紅い宝石とその終わり
世界が終焉を迎えることについて、俺は何故かその一日前に気がついたんだ。
まったくどうかしているとしか思えないよな?明日世界が終わるってさ。今は、0時前か? そう考えると、日付が変わった途端にこの世界が終わることも考えられる。馬鹿馬鹿しいこの考えに俺はしばらくの間、こみ上げる笑いを押し殺すのに精一杯だった。
やがて落ち着いたとき、彼はむしろ終焉を望んでいる事にはたと気づいたのだ。だってそうだろ?毎日毎日くそつまんねぇ日常、日常、日常。消えた方が手っ取り早く、そしてそれが自然だった。ともかく、この世はいつかは終わる。それなら、早いほうが良いだろ?彼はそんな考えに捕らわれた。
まぁ、ともかく俺の中では、もう世界終了することに決定している訳だが、世間の糞つまんねぇ奴らはどうかな? 俺みたいに悟りを開けるやつはいるんだろうか?
いつもの癖で彼はとっさにキーボードを掴むと、匿名掲示板を開いた。見る、観る、そして読む。その中には全く終末に関する物は無かった。一瞬、彼の中に終末を声高に叫びたい気持ちがわき起こったが、すぐに消え去った。どうせ俺の言うことなど聞く耳などは持ち合わせてなどいない。愚かな奴ら。
彼は自分だけが真実に近づいているのを悟って、疎外感よりはむしろ、満足感を覚えた。彼だけが知っている、この世の終わり。それは彼に特別な高揚感をもたらした。特別。なんと良い響きだろう。そして明日には全ての物が終了する。人生最良の日だ。まさしく俺の最終の美を飾るにふさわしい。
彼は全てを捨てる事にした。このボロアパートの部屋も、職も、自分の名前さえも。だって必要ないだろ?俺は俺だ。終焉を知る者だ。それ以上でも、それ以下でもない。誰も俺を定義出来ない。そうだ、俺は特別なんだ。
彼は家を飛び出すためにドアを開けた。彼の動きがそこで硬直する。彼を出迎えていたのは、夜のあの独特な空虚感ではなく、蒼い服を着た、10歳前後に見える金髪おかっぱ頭の少女だった。彼の視線が、彼女の蒼い瞳に吸い寄せられる。それは、陳腐なようだが、宝石のようだった。
普段の彼ならば、こんな時間に自分の部屋の前に年端もいかぬ綺麗な少女がいたとしたら、とてもじゃないが平静を保つことなど出来なかっただろう。しかし、彼は全てを捨て去っていた。
「やあ、こんばんわ、お嬢ちゃん」
「あら、今晩は」
彼女はとても澄みきった、流暢な日本語で挨拶を返した。彼はそれに驚いたが、彼女も驚いているようだった。
「君はいったいどうしたの?迷子かい?」
努めて落ち着いて、優しく喋りかけたつもりだ。
「ええ、そうよ、永遠の迷子なの」
「じゃあ一緒に行かないか?今日…」彼は次の言葉を強調した「一日だけ」
彼女はそれにとても満足したようだった。
「ええ、一日だけ」
そうして奇妙な二人組が出来上がった。彼女は自分の名前を「サファイアよ」と名乗った。この名前は、両目が宝石のようだったからという、陳腐な理由で付けられたの、といって彼女は笑った。一方彼は名前を捨ててしまったのだ、と告げた。それに対して彼女は少し思案した後、いくつか名前を考えてくれた。しかしそれらを全て彼は拒絶した。俺は俺だ。
仕方がないのでサファイアは便宜的に「あなた」と呼ぶことにした。ともかくこうして彼らは歩きだした。どこに向かって?さっぱりだった。どうせ一日しか無いのだ。どこに行こうと関係があるものか。
彼女がしばらくして、海を見たいと言い出した。彼はそれに賛同し、二人はコンビニで地図を買い、歩き出した。この町から海へはそう遠く無かった。子供の足でも、日がすっかり昇る頃には到着するだろう。それに、歩き疲れたらタクシーでもなんでも使えばいい。
「海は良いわ、私と同じ色よ」
「そうかな?」彼はそれに疑問を持った。「何故色などにこだわる」
彼女は呟く。「今にわかるわ」
何時も見慣れた町並みは、その闇の中で静まりかえっていた。所々、店の明かりが点っているのは見て取れたが、蠢くものは二人だけだった。彼は何か言うべきか?と自分に問いかけたが、それは不必要な事なのだと悟った。二人の間には、安らぎとも緊張ともとれる重い沈黙が居座っていたが、それはむしろある一種の心地よさを伴っていた。
歩きながら彼女と目が合う。その宝石の瞳の奥に何かを秘めているような眼差し。見つめ合ったまま彼らは夜の街を行く。
いつの間にか、夜というベールは解かれ、もやのかかったような、朝のような何かが、あたりを支配し始めた。彼はやっとその軽い唇を開く。
「終焉の始まりだ」
彼女が天使の声で囁く。
「いえ、まだ始まってはいないわ」
彼は怒った。少女の肩を激しく掴むと、「何を知っている!」と怒鳴った。
彼女は笑っていた。見る物を冷たくさせる鋼鉄の眼差しで。彼の中で、どうしようもない猛りが、畏れへと変わった。この美しい少女はいったい何者なのだ?彼女は、今日世界が滅びることを知っている。だからこそ、俺の元へ来たのだ。
「あなたよりは知っているわ」
彼はハッとして肩を掴んでいた手を離すと、彼女に対して謝った。思えば、彼女が何を知っていようと、彼がそれを知る必要など、いや、言い方を変えよう。知ったところで全ては忘却の彼方へ旅立つのだ。それには、手みやげも何もいらない。
彼女は今度は年相応の満面の笑みを浮かべると、ゆっくりと走り出した。それをあわてて追いかける。いつの間にか、彼らは街の外れにやって来ていたようだ。そのまま山の中へと駆け抜けていく。
先ほどからだんだんとペースは上がっていた。最初は簡単に追いつく事ができたが、今では全力疾走しても追いつかない位だ。
途端に彼女は立ち止まった。彼はその元へやっとの事で追いつくと、はぁはぁと肩を喘がせた。
「ここなら、いいわ。聞きたいことがあるんでしょ?」
彼は息を整えながらやっとの事で「無くなったよ」と答えた。どうせ何もかも知っても同じ事なのだ。全て終わるのだから。
「良い心がけだわ。でもそれで本当にいいの?」
「くどいな」彼は立ち直った。「俺は俺だ、それ以外知る必要はない」
「私の事はどうでもいいの?」
「ああ」彼は肩をすくめて答えた。「俺にとっては全てどうでもいいことさ」
「なら、私を…」
それきり彼女は答えなかった。彼が歩みを進めると、彼女もそれについてくるのがわかった。この山---名前なんて思い出せないし地図で確認する気も無かった---を超えれば、広がるのはさびれた海岸線だ。
やがて頂上付近に到着すると、眼前に朝日を反射した蒼い水溜まりが広がった。
「綺麗ね」
彼はそれに同意すると、さらに歩みを進めた。あの蒼は、彼女の蒼なのだろう。全てを飲み込むおそれのある、深淵にも似たあの蒼。じゃあ、あの蒼に光りを投げかける天体はなんだ?ともかく、あの天体を拝むのも今日で最後だ。そのためだろう、いつもより綺麗に見たいと熱望している自分がいる。けれど、何の感慨も沸いてこないのだ。普通だったら、この世の最後と聞けばもっと畏れたり、悲しんだりしても良いのかも知れない。だが、俺はそんな感情は抱いたりはしていない。じゃあ、喜んでいるのかと言われれば、そうでも無いと言うことに気がついた。
そうだ、俺は終焉に対して、何の感情も抱いていないのだ。終わろうが終わらなかろうが、どのみち一緒だ。長生きして何になる?とも思うが、それと同時に死んだところで何も変わりはしないという事も思っているのだ。
君に与えられる物は何かあるんだろうか?俺は急にそう考えた。俺の有終の美を飾れるアクセサリーがいいだろう。そうだ、赤い宝石、ルビーなんかどうだろうか?彼女にはきっと似合う。
「君にふさわしい宝石は、サファイアじゃなくてルビーなんだろうな」
急に彼女に喋りかけた。彼女は驚いて、サファイアの瞳を大きく見開き、
「私はルビーは嫌い」
そして嫌悪をあらわにした。
彼らは、気がつくと山道の終わりに近づいてきているのがわかった。時間は昼前くらいだろうか?携帯電話も部屋に捨ててきてしまったので時間がわからない。子供の足ではやはり時間がかかるようだ。さすがに歩き疲れて腹が減っていたので、ふもとのさびれた食堂に入ることにした。彼女も腹が空いていたのか、それに同意した。
中に入り、おばちゃんの探るような視線にランチを二つ頼むと、お冷やを飲みながら料理の出てくるのを待った。彼女はテレビに興味がある様子だったが、俺は彼女を見ていた。
「やっぱり聞きたい事があるんでしょ?」
「いいや」
「そう?」彼女はこちらに向き直った「ならいいのよ」そして笑った。
最後の晩餐になるかも知れない食事を腹へ納めると、また同じように歩き出した。だが、目的地はもう、すぐそこだ。潮風の香りが鼻をくすぐる。
地図を確認しながら、食堂を出て2本目のところで右に曲がる。そのとき通りの向こうから一匹の黒い子猫がそろそろと歩み出てきていた。彼女はそれに気づくとすぐさま駆け寄っていった。
そんなに急いでいったら逃げてしまうよ、と言いかけたがやめた。それが無意味だったことに気づかされたからだ。黒猫は彼女の腕にすっぽりと収まっていた。
屈託無く笑う彼女を見ていて思った。俺は、普通の人間だと。そして俺たちはまた歩みを進めた。
そうして、彼女が望んだ海へと着いた。だが、その海岸はさびれており、さながら忘れ去られた墓所のようだ。あたりに散らばるゴミは墓石かそれとも供え物なのかは誰にも判別など出来なかった。人は一人もおらず、波の音と潮風だけが寂しさを訴えていた。
二人とも何の感情も持たない目でそれらを眺めていた。このゴミの一つが俺だと思った。きっと、誰かを不快にさせるためだけに存在している。ならば、誰にも邪魔されないところへ行くべきなんだ。
「ここらで、別れようか」
俺は独りになりたくなって提案してみた。これ以上、誰かが俺の存在を感知しているのが許せなかった。
「ええ、いいわ。海はもう見られたし」
「さよなら」「さようなら」俺たちは同時にそういうと、防波堤を正反対へそれぞれ歩き出した。
しばらくして振り返ってみると、彼女の姿はどこにも無くなっていた。そこで、海岸まで降りてみた。ゴミの数々は何も答えはしなかったが、なんだか久しぶりの来訪者に驚いているような気がした。
ついに、ここまで来たんだ。子供の頃には『終わり』があるなんて考えもしなかった。永遠にチャンスは巡ってきて、頑張れば幸せになれるんだと信じていた。今は、どうなんだろう?
波にもて遊ばれている空ペットボトルを眺めながら、その瞬間を待った。いったいどのような形で終わるのだろうか?物理的な力では無いような気がした。この世の理を超越した何かがやってくるのかも知れない。
だが、まだ早いのかそれらは訪れようとはしなかった。彼の中に、捨て去った筈の過去が夢のように思い起こされる。いっそ記憶すら無くなってしまえばいいのにと彼は願った。何も知らなければ、それが一番幸せなのか?いや、違う。それは違うんだ。どう違うかなんてどうでもよかった。それが俺には必要なんだ。
例えば、今日世界が滅びることを知っている俺は、間違いなく幸せだと思った。何も知らずに、知らされずに、悟らずに死ぬよりはマシだ。
そんな思いをさざ波がかき消すかのように繰り返し繰り返し迫ってくる。もう、考えるのもやめよう。それには、何の意味も無いんだ。
波を心静かに眺めているうちに、西の方が赤くなっていくのが見て取れた。その時急に感覚が警告を上げるのがわかった。
『始まった』
夕日がいつもより赤かった。とんでもないくらい赤いそれは、今にも山の間へと吸い込まれて行きそうだった。あれが吸い込まれた瞬間、この世界は終わる気がする。いや、もう夜になっている部分は終わっているのかも知れない。
急に彼の中に、終焉に対する畏れが首をもたげてきた。彼の中の悟りや、全てを捨て去った覚悟は、あっけなく崩れ去っていく。彼は怖かった、全てが。そして今も…
彼の中に、誰かに会いたい、誰かに最後を看取ってもらいたいという強迫観念が巻き起こり、また、そう思う自分自身の弱さに悲しくなった。
それを察したのか、全てが静止したかに思えた視界の中に蠢くものが現れた。先ほどの黒猫だ。
黒猫はにゃあにゃあと叫び立てていた。この事態を察しているのだろうか?
彼はハッとして叫んだ。「彼女はどこにいるんだ!?」ほとんど涙声のその叫びに驚いたのか理解したのかはわからないが、黒猫は脱兎のごとく砂浜を走り出した。それを彼はあわてて追いかける。
黒猫は山の方へ向かっていた。彼は必死になってそれを追いかけていく。
あの食堂の前を駆け抜ける。中には客はおらず、おばちゃんが倒れているのが視界の
隅に写った。息があるのかどうかはわからない。むしろ自分が倒れていないのが不思議なくらいだ。
あの山道を、今度は登っていく。それに反するかのように、赤く輝く星は谷間へと吸い込まれていく。心臓は破裂しそうになっていたが、まだまだ鼓動を止める気は無いようだった。俺は、走ることが出来る。それがうれしいのか悲しいのかはわからない。
山の頂上付近が見えてきた。そこに、独り誰かが佇んでいるのがわかった。彼は彼女の存在を確信した。近づくにつれて、彼女の姿がはっきりとしていく。いや!こいつは彼女じゃない!!何故こんなに紅いんだ!?教えてくれ!!
彼女の全身はいまや真っ赤に染まっていた。蒼い衣は濁った血のような赤に染まり、その青白い肌は血が沸騰したかのような怒りの色に染まっている。金髪、いや朱髪とも言うべきその中心には、真紅の宝石が二つ、太陽にも劣らぬ輝きを放っていた。
そんなことがあるわけがない!彼は自分の目を疑った。そうだ、きっとこの夕日の輝きが『そう見えさせている』だけなんだ。どのみち目の前の風景は真っ赤だったし、背後にあるあの蒼かった海でさえ今は紅く染め上げられている。そう考えているうちに、彼女の目の前にたどり着こうとしていた。黒猫が彼女の胸元に飛び込もうとするその刹那だった。
黒猫は、紅い輝きとなって消え失せた。
彼は、はっとして急停止した。「サファイア?」やっとの事で声を絞り出した。
彼女は、にこりとした。その瞬間、彼は世界の破滅の中心は彼女なんだと言うことに気がついた。彼女は何も答えない。答える必要など無い。俺を消して終わりだ。
彼は、どうしたいのかわからなかった。消えたくもあるし、そうでも無い気がした。だから、彼女に問いかけた。
「君は、どうしたいんだい?」
彼女は何も答えない。言葉をもう失ってしまったのだろうか?その代わりに彼女は悲しそうな目をした。
悲しいのか?俺は自分に出来ることを考えてみた。それは、どう考えても一つしか無い。
彼は彼女にそっと近づくと、彼女の首に手をそえた。両の手は赤熱した石に触れたかのような熱を感じ、焼けただれていくようだったが声を押し殺して我慢した。その手をしっかりと、強く締め上げる。
彼女はいまや笑っていた。抵抗もせず、全てのことを受け入れたかのような穏やかな微笑みを浮かべていた。
彼女の赤が、急速に薄れていくのがわかった。それとシンクロして、あたりには夜のもやがかかっていく。
両の手はひどい火傷こそしていたが、もう熱は一切感じていない。冷たく、青白くなった彼女はもう動くことはない。青白いこの星の衛星が、頭上に来ているのがわかった。
その後の事は良く覚えていない。ともかくこうして世界の終わりは引き延ばされ、俺は独房の中で独り静かに処刑の時を待っているという訳だ。
俺がしでかしたことは世間の批判を買ったらしい。俺にとってはどうでも良いことだが、俺に彼らが罰を与えるというのなら甘んじてそれを受け入れようと思う。
もう考えるのも疲れていたが、どうしても気にかかることがあった。
あんな事が、彼女に送ることの出来たプレゼントだったんだろうか?
ここまで読んでくださってありがとうございます。
主人公の性格もまとまりが無く、さらには一人称と三人称がごっちゃになっています。半分はわざとですが、ノリだけで書いているのでこうなってしまっています。ご了承下さい。