赤いヘッドフォン
眠い目をこすりながらホームに立つ。電車に乗ればぱちりと目が覚めるから不思議だ。この世で一番嫌いだった朝の通学路が、今では何よりの楽しみになっている。
私は毎朝、2号車の端の席に座る。
8両連結の各停列車。1両につき横並び8人がけの席が左右に3列ずつ。その中で真ん中の8人がけの席、進行方向右側の、決まって右手に手すりがくる端の席が私の定位置。
そうして二つ先の駅を通り過ぎたら、路線図を眺めるふりをしながら斜め右の席を盗み見るのだ。
その人はたいてい、そこに座る。私の座る席からドアを挟んで斜め右、手すり付きのはじっこ。その人はいつも音楽を聞いている。赤いヘッドフォンをしながら。ほら、今日も。
私が赤のヘッドフォンに執着するきっかけとなったその日は、たしか人身事故か何かで大幅にダイヤが乱れていた。
普段は急行に乗る人達や、別の線路から迂回のために乗り込んできた人が各停列車に大勢なだれ込む。
いつもなら座れるのに、と仏頂面になりながら人と人との間をすり抜けて、ようやく鞄と自分の立つスペースを確保した場所の近くに手すりはなく、吊革には手が届かなかった。
「ーーこの先、カーブのためご注意ください」
駅員の無機質なアナウンスが入ったと思った途端、身体がふわりと浮いた。ジェットコースターに乗った時のように心臓がぎゅっと掴まれたような感じがして、それからーー
「危ない」
咄嗟に腕を掴まれた。
「大丈夫?」
絶叫マシンに乗った後みたいに心臓がばくばくと大きくなっているのが自分でもわかった。転ぶかと思ってひやりとしたが、眼の前の人のお陰で難を逃れた。瞬時に声も出せずにこくこくと頷くことしかできなかったけれど、その人はふっと笑って次の停車駅で降りていった。黒髪の短い髪と赤いヘッドフォンが印象的だった。
お礼を言いそびれてしまったーー。
それから、気づいたら毎朝、赤いヘッドフォンを探すのが日課になっていた。そして見つけたのが2号車の定位置。あの朝と同じように赤いヘッドフォンを見つけた日は、危うく叫び声を上げそうになるくらい嬉しかった。
だからといって韓流ドラマのヒロインでもない私にそれ以上の奇跡が起きるわけでもない。今更「ありがとうございました」なんて言ったところで向こうは覚えているはずもないだろうし。私と同じ制服を着た女子生徒なんてごまんといる。
それでも姿を見かけることが出来ただけで、アイドルを追いかけているクラスメイトの気持ちが少しわかったような気がした。
今までこんなに誰かに執着したことはない。
きっと、これは私の初恋だ。
いつの間にか物思いに耽っていた私をドアの開閉音が現実に引き戻した。丁度あの人が降りる駅ーー。
斜め右の定位置に既に姿はなく、代わりに水色のハンカチが落ちていた。考えるよりも先に体が動く。
ハンカチを拾って電車を降りて、赤いヘッドフォンに向かって「すみません」と声をかけ、あの人が振り返るのと同時に水色のハンカチを差し出して、驚いたような「ありがとう」という声を聞いて、渡した後は顔も見れずに慌てて電車に飛び乗る。
この間、わずか30秒。それでも私にとってはドラマチックな出来事だった。
その後電車に飛び乗った私は高揚した気持ちで惚けていたため、危うく電車を乗り過ごすところだった。
今日もあの人に会えた。
それに、今日は話せたのだ!と言っても、一言言葉を交わしただけだけれど、あれは間違いなく私に向けての言葉だった。あの時の「ありがとう」という言葉を反芻してはついついにやけてしまう。
水色のハンカチには黄色い糸でMと刺繍がしてあるものだった。イニシャルかもしれない。そうと思うとあの人の情報がまた一つ増えた気がして嬉しくなる。
「なんかいいことあった?」
休み時間、そう聞いてくる友人にたまらず今日のことを話して聞かせた。どんな人なのか、きっかけはなんなのかと聞きたがるので丁寧に全て答えると、彼女はあっさり「それは吊り橋効果だよ」とあしらった。
「だってちょっと転びそうになったところを助けられたとしたって、そんな好きにはならないよ、」
そう矢継ぎ早に否定してくる友人に、まったくロマンチックじゃないと憤慨しつつ、これが勘違いと言うならば本当に人を好きになるとは一体どういうことなのだろう、と真面目に考えていた。
私はその人を見かけるだけで心拍数が跳ね上がる感じがするし、気づいたらずっと目で追いかけているけれど、目線が合いそうになると逸らしてしまう。
名前も何も知らない。知っているのは制服から察するに近くの高校に通っていて、毎朝赤いヘッドフォンで音楽を聞いて、2号車の定位置があることくらい。(そして水色のハンカチとMの刺繍!)
それでも、毎朝家を出る前とホームに着いてから電車を待つまでの鏡チェックは入念に行ってしまうし、少しでも可愛い私であの人の前にいたいと思ってしまう。たとえ私のことなんて眼中になかったとしても。
「吊り橋効果ってさ、今にも壊れそうな細い吊り橋を渡ったり、お化け屋敷とかジェットコースターなんかで怖くてドキドキした時に、一緒にいた人の事を好きかもって勘違いすることらしいよ」
だから転びそうになってヒヤッとしたドキドキを勘違いするしてるんだよ。それとも純粋に憧れかなあ。
しきりに最後まで彼女はぶつぶつとつぶやいていた。もしかしたら友人は、毎日の楽しみを見つけた私が羨ましいのかもしれない。
「だってさ、勘違いじゃなきゃ好きになんないよ、フツウーー」
帰り道の車内。いつもの癖で何の気はなしにホームに目をやる。ドアが開いてがやがやと学生達が乗り込んでくる。そういえば今はテスト期間だ。頭の隅でふと思い出す。
あ、と目を奪われた瞬間に電車のドアが開いて学生達がなだれ込んでくる。
「こいつまじで今日ツイてなさすぎる」
「え、ミヤシタなんかあったの?」
ミヤシタと呼ばれた男子学生が「最悪だー」と喚いている。
「朝から落とし物するわ、スマホの画面割るわ…」
私の隣にいたミヤシタと呼ばれた男子学生が小突かれた瞬間に肩がぶつかった。
「あ、すいません」
傍らの女子学生は彼氏との記念日の話で盛り上がる。
「マイとユウくんは1年記念日なにするの?」
「ディズニー行きたいねって話してる」
「あの、大丈夫ですか?」ミヤシタと呼ばれていた男子学生は訝しみながら声をかけてくる。周りの男子学生も呆気にとられている私の様子に何を感じ取ったのか静かになった。
ミヤシタくん、大丈夫なんかじゃない。
だって私はその日、初めて知ったのだ。
初恋の人の名前。その初恋の人には1周年記念を祝う彼氏がいること。ーーそして、私の初恋はあっけなく失恋に変わったこと。
傍らにいたショートカットの女子学生はじゃあねと友人に別れを告げて停車駅で降りていった。鞄から赤いヘッドフォンを取り出して、いつもようにスカートを翻しながら。
友人の言葉が頭の中に響く。
「だってさ、勘違いじゃなきゃ好きになんないよ、普通、女の人のことなんて」
この気持ちが勘違いだとしても胸の痛みは消えないし、涙は瞬きをしたら溢れてしまう。
普通ってなんだ。恋ってなんだ。
人が人を好きだと思う気持ちに、理由なんているのだろうか。
ミヤシタくんには悪いけど、私はあと数秒で涙を零す。