新人遊女がやってきた
暦の上ではもう夏。
じめじめとした季節になりました。
空は昨日も今日も涙雲でいっぱいです。
茶屋で読み書きを始めて早二か月が経とうというころ、もう読み書きを卒業し算術の習いをはじめていた弥彦がお千代の耳元でささやきました。
「もう少ししたら沖の遊女がひとり増えますよ」
「新人さんがくるんですか?」
「ええ、今はまだ遣り手から手ほどきを受けていますが、そのうちおなごやの方で暮らすことになると思います」
「へー。楽しみだなぁ」
かな文字にだいぶ慣れたお千代は、今では簡単な漢字を書く練習をしています。
文机の上に手を置いてお手本帳の文字を書きうつしながら、新しい遊女がうれしくてついその思いが口から漏れそうになります。
「私もとうとう妹分ができるのかぁ。可愛がってあげなくちゃね、うふふふふふ」
お千代がニタニタと口元をほころばせていると、彼女の前の席についていた禿たちが後ろを向いて顔をしかめて弥彦に言います。
「お千代、気持ち悪いでありんす」
「頭おかしくなりんした?」
「悪いものでも食べたでありんすか?」
「大丈夫だと思うよ、多分……」
弥彦は苦笑いして答えると、そろばんを弾きながら自分の習いごとを進めるのでした。
今日の手習いが終わると、お千代は一目散におなごやまで走って帰ってきました。
おなごやの姐たちは悠々自適な時間を過ごしていましたが、お千代がバタバタと足を拭いて居間に上がり込むと彼女に注目します。
「騒がしい子だねぇ。何かあったのかい?」
「分かりますか!?」
「お千代ほど分かり易いやつはいねぇよ」
「えっ?」
「本当ですわ…」
姐たちからの冷静なツッコミに唖然としていると、松野がやれやれという顔をして再度お千代にたずねます。
「で、何があったのかい」
おお、そうだと彼女が姿勢を正すと、みんなに向けてうれしそうにいいました。
「ここへ新しい娘が来るんだって、知ってましたか?」
「へー、新しいのが来るんだ」
「ふうん。またお千代みたいに単純な娘でしたらよろしいですわね」
ふたりの姐があまり乗り気じゃない反応を示します。
お千代が松野の方を向くと『あたしゃ弁蔵から聞いてたよ』っと、さらりと答えます。
どうしてみんな新しい遊女が増えるのを楽しいとは思えないのか、お千代は不思議に思いました。
ですが、そこには触れてはいけない何かがあるのかと思うと、それ以上は何も言えはしませんでした。
それから三日後。
弁蔵が新しい沖の遊女をつれておなごやにやって来ました。
「新入りだ」
弁蔵はそれだけいうと新人を置いて早々におなごやをでていきます。
そして新人の若い娘がぽつんと土間に立ってそわそわしていました。
見た目は沖の遊女全員の平均よりやや上くらいの容姿で、体形は小柄で子供っぽい体格を維持したまま年を取ったような感じでした。
(私もはじめてここへ来たときに、こんな風に弁蔵さんに置いてかれたわ……)
過去の自分をみるように新人の娘をみていると、松野が彼女に居間に上がるように手招きします。
若い娘は松野の方へ寄っていくと、その近くにお千代を含めた三人が集まってきました。
松野は新人の娘の姿を頭からつま先まで見定めると、慣れたようにここでの暮らしの注意点を伝えます。
それが終わると彼女に自己紹介をするよう促しました。
「――初めまして、小波と申します。みなさんよろしくお願いします」
そういって一礼すると、姐遊女から順にあいさつを返します。
「あたしはここで一番の古株の松野だよ。何かあったらあたしにいいな」
「わたくしはつぎに長くいる志乃ですわ。分からないことがあったら松野姐さんにお聞きなさい」
「うちは高尾。適当によろしく」
「私はお千代。歳も近そうだし仲良くしようね」
最後のお千代が笑顔であいさつすると、小波は値踏みをするようにお千代の顔をみて口の端をあげるようなしぐさをしました。
そのことにお千代はまったく気づかず、新しく来た小波と仲良くすることだけを頭に思い描いていたのでした。
今日から萩屋の沖の遊女は五人で仕事をしていくことになります。
そして本日の順番決めの話し合いで、後ろから数えた方が早い順位になりました。
待ち時間に五人で舟の中でだらりとしながら会話をします。
「毎年この季節になると体が重くて参るよ。はぁ…」
「梅雨どきはじめじめしていやだなぁ。舟の中も湿ってくるしよぉ」
「本当ですわね。着物もしけってきますし、帰ったらちゃんと手入れしないと白い粉がついて取れなくなりますわ」
「海の近くはもわっとした風が吹きますよね。早く梅雨が終わらないかなぁ」
いつもの調子で姦しくおしゃべりしている後ろで、新人の小波は何もしゃべらず隅でじっとしていました。
「小波さん、舟は平気?気分悪くない?」
「……いえ」
お千代が気にかけて一声かけると、そっけない返事が返ってきました。
表情も硬くほかの遊女たちへの関心もなく、『話しかけてこないで』という心の声が聞こえそうでした。
(はじめての遊女の仕事だし、緊張するよね)
自分のときのことを思いだ―――、
そうとしても当時はテンパっていて、何一つ記憶に残ってないことに今さらながらに気づきました。
(そして最初の旦那さんの顔すら覚えていない。私ってけっこう薄情者なのかな?)
などと考えていると舟の後方から弁蔵の声が聞こえてきました。
「舟をだすぞ」
という一言で、舟が沖に向かって進み出しました。
今日はやや波も高く、嵐とまではいかないが小舟は大きく揺れます。
お千代はまた気分が悪くなり外へと出ました。
(船の揺れは平気なのに、小舟の揺れは気分が悪くなる――)
海に向かって胃から込み上げてくるのもを吐きだすと、前のように弁蔵が水筒を手渡してきました。
(私、もう姐遊女なのに、ちっとも妹分に示しがつかないじゃないか!)
と自分に喝を入れて、水筒の水で口をすすいでからヨタヨタと舟の中へともどるのでした。




