人が人を許すとき
それを聞いて寅吉は面倒くさそうに語りはじめる。
その後、四男と娘がそろって観音参りに行ったときに、
娘の父親が現れた。
継母のせいで家も何もかも失ったから娘に会いたいと観音さまに願い、
修行僧になって探していたという。
娘は父との再会を喜び、また四男も父親に職を与える。
「――このように観音さまにはご利益があるから、読んだ者はみな観音さまを拝めって、…そんな話だ」
寅吉がやれやれといった顔で箸を動かすと、お千代は物語に感動したのか涙ぐんでいました。
「ちゃんと最後はお父さんと和解できてよかった…。やっぱりいい物語ですね」
と彼女が物語の余韻に浸っていると、彼はぶふっと口の中のモノを吐きだしかけた。
口元を手で押さえながらそれを飲みこむと、寅吉はやや怒り気味に吐き捨てる。
「自分を一度は捨てたような父親と再会しても、それを喜ぶような子供はいない」
「娘はそれでも父親を許せたんだよ。りっぱだと思うよ」
「じゃあ何故、許せたと思う?」
「…お父さんだから、かな」
お千代が自分の父親のことを思い出しながらそう答えると、寅吉は至極冷静な顔つきで淡々という。
「違う。自分が権力者の妻となり、失脚した父親より上の立場になったからだ」
「いやいやいやいや、なんでそうなるの!?」
「じゃあお前は、お前のいう鬼とやらが謝罪をしてきたら、何事もなかったように許せるのか?」
その言葉で、心臓をギュッとにぎられたように痛みが身体中に走る。
「鬼だけじゃない。お前が憎むすべての者を許せるのか?」
「―――――それは」
背筋がゾクッとするほど冷たい。
しかし嫌な汗がしとしとと流れでる。
「許しとは、強者と弱者の間だからこそ成り立つものだ。取るに足らない相手だからこそ、人は寛大な気持ちになれる」
「…そう、なのかな」
「お前、こんな物語くらいで感動してたら、また足元をすくわれるぞ」
寅吉は膳をしまいながら、さらに淡々とそう言いました。
でも彼女はそんな情もないことを認めたくない一心で、色々と思考を巡らせます。
が、今日自分が三郎を許せずに突き放したことを思い出し、認めざるを得ない現実に向き合うことになりました。
(情で許せるなら、私はどうして三郎を遠ざけた?幼なじみという情があるなら、そんなことはできなかったはず……)
お千代が感情の渦のなかに飛び込んで浮かび上がることができない。
その様子を冷静に眺めていた寅吉がポンと彼女の肩を叩く。
「そろそろ支払いの時間だ。最後のところは差し引いた価格を提示しろ」
「――あ。…価格?」
「お前のいい値で買うと言っただろ?」
ハッと現実にもどされ、お千代はあわてて口にだしたのは……。
「じゃあ、一両で」
というとんでもない値段だった。
ふたりの間にしばし沈黙のときが訪れる。
そして寅吉が顔を引きつらせながら言葉を吐きだした。
「……お前、どこの大夫さまだよ」
その声は今まで聞いたことのない、心の底から震えあがるようなドスのきいたものでした。
さらにお千代は目だけで人が殺せそうなくらいの殺気を感じ、恐怖に顔をこわばらせてつつ口を開きます。
「あはは…。ただ言ってみただけですよ。一朱銀一枚と百五十文でいいですよ」
「それにあと二百文を上乗せしてやる」
「いいんですか、そんなにも」
「阿呆みたいな値を付けられるとムカつくが、俺もそこまでケチじゃない。それ相応の対価は支払う」
そう言って寅吉は席を立った。
明日は早くに遊女たちも撤収しないといけないので、仕出しの入っていた容器はすべて夜のうちに片づけることになっている。
そのため、まだ船の外で弁蔵が待機していた。
水主たちが遊女たちと一夜を共にする料金を支払ったら、舟へと鍋などの容器を移動させます。
今日は出発も大きく遅れ、空も月明りだけが輝く黒い世界に変わりました。
「これで終わりです」
「ああ」
「もう日が暮れましたがお気を付けて」
「ん」
渡し板を外すと常夜灯を目印に弁蔵は港へと舟を漕ぎだしました。
お千代がそれを見送ると、松野が早く入りなっと彼女をせかします。
「弁蔵もこんなことは慣れっこだから大丈夫だよ。船宿の灯りもまだついてるしね。アンタは早く旦那さんのところへいきな」
「はい、松野姐さん」
人の心配より自分の心配をしたほうがいい。
過去の記憶がそうささやく。
小走りで寅吉のところへ戻ってみると、彼は以前のような緊張感もなく、ただお千代の手を引っ張っていきます。
(あれ、なんだか今日はえらく積極的な気がする…)
そんなことを思いながらついていくと、前は船の底に近いくらいだった彼の寝床がちょうど看板より下くらいの場所になっていました。
「この間のところじゃないんですね」
「上方や下津井と鞆で荷を入れ替えたからな。重い大きな物は北の国で下ろすから一番底の方へ積み上げてるんだ」
などと会話を交わす。
前より空が近くなって月の光がかなり明るく感じられる。
――こういう空間は好きだなぁ。
なんだか落ち着くと、着物を脱ぎながらお千代は思う。
気をゆるめて無防備になっていた彼女の背後から、寅吉が長襦袢の衿に手をかけ、一気に上半身をはだかにしたのだ。
「うえぇえええええっ!?」
いきなりなことにお千代が狼狽していると、彼は彼女の背中に触れて赤黒くなった痣を確認しているようでした。
「思ってた以上に酷いな…。だれにやられたんだ?」
「自分の店のことだから、それは旦那さんでも言えないよ……」
お千代はうつむいていると、寅吉が手にしていた長襦袢を彼女に掛けてこう言った。
「萩屋の三番人気の松風が、若高屋の新人に客を寝取られて腹いせに叩かれたってところか」
「な、な、な、なんで知って―――」
「この港中でうわさになってたからな。自然に耳に入る」
「…そう、でしたね」
今朝からそのことで港町を歩くのが大変だったことを彼女は思い出したのだった。




