プロローグ
パチパチと弾けるようなその音が、祝いの言葉ではない分かったのはこの頬を撫でる熱気からだ。
舞い散る火の粉が天へと伸び、煌々と燃え盛る炎が辺りの闇を照らしている。
その明るさは、目の前の景色を覆い隠しはしない。
それでもこの目が、その景色を捉えることが出来なかったのは、それが決して信じることの出来ない光景だったからか。
「家が・・・なん、で?」
ピカピカのランドセルを背負った少年は、その光景を前に目を見開いたまま固まってしまっている。
その余りに綺麗なランドセルは、彼がまだそれを使って間もない事を示していた。
そんな年齢の彼に、家が燃えてしまっている事実は受け入れがたく、彼はその光景を否定するようにフルフルと細かく首を横に振っている。
「っ!幸也ちゃん!?良かった、無事だったのね!」
そんな彼の姿を見つけ、声を上げていたのは同じアパートに住む住人だろうか。
その恰幅のいい年嵩の女性は、燃え盛る木造アパートを前に立ち尽くす少年へと近づくと、その身体をぎゅっと抱きしめる。
「おば、さん?母さんは・・・?唯はどこ・・・?」
少年の身体をぎゅっと抱きしめる女性は、何から彼を守りたかったのか。
今だ呆然とした表情で彼女の事を見上げる匂坂は、ここにはいない自らの家族の事を尋ねる。
その質問に、助成は一瞬悲しい表情を見せては、再び彼の事を強く抱きしめていた。
「幸也ちゃん・・・ううん、二人は無事よ。今はもう、別の場所に避難しているの。だから、おばさんと一緒にそこに行きましょう?」
「そう、なんだ・・・それ、なら」
彼の家族の無事を伝える言葉を、何故その女性は躊躇ってしまったのか。
それは彼女の辛そうな表情と、一刻も早くこの場を離れようとする動きを見ればわかるだろう。
彼女の言葉に納得し、その手に引かれてこの場を後にしようとしている少年は、きっとそれを正視出来なかったのだろう。
燃えるアパートの火の元が、明らかに自分達の部屋である事を。
「おい!まだ中に残っている人はいないか!?」
「匂坂さんとこの、奥さんと娘さんが出てきてない!!」
「なんだって、あそこはもう・・・」
この場から立ち去ろうとしている少年と入れ違うように、何か焦った表情をその顔に浮かべた大人達が、何やら叫びながら火事の現場へと走っていく。
彼らは口々に、一体何を話しているのだろうか。
彼らの話ではまるで、少年の家族がまだそこに、取り残されているみたいではないか。
「あんた達っ!何て事を言うの!!私が折角・・・!」
「おばさん・・・今の話、本当なの?」
折角うまく少年を宥め、この場から離れさせようとしていたのに、それを台無しにしてしまう男達の言葉に女性を激怒する。
しかし彼女が今更それを咎めても、耳にした事実までもを覆せる訳ではない。
足を止め、彼女を見上げる少年の目は絶望に大きく見開かれ、もはや決してその場から動かないと固まってしまっていた。
「そ、それは・・・き、聞いて幸也ちゃん。おばさんは―――」
見上げる少年の瞳には、怒りも憎しみも浮かんではいない。
それでもどこか、圧倒されるように言葉を詰まらせた女性はしかし、何とか彼を説得しようとその両肩へと腕を伸ばす。
「本当、なんだね。母さんは、唯は・・・まだ、あの中に」
「待って!駄目よ、幸也ちゃん!!誰か、誰かあの子を止めて!!」
しかしその躊躇いこそが、自らの疑問が正しいと示している。
自らの家族がまだ、あの炎の中に取り残されていると確信した少年は、女性の制止を振り切ってその場所へと戻っていく。
「っ!駄目だ、幸也君!!君が行っても、もう・・・」
「離せ、離せよっ!!!」
飛び出していった少年に、女性は彼を止めてと叫んでいた。
その声に反応した大人達が、少年の前へと立ち塞がる。
少年はそれらを振り切って、燃え盛るアパートへと向かおうとしていたが、所詮子供の身体能力で彼らの腕から逃れられるわけもなく、あっさりと捕まえられてしまう。
「僕が、僕が行かないと!!母さんと、唯があそこにいるんだ!!!」
「無理だ!!今更、君が行った所で何にもならない!それどころか君まで死ぬことになる、分かってくれ幸也君!!」
それでもと暴れまわる少年に、周りの大人達はせめて彼だけでも助けようと、その身体をしっかりと抱きしめる。
彼の身体を抱きとめ、それを必死に止めようとしている男性は、彼を説得しようと言葉を続けるが、その声は彼には届いてはいないだろう。
暴れ続ける少年の手が、その男性の身体を少しずつ傷つけていったが、彼は決してその手を離そうとはしなかった。
「っ!?危ない!!」
その時、彼らの背後から爆発音が響く。
それは燃え盛るアパートの中で何かが引火し、爆発した音だろう。
しかしそれは、回る火の手に脆くなった木造の建物に止めを刺すには十分な威力だった。
「あぁ・・・そん、な」
爆発によって飛散した破片は、彼の周辺には振り落ちない。
それはまるで、そんなものですら彼をこれ以上傷つけるのを憚ったようだ。
はっきりとした絶望に膝をつき、目を見開いている少年に、彼を抱きしめていた大人までもが、もはや触れることすら躊躇っている。
「嘘、だよね・・・こんなの、こんなの冗談に決まってる。だって、だって今日は僕の大好きなハンバーグだって・・・唯も楽しみだって・・・母さん、唯・・・あぁ、あぁあああぁ、ぁあああぁっぁあぁぁあああぁぁっ!!!!」
まるで覚めない夢から逃げ出すように、自らの頬を掻き毟る少年に、伝ったのは涙だ。
目の前の光景を信じられないと視線を彷徨わせる少年と目を合わせることは、周りの誰にも出来ない。
彼らは皆一様に、沈痛な表情で俯き、ただただ悲しそうに押し黙っている。
その沈黙に、少年の慟哭だけが響く。
それは消防が到着し、この火事が消し止められるまで、いつ終わることもなく響き続けていた。
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