心の傷
そんな寅吉をみて、お千代は思います。
そばでともに寝ることだけが、この人の最大の譲歩なんだと。
だからそれ以上は、誰も立ち入ることはできない。
一時の情で流されてもここまでしか踏み込ませない。
何の思慮もなく入り込もうとすれば、たちまちに噛み殺されるような心の寄る辺があるのだ。
お千代はもう何も考える気力もなく、寅吉の温かさを感じながら眠りにつきました。
翌日、船の激しい揺れを感じてお千代が目を覚ますと、となりで寝ていた寅吉の姿はすでになく、遠くから水主の人たちの怒鳴り声が聞こえてきました。
のそのそとお千代が夜着から抜け出ると、バタバタと松野が走り寄ってきました。
「お千代、また船に酔ってるのかい?急な嵐がきて船から出られそうもないって言われたんだ。弁蔵も迎えにこれそうもないくらい海が荒れてるそうだよ」
「…今日は大丈夫です。それじゃあ松野姐さん、私たちはこのままこの船の中にいなきゃいけないってこと?」
「とりあえず積み荷のない場所で待機してて欲しいみたいだよ。あとのふたりもそこへ行ったから、お千代も早く着替えな」
「はい、松野姐さん」
急な展開に混乱しながらもお千代は着物を着て、寅吉の夜具を近くの行李に詰めてから松野と移動しました。
高尾と志乃が先に移動した船の荷物置き到着すると、ふたりは身を寄せ合っています。
吉屋の遊女たちは、この荒波に酔って別の場所で伏せっていると松野は言いました。
「松野姐とお千代、遅いじゃねぇか」
「そうですわ、高尾とだけじゃ心細いですわよ」
「アンタたち、この程度の嵐がなんだっていうのさ。沖の遊女がこれくらいでビビってんじゃないわよ!」
震えながら文句をいうふたりに、松野が雷を落とす。
ふだん波が高い日は舟を出すこともなく、おなごやに籠ってダラダラすごしているで、朝起きてこんな高波に出会うことは滅多にない。
「はっはっは。いつもは威勢のいい高尾も、この嵐には勝てないか」
そういって表司の与作さんがずぶ濡れのままやってきました。
「旦那、それじゃ濡れねずみだよ。上はそんなにヒドイのかい?」
「風と雨がキツくてな。蓑をつけていてもこのありさまだよ」
与作は笑顔でそう言った。
すると志乃が肩を落としてすすり泣きます。
「わたくしたち、このままこの船と共に海の藻屑と消えるのね」
「いやいや嬢ちゃん、この程度のことで船が沈んでたらおれ達の命がいくつあっても足りねぇよ。昼ごろには波も収まるから安心しな」
「本当ですの?」
「船は波止場の中に寄せたからな、雨がやんで波が穏やかになったら迎えの舟もすぐ来る。ま、それまでここにいてくれや」
それだけ言うと、与作は再び甲板へと戻って行きました。
彼の姿が消えたところで志乃は泣くのをやめ、懐から扇子を取りだして顔に向けて仰ぎます。
「昼には帰れるのね。でしたらしばらくここで休んでいましょう」
その態度に高尾は怒り出しました。
「人の旦那に色目使うなよ!」
「有益な情報を手に入れるための方便ですわよ。それにわたくし、むさ苦しい殿方は好きじゃないから安心おし」
「…ホントこいつ殴りてぇ!」
じゃれ合うふたりに呆れる松野は、それでも昼にはこの状況も収まると聞いてすこしほっとしているようでした。
お千代はというと船の端に身を寄せて、色々なことを思い出していました。
(あーあ、何だか心どころか身ぐるみはがされて、丸裸になったような気分…)
―――なんでも笑顔で誤魔化して、誰も心の奥底までは寄せ付けない。
お千代の心に築いていた壁を、寅吉は二日という短期間に的確に見抜いていたことに、彼女は衝撃を受けていました。
さらにその壁に穴を空けられてしまったことで、お千代はいつもの笑顔の仮面が付けられない状況に陥ってしまっている。
(あの男、本当に容赦ないなぁ……)
忘れたいことも思い出して、笑うに笑えない――。
人とは表面上で上手くやっていれば、今まで何も問題はなかった。
初音さんのこともそうだ。
夕霧姐さんに頼まれたけど、結局のところ女将さんに丸投げして逃げたのもそのためだった。
自分のことで手いっぱいなのに、人の荷物まで背負いきれない。
でも、いつも笑って「私は大丈夫」的な雰囲気を見せているから、さらに人のことまで重荷を乗せられる。
―――人との関係はとても面倒なものだ。
しかし人はひとりでは生きられないから、たくさんの人とのつながりはあった方が生きていくのには楽な面もある。
この程度の苦労は誰しも抱えていると思うんだ。
だけどそれ以上の深いつながりはいらない、欲しくもない。
誰も私の心まで入らせない。
そして誰の心にも入らない。
(…だってさ、信じても好きでも長くそばにいても、――私なんかいらないって捨てられるんだ)
人は私を傷つけるだけ、今も治らない傷口から絶えず血が流れだしている。
――もう私は傷つきたくないんだ。
私を傷つける人しかいない里から出ていくために遊女になって、知らない男たちに抱かれて、…でも男の人はからだを差し出すと、みんな優しくしてくれるんだ。
人から傷つけられるより、人に優しくされたい。
だから遊女でも優しくしてくれるこの港町が好き。
――それはまるで、あの鬼たちとやってることが変わらないと知っていても、それが心地よかったんだ。
でも、そんな生き方をしたところで、心の傷が癒えることはない。
発作的に暗闇に沈むような感覚に陥ることも収まらない。
(自分で解決しなきゃダメだと寅吉さんはいっていたけど、どうしていいのか分からない……)
人と深くは関わりたくないと思っていても、ひとりでいる本当の孤独は味わいたくはない。
やはり誰かに頼りたくて、心の重荷に押しつぶされたくはないから、誰かに縋りたくて、…心の中がぐちゃぐちゃになることもある。
そういう気持ちはあの人にはないのだろうか。
誰の助けも必要としない生き方ができるのだろうか。
そこへ到達すれば、本当の楽しい生き方ができるのだろうか―――。




