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内海の遊女 風待ちの港 沖乗りの島  作者: 青丹よし
第三章:今の自分にできること
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波止場で私は叫んだ

あの後、お千代は茶屋の裏にある井戸の前で上半身をむき出しにし、女将さんから借りた(くし)で髪を()いていました。


髪の毛の先の方には水を張ったたらいが置かれています。


「日が当たらない場所はまだ寒い……」


身体中に鳥肌をたてて震えながらお千代が梳いていると、(くりや)の勝手口から(つば)やかんと小袋を手にした弥彦が歩いてきました。


「お千代さん、やかん持ってきました。あと、ふのり〔海藻〕とうどん粉です」

「…ありがとうございます。弥彦さん」


「このままだと手が塞がりますよね、僕が入れましょうか?」

「そうですね。お願いします」



お千代がたらいから髪の毛を引っ張りだして抱えると、弥彦がその中にふのりとうどん粉を入れて手でかき回し、そのあとやかんのお湯を注いでさらにかき混ぜました。


「――終わりました。あとで手ぬぐいを持ってきますので、どうぞ髪を洗っていてください」


そう言い残すと弥彦は自分の着物で手を(ぬぐ)いながら、勝手口の方へ走って行きました。


「もう昼見世が始まってるし、みんな忙しいよね。私も早く髪を洗ってしまおう」


温かくなったたらいに髪を下ろして、ふのりとうどん粉が混ざった湯で髪を洗います。

最初に先の方から揉み洗いをし、徐々に根元の方まで湯を揉みこみんでから櫛で梳いていきます。


「たらいがどんどん黒く濁っていく……」


松風にかけられた墨汁が髪の毛からしみ出してくるのです。

寒さに耐えながらもお千代は髪を洗っていきます。



「湯屋で髪を洗うことができたらいいのに…」


いつも利用している湯屋で髪を洗うことは禁止されています。

髪を洗うのにお湯をたくさん使うからです。


だからふだん髪を洗うときは、井戸の前にたらいを置いて洗う。


ここではみんなそうしています。

冬場は本当に寒くて地獄だ。



井戸から水をくみ上げてたらいに水が溜まるように頭から水をかぶる。

そしてたらいに溜まった水で櫛で梳きながら髪を洗う。

たらいの中の水が汚れたら流して、また井戸から水をくみ上げる。


寒い時は手が冷たくなってかじかんでくるのが厄介。

毎日洗うわけじゃないけど髪を洗うのは苦手だった。



「手ぬぐい持ってきました。それと着替えの着物は内所の方に用意されてるようなので、髪を洗い終わりましたら行ってみてください」


「はい。色々とありがとう、弥彦さん」

「いえ、これも仕事ですから」


そう言って弥彦は笑顔で答え、今度は納屋の方へと走って行きました。


お千代は髪を洗い終わると手ぬぐいで水気をふき取ります。

そして何度か手ぬぐいをしぼり、髪の毛から水滴が落ちなくなったところで腰まで下げていた着物を着直しました。



内所の方へ出向くと縁側で女将さんが待っており、手を振ってこちらに来るようにと促してきます。

なので縁側に駆け寄ると女将さんは二着の古着を差し出してきました。


「墨で汚れてしまいんした着物の代わりに、あちきの娘時代のものでよければ着なんし」

「こんなに良い着物いいんですか?」


「もう年増のあちきには似合んせんものでありんすから、ぜひお千代に着てもらいたいんでありんす」


女将さんは着物を見ながら、何か懐かしそうな顔をしていました。



お千代は女将さんから着物を受け取ると、笑顔でお礼をします。


「ありがとうございます、女将さん。大切にします」

「こちこそありがとう。お千代」


衿元(えりもと)から真っ黒になっていた着物を脱いで、お千代は女将さんからいただいた着物に着替えます。


「まあ、よく似合っていんす」


それからお千代は手習い道具の入った風呂敷を持って、喜ぶ女将さんに見送られながら茶屋の裏口から表通りにでました。


すると下見世の格子から、松風と須磨がうらめしそうな顔でお千代を見ています。

お千代はふたりの姐に一礼すると、そっとその場を立ち去りました。




一刻の時が流れ、福屋の餅菓子を片手にお千代は波止場へとやってきました。


まだ乾かない髪を海風になびかせ、菓子を口に運びながら波止場の先の方まで歩いて行きます。


顔はまだ鼻のあたりが赤く腫れあがり、ところどころには黒い墨が落としきれていないところもありました。

しかし今日だけは、こんな顔でもいいかなとお千代は思えるのです。



自分が弱者であっても、それを受け入れて踏みにじられるより、傷つけられても立ち向かって自分の心を捨てない方がとても気持ちがいい。


(最終的に本当の強者(おとうさん)が場を収めたけど、私はもうあのふたりに(おび)えることはないんだ)


松野や須磨が下っ端に落ちたからではない。


立ち向かった勇気という高揚感を覚えてさえいれば、つぎもまたふたりの悪意が襲いかかってきても、恐れる心はもうないのだから―――――。



前にこの場所で泣いて死にたくなるような思いをしたけど、今はそんな感情は微塵も感じられない。



お千代が波止場の先端で海を眺めていると、いつぞやの若い漁師が舟を漕ぎながらこちらへ近づいてきました。


「あんた前に海に飛び込もうとしたやつか」

「あのときも飛び込むつもりはなかったんですけど…」


「今日はちったぁマシな顔しとるな。なんかええことでもあったンか?」

「ははは、分かります?」


「べっぴんさんはそれでええ。男を楽しませるンなら、あんたも楽しまンと人生つまらんぞ。じゃあな」


若い漁師はそのまま端島の方へと舟を漕ぎだします。



お千代はそれを見送りながら、さきほどの漁師の言葉について考えます。


(逆に言えば、私がつまらないと旦那さんもつまらないってことだよね……)


それはなんだがすごく当たり前のことで、今まで考えてもみなかったことだった。



「あああああああああああっ!」



海に向かってお千代は叫ぶ。


その声はすぐに波しぶきの音と商船のかけ声にかき消されてしまいました。



それでもお千代は満足そうに海をみつめるのでした。

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