岡の遊女の理不尽な仕打ち
読み書きを始めて数日が経ったころ、店が忙しいようで若い衆の弥彦がお千代にかなを教えていました。
禿たちは今日の手習いはお休みのようです。
「今日はいつもと様子が違うようですが、何かあったのですか?」
お千代はそれとなく弥彦に聞いてみると、思わぬ返答が返ってきました。
「…表ざたに出来ないことらしいのですが、どうも今朝早くに店の遊女が頓死したそうです」
「えっ―――!」
ほかの人たちに聞かれないように弥彦が小声で言うと、お千代は驚きの大きな声を上げそうになったのを手で抑え込みました。
そして辺りをキョロキョロと確認しましたが、誰もこちらの方へは見向きもしません。
ほっとしたお千代は、お手本帳を持っている弥彦に向かって苦笑いしました。
「教えてくれてありがとう。この件はこれでお終いにしましょう」
「そうですね。同感です」
弥彦もやや複雑そうな面持ちでそう言いました。
彼は頓死と言ったが、たぶん自害したのだろう。
この華やかな花街の裏では、ほかの茶屋や遊郭よりかは遊女として生きるのは気安いが、こういったことが多くはないが起こります。
沖の遊女ですら例外ではありません。
原因としては男女のイザコザ、借金苦が多く、遊女が死ぬと深夜に若い衆たちの手で無縁の仏として寺に放り込まれる。
顔色の優れない彼は、今晩、寺に亡骸を運びに行くのだろう。
そんな風に思いながら筆を持ってかな文字を書いていると、二階から降りてきた須磨と松風が寄ってきました。
そしてお千代の前の机から練習をしている紙を取り上げると、須磨は無表情でそれを破り捨てました。
「あっ!」
お千代がとっさに声を上げると、松風は彼女の顔をぴしゃりと叩きます。
「沖の者が何を偉そうにしていんす?立場を弁えなんし」
「こんな時に来ないでくんなまし、早く帰りなんし」
ちぎれた紙をお千代がかき集めているよこで、弥彦がふたりの姐遊女に抗議します。
「親しい遊女があんなことになったからといって、八つ当たりはおやめください」
「新参者の分際で、気安く話しかけんでくんなまし」
松風はそれだけいうと、須磨とともに上見世の方へと去っていきました。
弥彦は納得いかないようで、ふたりのあとを追いかけようとしたがそれをお千代に阻まれました。
「いいんだよ。須磨姐さんも松風姐さんも、今朝のことで気が立ってるんだよ。私は気にしてないから、ね」
「…お千代さんがそういうなら。でもどうして同じ遊女なのにこんな酷いことをするんだろう」
「同じじゃないよ、岡と沖の遊女はね」
お千代がそういいながら片づけ終えると、風呂敷に手習いの道具をつめて帰り支度をします。
「今日はありがとう、お店も忙しそうだから帰るね」
「え、まだ時間では…」
「いいんだよ。私がここにいて気分を悪くする遊女さんがいたら店のためにはならないからね」
「お千代さんは何も悪くないよ」
「ふふ、ありがとう。じゃあね、弥彦さん」
混乱ぎみな弥彦がオロオロしながらお千代に伝えると、彼女は風呂敷包みを手に持って、笑顔で手を振りながら裏口から表通りへと出ていきました。
そして花街からでるとお千代は大きなため息をついて疲れた顔になり、ヒリヒリと痛む頬をなでながら、餅菓子の福屋へふらふらっと足を運ばせます。
(――痛い。けど、顔見知りの姐さんたちはもっとつらいんだろうな……)
須磨姐さんも松風姐さんも気丈な人だから、泣くに泣けないんだろうね。
それに仕事もあるから、お客の旦那さんたちに泣き顔もみせられない。
お千代はそう自分に言い聞かせていた。
福屋の主人に顔のことを聞かれたが、『ちょっと柱にぶつけて』と笑顔で答え、今日は住吉神社の近くにある人の少ない波止場で餅菓子を口にする。
「今日のあんこ餅はちょっとしょっぱいなぁ…」
今日は潮風すこしきつく、空もどんよりと曇りはじめていた。
沖で停泊していた船や商人の小舟が波止場まで避難しています。
それでもお千代は無心に海を眺めていました。
―――理不尽な八つ当たりに心が傷つかないワケじゃない。
怒りや悲しみをあらわにしたところで、相手は岡の遊女。
もとより下級の遊女であるお千代は諦めるしかないのだ。
だから相手にしない方が楽、ということもある。
しかし、湧き上がる感情を抑えることはまだまだ至難の業。
こうしてひとりになって心を落ち着けることしか解決方法はないのでした。
何の気なしにお千代は懐から財布を取りだします。
財布にひも付きの小さな鈴が取りつけてありました。
(魔除けの鈴だし、大事にしまっておくよりこうして身に付けてる方がご利益がありそうだよね)
風にゆれて小さな鈴がコロコロと鳴る。
その心地よい音色を耳のそばで聞きながら、海をみていると自然と気持ちが和らいでゆくのでした。
しばらくしてぽつぽつと雨が降り出し、辺りが薄暗くなりはじめます。
お千代は財布を懐に押し込み足早におなごやまで走りだしました。
(この調子だと今日のお仕事はお休みになりそう…)
嵐になると水主たちも女を抱いてる暇はない。
そのため沖の遊女たちの一日分の借金の利子は、仕事をしなくても加算される。
案の定、おなごやへ帰って来たら姐遊女たちの険しい顔で迎えられた。
「弁蔵から夕方までに波が収まらないと今日は舟がだせないと言ってきたよ」
「梅雨入りにはまだ早くねぇか?」
「港に停泊しています船も少ないですし、どのみち今日は商売あがったりですわ」
はあ、と三人は大きくため息をついた。
でも日ごろから能天気な高尾は、すぐに気持ちを切り替えて言う。
「でもまあ、うちらとしてはこれでよかったんじゃね?」
「なにが、…ですか?」
濡れた髪を拭きながら、高尾の言葉の意味が分からないお千代が問います。
すると志乃がつまらなそうな顔をして答えました。
「若高屋の岡の遊女が、わたくしたちの所属している萩屋の客を寝取ったらしいのよ」
「あちらはこの花街で一番大きな茶屋でうちらは一番小さい。だからあまり揉めたくないんだよねぇ」
「でも今、岡同士がすげぇ揉めてると思うぜ。はははっ」
松野は目頭をさすりながら面倒くさそうにしているとなりで、高尾は腹を抱えて笑っていた。
いつものような遊女同士の激しい争いとは無縁な様子に、お千代は不自然な疑問を覚える。
「それで、どなたが旦那さんを取られたのですか?」
お千代が目を見開いて姐遊女たちに迫ると、松野と志乃は目線を反らして口をつむったが、高尾は言う気マンマンな顔をしていた。
「くっくっくっ。アイツだよアイツ、いつも沖の遊女に因縁つける女!」
「――それってまさか」
お千代は息を飲んだ。
今日、自分に八つ当たりをしてきた姐遊女だからです。
「松風だよ。ま、あんな性格も口も悪い女。うちが男でも勘弁だわ」
そういって高笑いをする高尾と対照的に、お千代は明日のことを考えると目の前が暗くなってしまうのでした。




