彼女は知っている
「そいつはつるの知り合いなのか?」
お千代がこの場に来たことで戦意を失った三郎が、やや小声でそう聞いてきた。
彼女は三郎の方に目を向けて、嫌そうな感じで答える。
「あら、まだ居たの?こんなところでのんきに油売ってていいの?」
「……。それはよくはないが、オレは初音が心配で――」
しどろもどろに答える三郎の姿をみて、お千代はうんざりした顔つきをした。
「サヨのつぎは初音さん、ね。初音さんをあの娘の代わりにして、いい男気取りしないで欲しいな」
「初音を、サヨの代わりになんか、……してない」
「でもさぁ。初音さんの今の旦那さんにケンカ吹っ掛けて、一番迷惑してるのは誰なのか分かってるの?」
「なっ――」
ただ純粋に初音のことが心配だった三郎は、周りのやじ馬に今さらながら気づいて真っ青になる。
やっと状況が見えたのかとお千代はフッと短く息を吐くと、犬を追払うような手振りを三郎に見せた。
「初音さんは来年には上見世に座ることになってるから、浜仲仕のあんた程度じゃ買えなくなるよ。だからもう、彼女から手を引いたら?」
「………」
お千代の辛辣な言葉に三郎は身を震わせながら無言になる。
周りのやじ馬たちも『まだ若いからべっぴんさんに本気になるんじゃろう』と、憐みの眼差しで三郎を見つめていた。
さっきまでケンカ相手だった寅吉ですら、『あーあーあー』と声を漏らしつつ、彼に対して人並みくらいに同情しているようだった。
その視線に耐えきれなくなった三郎は、顔を伏せなら人並みを押しのけて走り去っていった。
ケンカも収まりこれで一件落着とばかりにやじ馬たちも、何事もなかったように立ち去って行く。
初音は気弱な自分の所為で起こしてしまった騒ぎなのに、最終的に三郎を傷つけてしまったことに涙しす。
それでもこの先もっと上を目指すなら、このくらいのことで感傷に浸ってはいけないと思いながらも、心優しい初音は溢れ出る涙をこらえることはできなかった……。
そばで見守っていた弥彦はひと段落ついたことで、座って口を開けたまま生気のない小波の拘束をとくと、かしこまった表情をしてお千代の元へかけてくる。
「本来なら僕が対処しないといけないのに、お千代さんにはお手数おかけしました」
弥彦は改まった口調で言い一礼をする。
いえいえとお千代はちょっと照れ笑いをしている様子をみて、寅吉はぼそりとつぶやいた。
「……ついさっきまで小バカにしていた女に助けられてるなんてな」
その言葉に動揺した弥彦は表面上の冷静さを装う。
「僕はお千代さんのことをバカにしたことありません」
「口ぶりがそうだったじゃないか」
「アレは茶屋としてのことで、決してそういう意味では――」
「俺にそこの遊女にころべって言ったのは、紛れもなくお前だぞ?」
寅吉はニッと口の端を上げて笑みを浮かべる。
ぐぐっと顔を歪めた弥彦は、それでも怒りの表情だけは見せないように頬をぴくぴくさせて笑顔を保っていた。
お千代は手を叩いてふたりを引き離すと、寅吉の脇腹をひじで小突く。
「若い衆の弥彦さんが初音さんを推すのは当然だよ。私は気にしてないからケンカを売らないで」
「いってぇなぁ。別にケンカを売ってたわけじゃないぞ」
わき腹をさすりながら寅吉が子供のように腹を立てる。
しかしお千代はお構いなしに無機質な声を口から発した。
「私はね、初音さんのためにケンカを止めたんだよ。だから弥彦さんがどんなことを口にしていても気にしないよ」
「お千代さん……」
「………」
お千代の言葉に弥彦はほっとしたような表情をし、寅吉は怪訝そうな顔をする。
さらに満面の笑みで彼女はこう言うのだ。
「それに私、男に踏みにじられるのには慣れっこだから平気だよ」
寅吉はなおもにこにこと笑っているお千代をみて、大きくため息をつく。
そして彼女の言葉の意味を悟って気まずくなっている弥彦の背中をはたいた。
「もうお前はそこの遊女を連れて帰れ。またその女目当ての男にからまれるのはごめんだ」
「でも、それでは――」
「お前は口先だけで役に立たん。それとも、また都合のいい時だけお千代に頼るのか?」
弥彦の胸をワザとえぐるような厳しい物言いをする。
先ほどのことで何も出来なかった彼は、寅吉の言いざまに不服だったが言い返せるような愚かなマネも出来なかった。
「弥彦さん、わっちどもは帰りんしょう。主さま、ご迷惑をおかけしんした。お千代さんをたのみんす」
「……分かりました。僕たちはこれで失礼させていただきます」
初音は寅吉に向かって深くお辞儀をする。
弥彦も軽く頭を下げて、彼女とともに茶屋へと帰って行くのだった。
だがここで、話についていけなくて押し黙っていた小波が、身体を震わせながら恐る恐る寅吉に言った。
「なんでアタシじゃダメで、お千代姐さんはいいんだよ。あんた、女の趣味が悪いんじゃない?」
はあっと面倒くさそうに寅吉が小波の前まで歩いく。
ブルブルと生まれたての馬の子のように恐怖に震える彼女を見下ろして、冷たい視線を浴びせドスの効いた低い声色で言い放った。
「さっさとお前も立ち去れ、――ガキが」
「ひっ……」
小波は怖気づいて顔を強張らせた。
そして足をもつれさせて何度か転びながら走って逃げる。
寅吉はやれやれと肩を回しながらお千代のところへ戻った。
彼女は未だに不気味な笑顔をしている。
「……ちょっと、こっちに来い」
「寅吉さん?」
お千代の手を引っ張り、寅吉は港町の中へと進んでいくのだった。




