向けられた狂気
翌日、空も快晴で波も穏やか、気分も晴れ渡りそうな朝だというのに、お千代の足取りは重かった。
昨日以上のいびられ方をされると思うとさすがに心が持たない……。
ため息しかでないお千代が花街にさしかかると、朝も早くから若高屋の前で女たちが一塊になって怒鳴り合っていました。
耳を塞ぎたくなるような廓言葉が飛び交っているが、要約すると
「人の客と寝た泥棒猫をだせ!」
「お前たちみたいな田舎者が嫌になっんじゃないの?」
「ふざけるな!花街で馴染み客を寝取るのは御法度だ!」
「魅力ある遊女に客が転んだだけのこと、寝取られる方が悪いのさ」
と言い争っているらしい。
下手に巻き込まれると命まで取られそうなので、お千代は横路へ入り、花街を大きく迂回して萩屋の裏口まで到達しました。
その間、もう港町中にこのうわさが広まっているようで、道行く人たちの視線がいたい…。
店に入ると若い衆の人たちはみんな疲れきった顔をしていました。
(ああ、姐さんたちの八つ当たりを食らったんだろうなぁ……)
ある程度は想像がつく。
松風一派の遊女たちが数人出かけているようで、いつものような朝の騒がしさはなりを潜めるが、須磨が自分の手下遊女を引っ提げて奥の間でお千代を待ち構えていました。
うわーっと嫌気な顔を隠して、お千代は須磨にあいさつをしました。
「おはようございます。須磨姐さん」
すると須磨は扇子で口元を隠し、手下の遊女たちと何やらヒソヒソと話しているようでした。
勘弁して欲しいという心境のお千代でしたが、ここから動くことは多勢に無勢で無理だろうとはなっからあきらめている。
お千代が一言も口にせずうつむいていると、須磨の手下のひとりが声高に言葉を発しました。
「お千代。お前、昨日松風姐さんにぶたれたからゆうて、腹いせに姐さんのおゆかり様〔馴染み客〕を誑かして若高屋へ行くよう言いんしたかぇ?」
「そんなこと言ってません。私、松風姐さんの馴染み客なんて知らないし……」
「松風姐さんがそう言っていんしたが、違うといわすことでありんすね?」
「…はい」
姐遊女に囲まれて弱々しく受け答えしているお千代の元に弥彦が駆け寄ってきました。
そして姐遊女たちをけん制しながら言います。
「お千代さん今日は少々立て込んでまして、また後日お越しください」
弥彦はお千代に一礼すると裏口から表に出るよう促しました。
すると須磨の手下の遊女が勝手に割り込んできた弥彦に腹を立てたようで、近くの棚に置いてあった物差しを手にすると、いきなり彼を叩きだしたのだ。
「下郎風情が勝手なマネをしてはいけんせん!」
そう叫んで姐遊女は『この!この!』とムキになったように何度も物差しで彼を叩くのです。
(こんなの酷すぎだよ)
お千代は青ざめながらも姐遊女を止めようと、物差しを持つ彼女の手をつかみました。
邪魔された姐遊女は、下級の遊女に手をつかまれたことでカッとなり、怒りの矛先をお千代の方へとむけました。
そして大きく振りかぶった物差しで、容赦なくお千代の背中をパシッパシッと打ち据えます。
「――――!」
平らな竹製の物差しとはいえ、打たれたところが焼けるように熱くピリピリとした感覚が背中から伝わってきました。
お千代が痛みで体を屈めている姿を見て気がすんだのか、須磨が扇子をパシッと音をたてて閉じると、手下の遊女たちが後ろへ下がっていきました。
「ようざんす。これ以上は無用でありんすぇ」
ニヤリとほほ笑んでそれだけ言うと、二階へと手下を引き連れて悠々と登っていきました。
背中の痛みを押してお千代は弥彦の様子をうかがうと肌が露出したところが赤く腫れていて、誰が見ても痛々しく思える状態です。
しかし彼は何もなかったかのように立ち上がると、お千代に向かって手を差し出しました。
「…大丈夫、ではないと思いますが、立てますか?」
「弥彦さんの方が酷い痣ができてますよ。すぐに手当てしないと!」
お千代は慌てて両手をぶんぶん振っていると、弥彦はすまなそうな顔をします。
「柔らかな布団に入ってお客さんの相手をするここの遊女さんとは違って、沖の遊女さんは船の硬い板の間で相手をするのでしょう?それなのに背中に傷を負わせてしまって……」
「このくらい平気だよ。それより私のせいで弥彦さんをこんな目に合わせてごめんなさい」
「お千代さんは関係ありませんよ。昨日からここの遊女さんたちは荒れてますから―――」
それ以上のことは何も言わず弥彦はお千代を起こすと、裏口から表通りへと導きました。
「また手習いができるようになったら僕がおなごやまで呼びに行きます。それまで茶屋には近づかない方がいいですよ」
「……わかった。本当にありがとう。弥彦さん」
苦笑いしながら見送る弥彦の姿をみて、お千代は複雑な気持ちになりました。
(若い衆の人たちって、大変だなぁ…。遊女からの手酷い八つ当たりを受けながらも仕事をしないといけないんだから……)
それにしても今日は思っていた以上にお茶屋が酷いありさまだった。
まさか物差しで叩かれるとは思わなかった。
須磨一派だけでこれなんだから、松風一派もそばにいたら死んでいたかもしれない。
茶屋は岡の遊女の城。
特に店の二階には沖の遊女は上がることはできない。
それが身分差であり、岡の遊女の誇りでもある。
だから自分たちの城にホイホイとやってくる沖の遊女の私が気に食わないのは分かる。
でも弥彦さんまで叩くことはないじゃないか。
――ま、あんな性格も口も悪い女。うちが男でも勘弁だわ。
昨日の高尾の言葉がよみがえる。
(私も男だったらあんな遊女たちはお断りだよ)
背中の痛みとわき上がる腹立たしさを感じながら、お千代はよろよろとおなごやへと帰るのでした。




