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内海の遊女 風待ちの港 沖乗りの島  作者: 青丹よし
第三章:今の自分にできること
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それが答えでなくとも

おなごやに着くころには涙もとまり、土間の水がめから柄杓(ひしゃく)で水をすくって飲み干す。

そして手拭いで顔を拭いて板の間に上がると、すでに姐遊女たちは仕事着に着替えていました。


「お千代、遅い!どこでほっつき歩いてたのさ。さっさと支度なさい」


といつもの調子で松野はお千代にいいます。


(松野姐さん、もう機嫌はよくなったのかな)


松野に叱られお千代は気が引き締まり、のどに詰まっていたモノがつるんと落ちていったような気持ちになる。

しかし高尾と志乃の姐たちは部屋の隅でガタガタ震えていました。


――これは、何も言っちゃいけない。


そう感じると、これ以上松野の機嫌を損なわないように、余計な事は考えないように、お千代は仕事の支度に集中します。

髪はいつものように震える手付きの志乃に手伝ってもらいました。


髪を結ってもらっている間お千代がおとなしく座っているときに、チラリと松野の方に視線を向けると、彼女は物憂(ものう)げな顔つきで格子窓から外を眺めているようでした。


(松野姐さんも元いた場所でいろんなことがあったんだろうな……)



安易に人の傷に触れてはいけない。


でもふとした切っ掛けで触れてしまうことがある。


このとき、どうしていいのか私にはまだ分からない。


だからもう、なかったことにしよう。


相手もそれを望んでいるはずだ―――。



顔に化粧をほどこしたら、過去も未来もない今を生きる遊女に変わる。



舟の順番待ちで手持ち無沙汰(ぶさた)なときは、屋台でうどんを食べるのが日課。


冷たい潮風の中で食べる温かいうどんは格別なのだ。

よその茶屋の遊女たちも、屋台のおじさんから熱々のうどんを受け取りその場でいただいている。


ちゅるんと口の中へ滑り込んでいくうどんを浅く()んで飲みこみながら、お千代が舟の前の桟橋(さんばし)に立っている弁蔵を見ていると、高尾と志乃が彼のそばに寄って何やら話をしているようでした。


(高尾姐さんが必死に弁蔵さんを拝んでいるのはなんでだろ?)


しかし弁蔵は手をよこに振り、相手にもしていない様子。

それでも高尾が食い下がっているようでした。


(何かあったのかもしれないけど、余計なことはしないでおこう)


今日だけでも色々なことがありすぎたので、これ以上周りのことを深く詮索(せんさく)するのはやめておこうと、お千代はうどんの汁をすすりながら思いました。


弁蔵さんが沈む船の船頭を助けたのは近くにいたからだろうし、松野姐さんの旦那さんのことも知らなくてもいいとこで、三郎がサヨのことや家族のことで悩んでいるのも私には関係ない。

そして高尾姐さんと志乃姐さんが弁蔵さんに助けを求めているのも他人事だ……。


――下手な好奇心は身を滅ぼす。


それで何度人を傷つけて自分をも傷つけたか…、時として知らないフリをすることも必要だと、お千代は大人ぶって考えてみる。


(こういう時こそ”いろは唄”でも口にしよう)


どんぶりを屋台のおじさんに返すと、人の少ない雁木に座ってひとり海に向かって唄を歌う。

これがどんな唄でどんな意味があるのかは、分からない…。


読み書きを教えてくれる若い衆のおじいさんが『これは読み書きの基本だよ。基本をしっかり学ばないと、ほかの文字すら覚えられないぞ』と教えられたのだ。


(唄を覚えるのは簡単だけど『じゃあ、かな文字で書いてみろ』と言われたら書けない……)


明日、おなごやへ帰ったら夕霧姐さんからもらった本を読んでみよう。

分からないところは松野姐さんに聞けばいい。

とにかく自分で読むことで字を覚えないと!


お千代が自分に気合を入れて立ちあがると、舟まで堂々とした歩みで向かうのでした。



舟の中へ入ると、さきほど弁蔵と話をしていたふたりの姐がコソコソと内緒話しをしています。

そして高尾がお千代のとなりに来ると、小声でこういいました。


「弁蔵に松野姐の機嫌をとってもらうように言っといたから、今日はちょっと舟が出るのが遅くなるけどいいよな?」


「へー、弁蔵さんが…。断ると思ってたけど」


「そこは―――ほら、弁蔵は松野姐さんとそこそこ仲がごよろしいですから…」


「そうそう、無茶苦茶なこと言ったワケじゃないからな」


高尾と志乃が焦るように、誤魔化すように、目を泳がせながら言います。

お千代は鼻から息を吸って口から出すと、ふたりに含みのあるようないい方で答えました。


「そういうことにしておきますから、松野姐さんへの詮索はもうお終いにしましょうよ」


「…だな」


「わたくしも昔のことをほじくり返してしまいましたわ。今はどうなのか知りませんのに……」


「そうですね。人に言えないことなんて、みんな持ってると思うし――」


そういいかけて口を閉じる。


余計なことを言いかけた。

せっかく(まと)まりかけてるのに、私はバカだ。


しかし高尾も志乃もすこし黙ったあと、納得するように口を開いた。


「お千代の言う通りだな。人には触れてほしくない過去ってあるよな」


「わたくしもですわ。本当にうっかりですわね」


ふたりはうんうんと首を振りながら、何かを考えているようでした。


(軽口は厳禁、もっとちゃんと考えてから口にしないと…)


さっきのことは結果がよかっただけで、つぎはこうなるとは限らない。


――旦那さんたちにも、もっと気を配らないと!


この経験を活かしてつぎに繋げるんだとお千代が両手をにぎっていると、弁蔵と話し終えたであろう松野が舟の中へやってきました。

そして妹分たちの方をみると、あきれたような声でいいました。


「アンタたち、あたしのご機嫌取りで弁蔵を使うんじゃないよ!こんなことで人を頼ろうだなんて、そんな遊女に育てた覚えはないよ!はぁ、情けない…」


松野は言葉とは裏腹に、どこかうれしそうな顔をしていました。

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