番外編:寅吉の過去・後編
その後も、やはり男に捨てられた遊女が自決したり、好いた男と逃げて連れ戻されることもあれば、心中していたりと、男に恋い焦がれている女たちは何かと騒ぎを起こした。
そこから男を生きる希望にしている遊女は、とても脆いということを学んだ。
男に失望した遊女は客には笑顔で、俺や若い衆に当たり散らすことで仕事で溜まった男への恨みの溜飲をさげていた。
元から仕事以外は男と距離を置く遊女は、客の扱いにも長けていた。
そこには男より自分を磨くことに生きがいを見出していたのだと思う。
そして母の場合は、俺がいるということだけで生きていたんだなと感じるようになっていた。
だから俺は母に心配をかけないように生きることしかできなかった…。
それから月日が流れ、俺が十一だったときに母は病気であっけなく逝った―――。
死ぬまで母は俺に『ごめんね、ごめんね……』と何度も繰り返し謝っていた。
それは、母が死ぬと同時に俺が借金を背負うことになるからだ。
母の亡骸はほかの遊女と同じように、つぎの日には消えていた…。
身内もおらず、借金を抱えて色里にから追い出されることになった俺を、母の馴染みの客だった直江屋の主人である勘兵衛に引きとられることになった。
勘兵衛さまは自分の店で働きながら借金を返せばいいと仰られた。
そして読み書きも算術も学ばせてもらった。
一般的に十四になると廻船に乗ることができたが、やくざ付きの俺には無理なことだった……。
船に乗ることができれば今よりもっと稼げるようになるが、やくざたちから逃亡したとみなされれば勘兵衛さまが責任を取らされることになる。
俺を引き取るために、やくざとそういう取引をされたそうだ。
仕方なくそれからも勉強に励んで、仕事を覚えて地道に借金を支払っていた俺の前に、あの男があらわれた。
田舎で商売に成功し、その金を元手に港町で店をかまえたという…。
ちょうど勘兵衛さまの付き添いでその店を訪れると、男と化粧の濃い女に小さな子供がふたり、とても裕福で幸せそうな暮らしをしていた。
勘兵衛さまがあいさつをしたあとで俺は名だけを言うと、その男は昔を懐かしむかのような顔をして言ったのだ。
『死んだ息子と同じ名前だ』と―――――。
俺が『そうなんですか?』というと、男は『寅年に生まれた子だから寅吉と名付けたんだ』と答えた。
その言葉を聞いて俺は確信した。
――すべての元凶がここにいたのだと。
男の中では捨てた妻子は、もう死んだことになっていた。
本当に俺以外はみな死んだのだから、笑うしかない…。
そしてこの男は自分の子供の顔すら覚えていないのだ。
俺もおぼろげながらにしか記憶にないが、その男こそが女と逃げた父親だった。
母に借金をおっかぶせた遊女だった女も、今ではりっぱな女将きどりで、俺を格下の奉公人という態度で目を細めてみていた。
腹立たしいが、性急に行動するとまた逃げられる可能性があるので、しばらく様子をうかがうことにした。
勘兵衛さまにも迷惑をかけることだけは、絶対にできない。
むこうも俺とは気づかず、日々笑顔と笑いの絶えない暮らしをしていた。
そんなやつらの暮らしぶりに、内心はらわたが煮えくり返るような思いをしていたが、色里で学んだ感情を表に出さないという特技で、心をすり減りながら毎日をやり過ごしていた。
そして一年ほど経ったとき、俺は借金の催促にきていたやくざ者に自分の父親と遊女の居場所と懐具合を話した。
口の端を吊り上げたやくざは『このことは口外するな』と箝口令を敷くと、足早に走り去って行った。
それからひと月ほど経過した。
あの男の店はいつの間にかに売り払われ、あの家族もいなくなっていた。
そして勘兵衛さまが、もうやくざが俺から手を引いたと教えてくれた。
『これで来年からは水主として船に乗れるね』と肩を叩いていただいた。
―――やっと俺は自由になれた。
勘兵衛さまから、あの男が店を畳んで夜逃げしたと聞かされたときは、すこし胆が冷えたが、それ以降はあの男のことを話さなくなり、気づかれずに何もかもが終わったんだと思えるようになった。
その後やくざは一度だけ俺の前に姿を見せて、つむいだ口元で一本指を立てると、懐から十両もの大金を取りだし俺に手渡すと、そのまま何も言わずに去っていった。
――俺は即座にそれが口止め料だということを悟った。
やくざたちはそれ以上の大金を手にしたということなのだろう…。
それから俺の中で、父もあの女もその子供のことも、すべてがどうでもよくなった。
すっきりしたという気持ちではないが、借金という重荷がなくなり、船にも乗れるということだけで幸せな気分になれた。
何もかも失ったからこそ、見えてくるものがある。
生きるということは戦いなのだと―――――。
そして今、俺は船に乗って海を眺めることができている。
海を見ながら物思いにふけっていると、船の後方からがたいがいい歳は初老に差し掛かったくらいの男がやってきた。
「おーい、寅っ子。ヒマしてんなら宗太じいさんの手伝いでもやってくれんか?」
「…又助さん、わかりました」
又助さんはこの船の船頭で、飄々としているが商売人としてはかなりのやり手だ。
俺はたまに知工の宗太さんの手伝いとして、荷の数の確認と簡単な計算仕事をやっている。
いつまでも炊のままではいられない。
水主の世界は実力主義だ。
出世して、自分の船が持てるくらいにならないと、いつまでも人の下で雇われてるだけの万年平水主になってしまう……。
俺はいそいで舟の中へと降りていくのだった――。
船頭の又助はそのままふらりと船の先頭で海を眺めている与作のそばに寄っていく。
そして懐からするめイカを取りだして、ゲソの部分にかぶりつき、くっちゃくっちゃと音をたてながら言った。
「なぁ、与作さんよぉ。あの寅っ子は使い物になりそうか?」
「おお、又助さん。…寅吉のことですか?あいつはなぁ、頭もいいし物覚えも早いが、もう少し頭の柔らかいやつだったらよかったんだけどなぁ……」
与作はため息をつくと、腕を組んで首をコキコキと動かしはじめる。
「まあそこいらの馬鹿どもよりかはマシだな。で、女の方はどうだったか?」
「めずらしく自分で買った女とも寝なかったってよ。若いクセに下の男が死んでるのかねぇ。遊女嫌いもあそこまでいけば、もう病いみたいなもんだよ」
お手上げという動作をとって、与作はあきれた口調でそういった。
話を聞いた又助はカカカッと笑ってこういうのだ。
「あれは遊女が嫌いんじゃない。遊女が、女が怖いのさ。――寅っ子は色里の出だからな。わしらは遊女のキレイな表の顔しか見たことねぇが、寅っ子は裏の裏まで見てきたんだと。そりゃあ下の男も役に立たなくなるわな。ぷぁはっはっはっ」
その話を聞いてぎょっする与作に、又助は彼の背中を三度ほど強く叩いた。
「そんなワケだから、悪いがもちっと長い目で寅っ子の面倒をみてやってくれや」
それだけいうと、又助はするめイカをヒラヒラさせながら再び後方へと去っていった。
ひとり残った与作は、しばらくその場で固まってしまう。
その間も船は目的地を目指して、帆に風をうけながら進んでいくのだった―――――。




