ソフィアとの逃走
9
静まり返っていた。部屋の中は誰も話すものはなく、ただ勝ち誇ったようなベイカー刑事の顔が印象的だった。
「私はやってないわ」
沈黙を破ったのはやはりソフィア・キャンベルであった。
「犯人はみんなそういうんです」
ベイカー捜査官はやはり冷たく言った。
「やってない」
ソフィアにとっては幸運なことは彼女が部屋の出口の一番近くに立っていたことだった。ソフィアは独り言を言うようにそういうと後ずさりを始めた。
「おい、何をするつもりなんです」
「やってないもの」
ソフィアは後ずさりをやめると、今度は向こうに振り返って走り出した。
「待て」
ベイカー捜査官がそういうか言わないかのうちにソフィアは部屋の扉に手を掛けて、部屋の外に出た。廊下の空気が入って来ることが分かった。それは完全にソフィア・キャンベルが逃げることを合図していた。
「スコットさんにスミスさん、追うんだ」
河野は言った。ソフィアが部屋を出て行ったと同時に、スコットと河野、スミスはそのあとを追いかけた。部屋を飛び出した河野たちはソフィア・キャンベルを追いかけたのだ。そのあとに続いて、ベイカー捜査官の率いる警察も追いかけてきた。
ソフィア・キャンベルはエレベーターへと到着し、その中に入り、しきりに扉をしめるボタンを押している。しかし、それも無駄なことに扉はゆっくりと閉まるだけだった。
扉に手を掛け、スコットはエレベーター内に入る。後に続いた河野とスミスもエレベーター内に入った。後からやって来る刑事たちはもう少し時間がかかるらしく、まだ遠い。
「よくやりました。さあ、そのまま」ベイカー捜査官は走りながら言った。
「先生にみんな、私はやってないの。本当よ」ソフィアは懇願するように言った。
「わかってますよ。最初からこうするつもりでした」
河野はそう言うと、エレベーターの扉を閉めるボタンを押した。エレベーターの扉は締まり、ベイカー捜査官たちは結局はエレベーターの中に入れなかった。
「君たちは共犯だぞ」
そう言い残したベイカー捜査官はとても間抜けに見えた。ベイカー捜査官は閉まりゆくエレベーターの扉の向こうへと消えて行った。
「ありがとう。みなさん」
「私たちもこうするつもりで最初から追いかけてたんですよ」
エレベーターは見る見るうちに降りていく。外の景色は夢の世界からすぐに現実に引き戻されたように見る見るうちに外の建物は大きくなり、原寸大の大きさになった。自分で決めたことなのに、河野はこれが夢であるなら早く覚めてほしいと思った。
エレベーターが一階に到着するとまた追いかけっこは始まる。河野たちはそれを確信していた。警察は別のエレベーターを使い、河野たちと同じように一階を目指しているに違いないからだ。
「みんな、エレベーターの扉が開くと走るんだぞ」
「わかってらあ」
「お嬢さん、私たちについてきてください」
「わかってるわ」
扉は開かれた。みんな一斉に飛び出し、ホテルのロビーを駆けた。必死で走っている河野たちをロビーにいる人たちは呆然と見守っていた。まさか、河野たちがこんな苦境に立たされているなんて思ってもいないだろう。
もう一つのエレベーターの扉が開く。河野たちが広いロビーの中間まで来た時くらいのことだった。
「待て」
それは紛れもないベイカー捜査官たちだった。ベイカー捜査官は複数の警官とともにロビーに降り立った。それから、必死で走っている河野たちを見つけると叫んだのだった。
「追いかけるんだ」
河野たちは走りに走った。ホテルを出て駐車場まで到着した。
「車が用意してあるんです」
「そう、助かったわ」ソフィアは言った。
車が止めてあるところまで来ると、4人は車に飛び乗った。スコットは運転席で、またエンジンをかけるのに苦戦した。
「ちくしょう、また手が震えてるのかよ」
「焦ってんだ、黙っててくれ」
スコットは叫んだ。やっとのことでキーを差し込み、エンジンをかけた。突然車は走りだし、駐車場を出た。
「待て」後ろから声がした。
「待たなければ、撃つ」大きな声が聞こえる。ベイカー刑事だ。
銃声がした。軽い音が高らかと夜のニューヨークに鳴り響いた。一発、二発、三発。弾は銃から放たれたが、その弾は車をかすめることすらなかった。
スコットはまた、あのお得意の蛇行運転で銃弾をかわしたのだった。車は勢いよく道路をかけて行き、猛スピードでその大きなホテルを後にした。
「覚えてろよ」
今度は銃弾の代わりに、大きな声が背後から聞こえてきた。河野たちは警察を何とか振り切り、夜のニューヨークへ出たのだった。
「さて、と、これからどうするか」
どうやら逃げおおせたと思ったその時、スコットは言った。
「確かに、逃げおおせたところまではいいですが、これから手の打ちようがありませんね」
「みんな本当にすまない。私のせいで……」
あの、明らかなまでに態度が悪かった、ソフィアは今ではとてもおとなしかった。よほどこたえたのだろう、それはさっきまでの荒々しさはうそのようで、反省していることは容易に分かった。
「心配する必要はありませんよ、お嬢さん」
「ていうかさっきから偉そうにしているこの男、誰なの?」ソフィアは言った。
「私はジョシュア・スミスと言うものです」
「名前だけ名乗ってもわからないわ」
「マーティン一家の者ですが」
「マーティン一家?この野郎、お前が犯人だったのか。父さんを返しやがれ」ソフィアは後部座席から、スミスにつかみかかった。
「待ってください、私は何もやってませんよ」
「そうですよ、お嬢さん。スミスは何もやってません」
スコットはソフィアをなだめるように言った。ソフィアと言うこの女は美人であるのに、それがもったいないくらいに性格が悪い。おてんば、と言う表現があるが、それを通り越して凶暴とまで言い表すことができるのかもしれない。
「じゃあ、誰がやったの?」
「あなたじゃないんですか?」スミスはソフィアに捕まれたことによって乱された服を直しながら、冷やかすように言った。
「私はやってない」
「じゃあ、誰なんでしょうね」
「まあ、誰でもいいじゃないですか。それよりも今の状況です。これで私たちは警察とマーティン一家の両方のお尋ね者になったわけです」河野は冷静に分析した。
「ちょっと待って、警察っていうのは納得できるけど、どうしてマーティン一家にまで追われなければならないの?」
事情を知らないソフィアは言った。
「俺たちはマーティン一家に彼らのボスを殺した、と思われてるんです」
「ちょっと待ってよ、もしかして、マーティン一家はボスが殺されたから、今度はその仕返しとして、キャンベル一家のボスである父さんを殺したんじゃないの?」
「そうかもしれません」
「それなら、おまえらのせいじゃないか」
「確かに、しかし、私たちは実際にはマーティン一家のボスを殺してはいません。他の誰かが、私たちの先回りをして殺した現場に私たちは居合わせてしまっただけなのです」
「なるほど。そうだったの」
ソフィアは黙りこくるしかなかった。父の死を悼む間もない状況で、自分が犯人に仕立て上げられたのだから、災難であることは言うまでもないのだ。
「やれやれ、マーティン一家からお尋ね者になるわ、その上警察のお尋ね者を助けるわ、まったく本当にとてつもなく最悪のパーティだな」
スミスはあきれ返るように言った。ニューヨークの夜は更けて行った。4人は行く当てもなく、ニューヨークの街の中を車でさまよっていた。
4人はそのまま夜が明けるまでニューヨークを走り続けた。