うと、筆を硯に置き直して遊女たちが支度をしているであろう二階の方へと足音を立てずに歩いて行きました。
お千代と女将さんのやり取りを近くで見ていた弥彦は、文机の上にあったそろばんと手本帳を下に置いて、腰に付けていた矢立と帳面を机におくと、女将さんが書いた文章とその意味をつらつらと書きだしました。




