獣の子と魔女の蛹
その森にはバケモノがいる。
人間ほどの大きな体に大きな翅。
淡い光をまといながら、冥き森の上空を飛び回るのだという。
人はそのバケモノを、不吉の蝶と呼んだ。
あてどなく歩いて、もうどれくらい経っただろうか。
親を亡くした獣の子はひとり、貧しく必死に生きてきた。
ひもじさを抱え、それでも毎日毎日。
しかしもう、ぷっつりと、何かが切れてしまった。
「おれ、何で生きてるんだろう……」
人気のない街外れ。
視線をめぐらせば、すぐそばに冥き森。その最奥には、子供を喰らう悪名高き魔女が棲むという。
いっそ、終わらせようか。
獣の子は重い足取りで、しかし迷いなく森へ踏み入った。
自暴自棄とはいえ、しかし探し人はあっさりと見つかった。
長い髪をうなじでまとめ、ゆったりとしたローブに身を包んだ女がひとり、暗い森の中で籠になにやら集めている。
おそらく普通の女ではない。魔女だ。
獣の子は直感的にそう思い、ふらつく足取りで近づいた。
「なあ、あんた魔女なんだろう? おれを喰ってくれよ」
呼びかけに振り返ったのは、予想に反して年若い女。そして、獣の子の脳天に落とされた拳骨。
「いきなり失礼だね、ケモノの子。それにね、あたしゃ肉は食わないんだよ」
それだけ言うと、女――多分魔女――は足元の籠を拾ってどんどん進んでいく。
たんこぶの膨れ上がった頭をさすりながら、獣の子は一瞬迷い、黙ってそのあとを追った。
「なんだい、そんなに魔女に食われたいのかい?」
魔女は途中で足を止め、獣の子を振り返る。
「別にそういうわけじゃないけど……」
「じゃあどうしてついてくる?」
「おれ、弱いみなしごだから、もうぜんぶ終わりにしようと」
話の途中で、ふたたび脳天に衝撃。
舌はかまなかったが、目から星が飛び出すかと思うほどだった。
「あたしを当てにするんじゃないよ! 死にたきゃこのへんを好きにふらつきな。すぐにお腹を空かせたバケモノたちが見つけてくれるさ」
魔女はまた、ずんずんと歩き出す。
バケモノに喰われるのはいやだなと、獣の子は、暗い森を進む魔女のあとを追った。
「なんだ、やっぱり死にたくないんじゃないか」
年若い魔女は、心底呆れたように見下ろしてくる。魔女の後ろには、蔓草に巻かれて光差す小さな家があった。そばには、陽光を反射する湖もある。
「とりあえず身体をきれいにしておいで」
「……」
獣の子は無言で上半身の服を脱ぎ、湖に足を踏み入れようとして、
「ちょいと待ちな」
魔女に止められた。
何かと思ってその顔を見上げれば、
「そこの水は色々なことに使うんだ。水浴び用じゃない」
魔女は「仕方ないね」と息を吐き、蔓草の家を指して手招きをする。
「風呂を沸かしてやるから、それでさっぱりきれいになりな」
「……おれを茹でて喰うつもりだな」
獣の子の脳天に再び、手加減がない魔女の拳骨が落とされた。
魔女は湯船に湯を沸かすと、ぽいぽいと獣の子を丸裸にして遠慮なく洗った。
濡れ鼠のようにじっとりとした毛皮をぶるぶると振ろうとして、獣の子はまた拳骨を食らいそうになった。
「ところで名前はなんていうんだい、ケモノの子」
「……ない」
「ない?」
「呼ばれなくなって長いから、忘れた」
両親が生きていて、「たったひとりの今」よりも幸せだった日々を思い出してしまうから。
みなしごになった日、獣の子は自分の名前を口にすることをやめたのだ。
「じゃあ、ヒーコ。今日からおまえはヒーコだ、ケモノの子」
魔女はあっさりと、しかし有無を言わせずに告げる。
獣の子――ヒーコに異論はなかった。
「これ、食えるか」
魔女の家で暮らすようになって数日。ヒーコは、魔女と共に採集にきた場所で妙な形のキノコを見つけた。
「どれどれ。……ヒーコ、これは見てわかるだろう?」
ヒーコが指さした先に群生しているのは、かさの部分が奇妙な形をしたキノコ。言ってしまえば、老いた人間の頭に見えなくもない。それが地面にびっしりと、見渡す限り一面に広がっている。
「“森の古老たち”さ。見てくれ通りのキワモノだよ。万が一でも食べてごらん。お前の腹の中で、ずっと辛気臭い恨み言を吐き続けるかもしれないね」
うへぇ、と、ヒーコは顔をしかめた。
「キノコは特に難しい。けど、なにもこんな、見るからにアレなものに目をつけなくともねぇ……。さあ、もっと平和なものを見つけに行くよ」
魔女は自分の籠をヒーコに押し付け、さっさと森の中を歩いて行く。
ヒーコも、“森の古老たち”をちらと見やってからそのあとを追った。
なんだかんだ言って、年若い魔女はヒーコの世話を焼いてくれた。
薬草と毒草の見分け方、食べられるものそうでないもの、森に棲むバケモノとの距離の取り方などなど。
変わったものでは、いかにも魔女らしいおまじないや儀式など。
ヒーコは興味深げに聞きつつ習いつつ、
「やっぱり、魔女なんだな」
と、感慨深げに呟いたものだ。
魔女は軽く鼻を鳴らし、軽くヒーコの額を小突いた。
「大きな翅を持って、鱗粉を撒きながら飛ぶ生き物を知ってるかい?」
ある日、魔女は大鍋で薬を煮詰めながらヒーコに問うた。
「それは蝶? それとも蛾か?」
どちらにも取れるので、ヒーコはとりあえずふたつ答えを並べた。
「まあ、正解かね。じゃあ、それが大人になるためにどういう成長の仕方を……、いや。大人になる直前の姿を知ってるかい?」
魔女はふたたび問いかける。
「あれだろ、蛹だ。芋虫とかが糸を吐いて、こう、形を作って硬くなる」
「そう、そのとおり」
魔女は薬を混ぜる手を止め、珍しく微笑んだ。
「あいつらはね、蛹のあいだ、自分の身体をドロドロに溶かして作りかえるんだ」
「ドロドロに? あの中身ってそうなってるのか?」
「ああ、そうさ。今度見つけたらナイフか何かで裂いてみるといい。全部、流れ出す」
「気持ち悪いことを言うんだな……」
未だ見ぬ、ドロリとした何かを想像してしまい、ヒーコは顔を歪めた。
「あとね、時々中身が蜂だったりするんだ。蛹に卵を産み付けて、元々の中身を喰っちまうんだよ」
「……今の話で、おれは蛹がきらいになったぞ」
ぷっと、魔女は軽く噴き出した。
「それだけ、無事に羽化するのは大変なのさ」
魔女がどうしてそんな話をするのか、ヒーコにはわからなかった。
その日は、家の中が妙に静かだった。
いつもなら、魔女が年季の入った鉄鍋で薬の材料を煮たりしているというのに。
沈黙よりも厚い静けさを気味悪く思いながら、ヒーコはそっと歩く。
魔女はどこだ。
ふだん、「寄りつくな」と禁じられている薬棚のあたりもそっと見回す。
そして、不自然な隙間を見つけた。かすかに風が通っている。
ヒーコは隙間に手をかけた。いくらか力を入れると、棚がゆっくりと横に滑る。
そして、地下へと続く階段が姿を現した。
魔女はこの下にいる。
そんな不確かな確信を胸に、ヒーコは階段を下りて行く。
衣擦れの音と共に、魔女がまとっていたローブが床に落ちる。
向かい合う壁には、人間大の窪み。あつらえたかのように、魔女の身体がゆったりと納まる大きさだ。
周りには、同じくらいの大きさの繭や蛹たちが並ぶ。
ひとつを除いて、みな空だ。残りのひとつも、半透明の膜越ごしに中身が動いていて、じき表面に亀裂を作って出てくるだろう。
ほかと同じように。
しばらく後の、魔女のように。
「弟子は育った。次は、あたしの番だね」
魔女は窪みに背を預け、光の膜に包まれた。
あれは何だ。
ヒーコは、淡い光を前に立ちすくむ。
夜目のきくヒーコから見ても薄暗い地下室で、かすかに光るものがふたつ。
ひとつは、薄い膜越しに中身がうごめく繭。いや、蛹だろうか。
もうひとつは、ここでいちばん明るい膜に包まれた、魔女。
「これは、何なんだ……」
乾いた喉から無意識に声を出して、ヒーコは魔女の蛹に近づく。
一歩、一歩。ゆっくり、たどたたどしいくらいに。
「なああんた、そんなところで何やってるんだ……」
ヒーコは無意識に手を伸ばし、触れた膜はぐにゃりとした柔らかさを返した。
びくりと、ヒーコは反射的に手を引く。
――蛹のあいだ、自分の身体をドロドロに溶かして作りかえるんだ
いつぞやの魔女の言葉が、不意に思い出された。
膜。蛹。ドロドロに溶けているところだろう、目の前の魔女。
「不吉の蝶……」
ヒーコは幼い頃にみなしごになったが、噂に聞いたことはあった。
人間大で、大きな翅を持ち、淡く光る鱗粉を撒き散らしながら冥き森を飛び回るバケモノのことを。
「じゃあ、これは、ここにあった蛹は全部……」
魔女の、魔女たちの成れの果て――
ぷつ。
わずかな音だが、獣の子であるヒーコの耳がそれを捉えた。
目を向けるまでもない。今しがた膜に包まれたであろう魔女以外の、もうひとつの蛹からだ。
緩慢な動作でそちらを見やる。
今まさに、羽化をするものがいた。
蛹に亀裂が入る。亀裂が広がる。
ごとり、と、何かが地面に落ちた。
白いものが。
かつて人の肉をまとっていたであろう、白い頭骨が。
ヒーコの頭の中で激しく警鐘が鳴る。
これは、なり損ないだ。
なら、今から出てくるものは……。
「うわああああああっ!!」
ヒーコは、おのが獣の爪を突き立てる。
今まさに羽化しようとしたそれは、巨大な蜂の姿をしたまだ柔らかなその頭に、あっけなく爪が食い込む。裂ける。中の体液が汚らしく飛び散る。
ヒーコは夢中で、何度も何度も拳をふるい、爪を突き立て、ぐちゃぐちゃと、ぐちゃぐちゃと――。
気が付けば、ヒーコは蜂の体液とバラバラの破片に塗れていた。
無意識に見やった膜越しの魔女に異変はない。
淡い光の中で、徐々に徐々に姿が薄れているようだった。
「なあ、なんなんだよ……」
魔女は答えない。
「あんた、蝶になるっていうのか」
ふらりと立ち上がり、ヒーコは指先に力をこめた。
そのまま、まだ柔らかそうな膜に手をかけ、爪を立てて――
「あんた、ちゃんと出てくるんだろうな?」
そっと手を下ろす。
「蝶になって、ちゃんと説明してくれるんだろうな?」
よろけるように二、三歩後ずさって、壁に背を預けた。
「あんたが出てくるまで、ちゃんと説明してくれるまで、おれはあんたを守るよ……。こういう蜂ととかに、やられないようにするから」
はあ、と息を吐く。
「おれはヒーコ。見守りの魔女だ」
「ねえ。あなた魔女なんでしょ?」
背中からかけられた幼い声に、採集の手が止まる。
振り返ってみると、やせこけた肢体の、みすぼらしい少女が立っていた。
「そんなに毛むくじゃらで、いかにも人喰い魔女って感じよね。ねえ、わたしを食べちゃってくれない?」
「おれは人間は喰わない」
「でも、魔女なんでしょ? だったら」
めんどうになって、空いている手で少女の脳天に拳骨を落とす。
「いったーいっ!!」
「うるさい。おれは蝶の羽化を見届けるだけだ。死にたけりゃそのへんでバケモノに喰われてろ」
毛むくじゃらの魔女は、魔女のヒーコは踵を返す。
そろそろ頃合いだ。羽化したところを、先代の魔女を問い詰めなければ。
背中に少女の気配を感じながら、ヒーコは小屋への道を進むのだった。