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復讐

「・・・ん、んん?ここは・・・ひぃ!?」


 失った意識に、それを取り戻した目蓋は重い。

 それは擦ろうとしたそれに、うまく出来なかった両手にも原因はあるだろう。

 そうしてようやくその目蓋を開いた九条一華が目にしたのは、もはや人間であったかどうかすら疑われるほどの惨殺死体であった。


「目が、覚めたか?」


 その声は、正面から聞こえてきた。

 一華がそちらへと目を向けると、そこには椅子に座り、冷たい瞳でこちらをジッと睨みつけている匂坂幸也の姿があった。


「・・・匂坂、幸也。貴方、一体何のつもり?こんな事をして、ただで済むと思っているの?今ならまだ、取り返しがつくわよ?解放してくれるなら、何もなかったのことに―――」


 目の前の匂坂が何をしようとしているかなど、彼がその手で弄り続けているナイフと、自分の身体を椅子に縛り付けている縄を見れば一目で分かる。

 それでも一華がそれに気付かない振りをしていたのは、そうする事が唯一の生き残る手段だったからだろうか。

 今なら全てなかったことにしてあげると語る一華の言葉はしかし、それを聞く気のない者の耳には届かない。


「何もなかった事に、だと?ふざけるなっ!!母さんを・・・唯を殺しておいて、よくもそんな事がいえるなっ!!!」


 それどころか、その言葉は彼の感情を逆撫でしてしまっていた。

 一華の惚けた言葉に激昂する匂坂は、椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、一気に距離を詰めて彼女へと掴みかかる。

 彼がいきなりその手に持ったナイフを彼女へと突き刺さなかったのは、僅かに残った理性のためか、それとも余りに大き過ぎる怒りがそんな手順までをも忘れさせてしまっただけか。


「な、何の事かしら?大体その当時、私はこの国にいなかったと前に・・・」

「斉藤紀夫、本人に聞いた。お前から依頼されたと」


 怒りと憎悪に目を血走らせる匂坂に、それでも一華はなにも知らないと惚けていた。

 それはそれを認めてしまえば、彼が自分を殺すということが分かっているからだろう。

 しかし匂坂は、確かな確信を持ってこの場に臨んでいたのだ。


「斉藤、紀夫・・・そう、あの男が。私もついてないわね」


 その名を聞いた一華は、諦めるように溜め息をつくと、自嘲気味に笑みを漏らす。

 彼女もまた、憶えていたのだろう。

 自らが命令を下した、その男の事を。


「それで・・・何が望み?」


 もはや言い逃れは出来ないと開き直った一華は、罪から逃れるのではなく、罰を別のものへとすり替えようと試みていた。

 九条の全てを手に入れようとしている彼女からすれば、その命と引き換えに出来るのならばなんだって差し出せるのだ。


「望み、だと?そんなの決まってる、お前の―――」

「本当にそれで満足出来て!?今、私を殺したところで貴方が得るものは何もない!!でも!私を解放すれば、何だって手に入る!!良く考えなさい!!」


 しかし当然、匂坂はそれを一蹴する。

 それは一華も分かっていたようで、彼が怒りのままに怒鳴りつけるよりも早く、言葉を畳み掛けている。

 しかしそんな言葉で、彼の心が揺れ動くだろうか。


「ふざけるなっ!!そんなもの・・・そんなもので、僕が買収出来ると思うな!!!」


 答えは否である。 

 寧ろそんな言葉は、彼の怒りを助長させるだけで、フルフルと震える拳を抑えきれない彼は、それをそのまま一華へとぶつけていた。


「ぐっ!?・・・な、殴りなさい!それで気が済むのなら、好きなだけ殴るといいわ!!」


 匂坂の強烈な一撃をもろに食らい、その唇から血を溢れさせる一華はしかし、それこそが生き残る手段なのだと、もっと殴れと彼に挑発している。


「言われなくてもっ!!」

「がっ!?・・・ふ、ふふふ・・・どう、少しは気が済んだ?」


 復讐のターゲットに、振るう暴力を躊躇う理由などない。

 一華の安い挑発にも、匂坂はその拳を振るう。

 しかし彼に顔面を強打された一華は寧ろ、嬉しげな笑みを浮かべると、それで少しは気が済んだかと彼に尋ねていた。


「こんな事で・・・こんな事で気が済む筈がないだろ!!」

「・・・それでも、貴方はもう殴らない。そうでしょう、お優しい匂坂幸也君?」


 痛んだ皮膚の炎症に腫れ上がっている彼女の顔は痛々しく、これ以上殴りつけるのは気が引けてしまう。

 事実、収まる事のない怒りを叫んだ匂坂は、その拳を振り下ろすことが出来ずにいた。

 そんな匂坂の姿ににっこりと笑みを作った一華は、その口の端から零れる血の轍で自らの唇を飾っていた。


「ねぇ、どうかしら?いっその事、貴方がお父様の血を引いていることを公表しない?今や本家に、男の後継者はいない。貴方が名乗り出て、私がそれを保証すれば逆らう者はいなくなる。どう、悪くない話でしょう?」


 実際の所、復讐のターゲットを一方的に殴りつけるのは気持ちがよく、その物理的な感触は大いに溜飲を下げさしてしまうだろう。

 そうして明らかに匂坂の怒りが鈍ったのを見て取った一華は、そのタイミングを見計らってある提案を持ちかける。

 それは彼と彼女が協力して、九条家を支配しようというものであった。


「貴女は・・・この期に及んで、そんな事を言うのかっ!!!」


 しかしそれは、匂坂の復讐心に再び火をつけるだけの結果となってしまっていた。

 一華がその財産を守るために、彼の家族は殺されたのだ。

 今また、その財産を譲るから助けてくれといわれても、彼がそれを受け入れられる訳もない。

 手にしたナイフを握り締め、匂坂はそれを強く振り上げる。


「ま、待って!!お願い、気に障ったのなら謝るから!!あさひ、あさひ!!まだ来ないの!!!」


 目の前に振り上げられた致命の姿に、一華は必死に制止の言葉を叫ぶ。

 それが通じそうもないと悟った彼女は、この場にいない少女の名前を叫んでいた。

 一華が匂坂の気を逆撫でるような際どい言葉を選んでも、どうにか交渉を長引かせようと話し続けていたのは、どうやらその少女の到着を待っていたからのようだ。

 しかしこの場に、彼女が表れる気配はない。


「そうだ!どうせ殺すなら、楽しんでからの方がいいでしょ!?身体には自信があるの、がっかりはさせないわ!!」

「もう、黙れよお前」


 待ち望んだ救世主が現れる気配がないのならば、どうにかしてさらに時間を稼ぐしかない。

 一華はそれに自らの肢体を利用しようと考えるが、殴られ顔面を腫れ上がらせた彼女では、その魅力も減じてしまっているだろう。

 そして何より、もはやそんな言葉で止まるような状況でもない。

 短く、怒りを吐き出した匂坂の声は低い。

 彼はその声と共に、ナイフを振り下ろしていた。

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