茶屋での対決
あくる日の朝、手習いに使う道具を風呂敷に詰めて、お千代はひさびさに茶屋へと向かいました。
(今日はなにもなければいいな)
と思いつつ、裏口からそっと入ります。
手習いを行う奥の間にはすでに禿たちが座り、読み書きの練習をしていました。
お千代は禿たちの後ろの文机に風呂敷に入れていた道具を置きます。
そして硯に墨をすりながら、禿たち同様にかな文字の練習をしようと思っていました。
(かな文字は読めるようになったけど、書くのは久しぶりだなぁ…)
そんな楽しい気分でみたされているときに、横からいきなり硯を奪われました。
えっ―――。
見上げるとそこには硯をもつ松風、そして須磨。
その後ろにはふたりの腰巾着たちお千代を取り囲むように立っていました。
「また来んしたか。お前、まだ自分の立場が分かってないようでありんすね」
そういうと、松風は硯にすりこんだ墨汁をお千代の頭に浴びせました。
お千代の紙も顔も着物までもが墨汁まみれになります。
そのさまを見ながらふたりの姐遊女たちがあざ笑います。
「これに懲りたら、もう二度と茶屋へは来んしたらいけんせん」
「沖の猿には、それがよくお似合いでありんす」
後ろに控えている遊女たちもクスクスと笑い出しました。
ボタボタと髪をから落ちる墨汁を見ながら、お千代は寅吉の言葉を思い出します。
『許しとは、強者と弱者の間だからこそ成り立つものだ』
だから彼女らは強者だからこそ、弱者の私には何をやってもいいと思っているんだ。
弱者が謝罪を求めたところで、強者だからそれをはねのけるだろう。
そんな彼女たちに今、私はどうすればいい?
どうすれば、どうすれば………。
頭の中でその答えを模索していると、遅れてやってきた弥彦が慌ててお千代のそばに駆け寄りました。
「―――酷い。どうしてこんなにも酷いことが、あなたたちは出来るんですか!?」
「下がれ、下郎」
「お前みたいな小物が、気安く声をかけないでくんなまし」
「どうして同じ遊女なのに、分かり合おうとはしないのですか!」
食って掛かる弥彦の言葉にカチンときた松風が、手にしていた硯を投げつけました。
それは彼の胸辺りに当たりましたが気にも留めません。
禿たちは自分たちが巻き込まれるのを恐れ、中の間の方へと逃げていきました。
「わちきらと沖の遊女と一緒にせんでくんなまし。岡の遊女とは格が違いんす」
「そんなことを言ったところで、やってることは悪党と変わらない。人としては最低な行いをしていることにまだ気づかないのですか?」
「これは遊女としての躾でありんす。そしてお前には関係ないことでありんす」
「しかし、ここで働くものとしては見過ごせません」
それでも弥彦が食い下がらずに前へ出ようとしたところで、お千代は腕を横につきだして制止します。
そして墨汁を垂れ流しながら立ちあがると、松風と須磨を睨みつけました。
「私は楼主さんの許可を得て、ここで読み書きの手習いをしています。そのためのお金も支払ってます。だから、そのことで松風姐さんや須磨姐さんにとやかく言われる筋合いはありません!」
お千代がふたりの姐に反撃の言葉を放つと、松風と須磨は顔を引きつらせながら怒りに震えます。
弥彦もお千代の毅然とした姿にびっくりして、声が出ないようでした。
「くっ、好かねえことをいう口でありんすぇ…」
松風はキッと睨み返すと、懐から扇子を抜いてお千代の顔に叩きつけました。
ちょうどお千代の鼻にバシッと当たり、ダラダラと鼻血が流れだします。
お千代の顔は墨汁と鼻血にまみれ、とてもみっともない姿になりましたが、それでも彼女はふたりの姐を前に真剣な眼差しで挑むのです。
そんなお千代の姿に気圧される松風ですが、下級遊女に負けることはできない意地で彼女の前に立ちはだかり
須磨はお千代が自分たちに屈しないことにイラつき、自分の手下の遊女に前のように痛めつけろと指示します。
両者とも一歩も譲らぬ気配の中となりのふすまが開き、楼主と女将さんが姿をあらわしました。
「これは一体どういうとこだね?」
「まあ、お千代。血が……」
楼主は松風や須磨たちの方へ歩み寄り、女将さんはお千代のところへ歩みより、懐から懐紙を取りだして彼女の顔を拭います。
腰巾着の遊女たちは楼主の登場に青ざめますが、当の松風と須磨は涼しい顔をしていました。
この騒動を楼主へ知らせに行ったと思われる若い衆は、掃除道具を持ち込んでせっせと汚れた畳みを拭きます。
弥彦も楼主が来たことに驚きましたが、部屋の片づけを手伝いはじめました。
「両人とも、なにか言うことはないかね?」
「口の悪い者たちを躾けていただけでありんす」
「この茶屋の格式を守るためでありんす」
そう嘯くふたりに楼主はため息を漏らし、後方で見守る若い遊女に声をかけました。
「胡蝶に蛍、お前たちが今日からうちの二番と三番だ。みなもふたりを見習って励むように」
そして松風と須磨を見据えていいます。
「今日からお前たちは一番下っ端の遊女に格下げだ。部屋も早々に片づけておくように」
ふたりはその言葉を聞いて目を大きく見開きます。
信じられないという顔で楼主を見つめ、声を荒げました。
「このわちきが下っ端!?冗談じゃありんせん!楼主殿でも許しんせん!」
「今までこの茶屋に尽くしたわっちが!?なにかの間違いでありんす」
しかし楼主は本気のようで、腰巾着たちを手で散らすとふたりに最後通牒を突きつけた。
「わしはお前たちふたりが、これまで茶屋を繁盛させる一端を担っていると思っていたから、多少のわがままには目をつぶってやった。でもな、先の客の店替えや今日のお前たちのやりすぎな甚振りに堪忍袋の緒も切れた」
しんと静まりかえる中、楼主はなおも淡々と語る。
「お前たちの客の何人かが、もうお前たちを贔屓にしたくないと申し出ておる。これ以上の客の流出は店のために抑えたい。だから若い者へ客を引き継がせる。お前たちは岡と沖の遊女は違うというが、わしは同じだと思っとる。どちらも大切な『茶屋の商品』としてな」
このセリフに遊女たちはみな、背筋を震わされた。
それは松風や須磨も例外ではない。
「わしの大切な商品に手を出し、傷つけることはまかりならん。そして客に夢を与え金を落とさせることこそが、お前たちのやるべきことだ。客を失望されるような遊女をうちの二番手、三番手に置いておくことはできん。あと松風、須磨、この始末の代金は、ふたりの借金に加えておく」
それだけ言うと楼主は内所へともどっていきました。
松風と須磨は愕然とし、その場にひざをつく。
楼主の言葉の重さに茶屋の遊女たちも誰一人として動けず、しばらくみんなの時が止まったままのようになりました。




