依頼
4
温かい日差しが河野の体を温め、マシュー・スコットの体も温めた。大学の大きな校舎を後にした河野たちは、しばらく歩いて、正門の前に停めてある車を目指した。
大学の敷地内の所々には五月に咲くきれいな花が咲かされていた。蝶は舞い、小鳥はさえずっていた。そのおぞましい依頼とはかけ離れるほどに大学の敷地内はのんきだった。
すれ違った何人かの学生は河野とともに歩いているこわもてのマシュー・スコットに不審な目を向けた。
河野には当然その場所は不似合いのように思えた。実際、居心地が悪かったし、ここにはもういられないと考えるようになった。少なくとも、100万ドルを受け取るまでは。
大学は河野を拒絶したし、河野も、居心地が悪くなっていた。
正門を出ると、河野とスコットを待っていたのは黒塗りの高級そうな車だった。
「先生」
車の後部座席に乗り込むと、スコットは言った。
「何です?」
河野はおびえて答えた。
「大変恐縮なのですが、ここからは目隠しをしてもらわなければ困ります」
「目隠し?」
「ええ」
「君たちは客人に目隠しをさせるのかね?」
「ええ。本当に申し訳ありませんが」
スコットは言葉とは裏腹に低く、凄味のある声で言った。
「わかったよ。100万ドルのためだ」
河野は言った。後部座席に座らされた河野は、スコットがポケットから持ち出した分厚い布のようなもので何重にも目をおおわれた。そうすることによって、河野の目は暗闇に覆われ、どこに何があるかはもちろん、光さえも感知できなくなった。
「それで、どこに連れて行くのかね?」
河野は不安そうに言った。
「それは着いてからのお楽しみです」
そういうとスコットは運転手に出発するように指示を出した。車は長い間、走った。目を隠されていたので、時間感覚というものが鈍っているのか、大体30分間くらい走ったように思われた。
目が見えている30分間というのはすぐに過ぎてしまうが、目隠しされての30分間は違う。ずっと、心のうちにもやもやとした気持ちが現れ、河野は正常ではいられなかった。
それでも目隠しを取りたい衝動に何度か苦しんだが、何とかだいたい30分間我慢できた。
「着きました。目隠しを取ってください」
スコットは言った。河野はその言うとおりにした。最初のうちは光に目が抵抗した。光に目が慣れるまで時間がかかった。目が光になれてくると、河野は車の外の景色を眺めてみた。
そこは河野が来たこともないような場所だった。車が止まっていたのは裏通りの日の当たる場所で、太陽が河野の目にまぶしかった。
赤いレンガが積まれた塀がすぐ近くにあって、それも太陽の光に反射していた。その塀は最近建てられたようなものではなく、古い塀だった。塀の向こうには高い建物があって、外壁はコンクリートがむき出しになったかのような建物だった。
決して上品な場所ではなく、その正反対のような場所だった。そして最も驚いたことには、そこは人通りというのが一切なく、それが河野に一層の警戒感をあらわせた。
それはまるで、そのあたりに住む人々がその場所におびえているようでもあった。
太陽はまるでまだ真昼間からいくらもたっていないかのように河野の体を照らしていた。
「では、降りてください」
スコットは言った。河野はゆっくりと車のドアを開け、その陽の当たる場所へ降り立った。風のない、温かな場所だった。陽だまりができたポカポカとした場所。しばらくするとスコットも車から降り、ドアの閉まる音が鳴った。
「ついてきてください」
スコットはそのすごみのある声で言った。河野はそれにつき従った。しばらく歩くと、そこには門のようなものがあり、河野たちはそこを通り抜けた。
門を通ることによって、河野は先ほど説明した塀の向こうに来たのだ。ここに来る前に河野はスコットから一度引き受けた以上は後に引き返せないということを聞いた。その時は軽く了承したが、その言葉の重みがその時になって実感できた。
河野は恐れていた。これから何が待ち受けているのか?マフィアの片棒を担いでなにか危険なことに巻き込まれはしないのか?河野は不安になる一方だった。
塀を抜けて、しばらく行くと、コンクリートがむき出しになった建物にたどり着いた。どうやらそこは廃墟らしいことに河野は気づいた。
中に入ると、やはりそこは廃墟だった。がれきが地面に平気で転がり、さっきいた太陽の当たるところとは対照的なほどに、さみしい場所だった。
ニューヨークでは珍しい廃墟だった。河野も今までニューヨークに長らく住んでいたが、ニューヨークで廃墟を見たのは初めてだった。
捨てられて十数年は経っているように思えた。その過ぎ去った時間の分だけ、その廃墟はほこりにまみれ、がれきが積まれた。
風が廃墟の中を通り抜けた。それは五月とも思えないくらいの肌寒い風だった。風が通り抜けるたびに、廃墟の中は唸るような音が鳴った。廃墟の中は薄暗く、その薄暗い中をスコットはもろともせずに突き進んだ。
階段に差し掛かり、3階まで上がった。それからまたしばらく行くとスコットは一つの部屋の前で止まった。何の変哲もない部屋だ。その部屋は今まで廃墟の中を歩いてくる中で、幾度となく見た部屋だった。
要するにその部屋はほかの部屋とは何ら変わりがない部屋だった。しかし、この部屋が他の部屋と違う点を一つ挙げるとするならば、その部屋の前に、大男が二人、門番のように立っていたところだった。一方の男は大分恰幅が良く、一言で言えば太っていた。もう一方の男は対照的にやせ細っていたが、力はありそうだった。二人とも黒いスーツを着ていた。太っていたほうはアフリカ系で、やせていたほうはイタリア系のように見えた。
「ダニエル・ジャクソンに、アイデン・ムーア。今日も背が高いな」
スコットは言った。
「この背の高いのは生まれつきじゃないですか、それよりそちらが、今回雇い入れる助っ人の先生ですか?」
アフリカ系の太っていた方の男は言った。どうやら、こちらがダニエル・ジャクソンらしい。
「そうだ」
「中でボスがお待ちです」イタリア系のアイデン・ムーアは言った。
「そうか。では、先生、どうぞ」
その建物はあまりにも古びていたせいで、扉はなかった。そこにはそのあとがぽっかりとくりぬかれてあっただけであった。驚くことではない、この建物のほとんどに扉がなかった。あるのは扉があった場所にあった空間だけであった。
ジャクソンとムーアはその空間の両端に立って、警護していたのだった。スコットはその空間を潜り抜けると、河野もその空間を潜り抜けた。
その空間を潜り抜けると、そこには一人の男が肘掛椅子に座っていた。サングラスをかけていて、髪はかなり長い。髭も長く、左手にステッキを持ち、それを軽くもてあそぶように右手に打ち付けていた。その男はこちらに向かう形で座っていた。
そしてその男は、とても背が低く、先ほど説明した風貌から一見すると卑しい人間にも見えるはずだったが、とても、そうは見えなかった。
それはその男の歩んできた経験、というものが、すべてを物語っていたせいだった。向かい合うだけで、その男の凄味というものがひしひしと伝わってきた。
「やあ、スコット」男は口を開いた。
「連れてきましたよ、ボス」
「そちらがその先生かい?」
「ええ、河野卓一先生です」
「こんにちは。先生」
「こんにちは」河野はどことなく緊張していた。
「それで先生、ここに来た以上は引き受けてくださったんですよね?」
「ええ」
「ありがとう」
「確認しておきますが100万ドル本当にいただけるんですね?」
「ええ」
「それで、こちらの要求はのんでもらえるとして、そちらの要求を聞かせてもらえますかね?」河野は言った。
「わかりました。まずは自己紹介から参りましょう。私はウィリアム・キャンベルと言います。もちろんキャンベルという姓からもわかるとおり私はキャンベル一家のボスであります」
「なるほど」
「河野先生、あなた去年の世界一決定戦のことを知ってますかい?」
ウィリアム・キャンベルは言った。彼は足元にあった小石を軽く蹴って向こうにやった。その石は静かな廃墟にカラカラと音を立てて転がって行った。
「はい、私、そう野球は詳しくはないんですが、去年の世界一決定戦の勝者が決まるときは車の中でラジオを聞いてましたから、知ってます」
石が転がり終えるのを待って、河野は答えた。
「それなら話は早い」
「どう早いんです?いや、そもそも今回の事件とその世界一決定戦と何か関係があるんですか?」
「まあ、驚かれるのも無理はありませんが、驚くのはまだ早いですよ」
「いったいなんなんです?」
「私どもはその世界一決定戦で野球賭博をやっておったんです」
「野球賭博って……、あなた野球賭博はニューヨークでは禁止されているはずですよ?」
「それは百も承知なんですがね」
ウィリアム・キャンベルは不敵な笑みを浮かべて言った。
「そうか、あなた方はマフィアでしたね、法律なんてあなた方にとってはお構いなしか……」
「どうとでもお考えください」
「それで、何が問題なんです?野球賭博をやって大儲けしたんならそれでよかったじゃないですか?」
「儲けさせていただいたことには違いがないんですがね」
「何かあったんですか?」
「ええ」
そこでウィリアム・キャンベルは押し黙った。何か話すのがもったいないかとでも言うように。
「何なんですか?黙っていちゃわからないじゃないですか」河野はそのあとの内容が何であるかが気になった。
「どうやら世界一決定戦で八百長があったらしいのです」
「八百長?」
「ええ」
「八百長って、そんなこと現代社会にありうるわけないじゃないですか」
「私もそう思うんですがね。どうやらあったらしいんです」
「そんなバカな」
「河野先生。あなた去年の世界一決定戦の優勝決定試合、つまり第7戦ですが何か不可解ではありませんでしたかね?」
河野はもう一度去年の世界一決定戦について思い返してみた。
「ああ、確かにクローザーの選手が何度も痛打されて最後には満塁ホームランを打たれた場面がありましたね」
「そうです。問題となっているのはその部分なんです」
「なるほど」
「それで、困ったことになりましてね、八百長があったことは事実なのでしょうけれど、その八百長を行った人物が私たちの間で把握できていないんです」
「なるほど」
「それでその八百長を行った人物について調べてもらいたいんですよ」
「そうですか。そういうことですか」
この事件を河野に任せた合点が言った。この男は身内に裏切り者がいるから、部外者の河野に捜査させようとしているのだ。
「ええ、やってくれますね?」
「わかりました。もう引き返せないと言われましたからね」
「そうです。あなたはもうこの案件から引き返すことはできないんですよ」ウィリアム・キャンベルはやはり不敵な笑みを浮かべた。
「ええ」
河野は少し嫌な気持ちがした。この、八百長を仕掛けた人物を探す、という一見簡単そうなことが、とても難しい事件へと発展していくような気がしたからだった。
「それと、一人では心もとないでしょうから、そこにいるスコットを連れて行くといいでしょう」
「わかりました」河野は言った。
「ええ、きっと役に立つでしょう」
ウィリアム・キャンベルは言った。
「スコット、頼んだぞ」
「ええ、任せてください」スコットは言った。
「では、行きましょうか、先生」
スコットは河野の方へ向き直って言った。河野たちはウィリアム・キャンベルのアジトを後にした。日の当たるレンガ造りの塀も、人が全くいないのも、来た時と全く変わってはいなかった。変わったのは河野の気持ちだけだった。
これから始まる何か恐ろしいことに首を突っ込んでしまったかのようで恐ろしくてならなかったのだ。
もちろんその場所から立ち去るときも、スコットは河野に目隠しをすることは忘れなかった。