マフィアとの出会い
3
あれから半年後の五月中旬のことだった。壁から机からすべて白に塗りたくられた真っ白な大教室には大勢の学生たちが集まっていた。
窓の外はもうすっかり春は終わっていて、新緑の季節がやってきていた。暖かい日差しが教室内に入って来る。
彼らはみんな熱心に黒板に書かれた文字をノートに写し取り、また、熱心に河野卓一の話を聞いていた。
ニューヨークにある世界でも有名な大学の客員教授である河野卓一は、生徒たちが熱心に話を聞くのと同じくらい熱心に話をしていた。それは英語で話されていたことは言うまでもない。
彼はその日の授業内容について、できうる限りわかりやすく学生たちに話をしていた。
あまりにも熱心に話しすぎているところに授業の終了のブザーが鳴る。
「では、ここまで」
話の途中ではあったが、授業を終えることにした。学生たちはさっきまで授業に熱心になっていたのが嘘のようにそそくさと教室を後にし始める。
全員が出て行った、大教室は、真っ白だった。壁も机も、椅子も、すべて真っ白な大教室。その中にただ一人いることは寂しささえ感じられた。
「先生」
いや、一人ではなかった。河野は思った。すなわち教室にもう一人、人間がいたのだ。声を発したのは一人の学生らしき男だ。正直に言うとその男は学生にはふさわしくない格好の男で、いかにもいかめしい恰好をした男だった。目つきは悪く、こわもての男で、少なくとも、この学校の学生はこんな格好しないだろう。河野はそう、直感した。彼は普通の学生なら絶対に身に着けないような黒のスーツを着て、髪の毛はオールバックにし、そして何よりも学生にしては年を取りすぎていた。30代後半というくらいだろうか?
「何でしょう?」
「とても興味深い授業でした」
男はゆっくりと手をたたいて河野に拍手を送った。その拍手は学生がいなくなって静かな大教室にこだました。
「そうですか、ありがとうございます」
「あなたは河野卓一先生であってるんですよね?」
「いかにも、私が河野卓一ですが?」
「そうですか」
「あなた、ここの学生の人ではありませんね?」
河野は不審に思い言った。
「さすが、鋭いですね」
男と河野の間で少なからず緊張が生まれた。
「あなたの格好を見れば誰だってわかります」
「確かにそうですね。私の格好はここの学生とは少し違う恰好をしているようですね」
それでも、窓から差し込む温かい五月の日差しがその緊張をかき消してくれた。
「ええ、それで何の用なんです?私に」
しかし、河野卓一は少なからず、その男を恐れていた。その男は何を言っても動じなさそうな独特の雰囲気があったからだ。
「先生、実はあなたに相談事があって、ここに来たんです」
「相談って何の相談でしょう?」
河野の声はどことなく震えていた。しかし、そのことを悟られないように必死で隠そうとした。
「私はキャンベル一家の、マシュー・スコットというものです」
「キャンベル一家?」
河野はその言葉を聞いて絶句した。キャンベル一家とはニューヨークで名をはせたマフィアのうちの一つじゃないか。
「キャンベル一家って……」
「ええ、私はマフィアです」
マシュー・スコットは簡単に自らのことをマフィアだと認めた。
「そ、そのマフィアが私に何の用なんですか?」河野に漠然と不安が現れた。
「ニューヨークで一番頭のいい大学はこの大学なのです」
「それで?」
河野にはまだこのマフィアの意図がわからないでいた。
「ニューヨークで一番頭のいい大学の人間何人かに、この大学で一番頭のいい人間は誰か、と尋ねたところ、河野卓一だ、という人間が一番多かったのです」
「それがどうしたんです?」
河野は震える声を押し殺しながら言った。
「つまりこういうことですよ。私どもは今、少し困った事態になっていましてね」
マシュー・スコットは急に笑顔になって言った。むき出しになった歯はとても恐ろしくて肉食獣を思わせた。
「何が困っているんです?」
「まあ、話を聞いてください。私どもは困った事態になっていまして、とにかくこの事態を解決できるような頭のいい人間を探している、ということなんです」
「なるほど」
河野はこのマシュー・スコットの意図をひとまず理解したので少し安堵した。
「それで、今、ニューヨークで一番頭のいいはずのあなたに、その事態を解決していただければ、と考えているのですよ」
「ちょっと待ってくださいよ、冗談じゃない。私にマフィアの片棒を担げ、と言いたいんですか?」
河野は寝耳に水のこの状況にとても嫌気がさし、思わず言った。
「片棒を担げ、とは言いませんが、少し知恵を貸してほしいのです」
「同じことです、そんなことできるわけありません」
河野はきっぱりと断った。仮にも、ニューヨークの有名大学の客員教授がマフィアの片棒を担いでいるとなれば、それはすぐにマスコミの格好の餌食となるだろう。
それは河野にとっては非常にまずい事態になることを意味していた。そんなリスクを負ってまで、河野はマフィアの手助けなんてできるわけがなかった。
「まあ、そうでしょうね」
男は不敵な笑みを浮かべて言った。
「何です?」
「もちろん、無料で、とは申しませんよ」
男の真意はこれでわかった。
「いくら払うって言うんですか?」
河野は少しずつこのマシュー・スコット、という男に興味を持ち始めていた。いや、スコットが所属するキャンベル一家というマフィアに、だ。
「100万ドルでどうでしょう?」
「100万ドル?」
河野は驚いた。100万ドル、というと、日本円で1億円である。河野が驚くのも無理はない。
この金額が提示された時点で、河野の中にはある迷いが生じていた。それはもちろん、マフィアを手伝うか、手伝わないか、ということであった。
「どうでしょう?」
マシュー・スコットはにやにやした様子で言った。
「ずいぶんとお金を払ってくれるんですね?」
「こちらとしても状況が状況でしてね」
マシュー・スコットは言った。彼はやはり笑っていた。
もちろん河野にも事情があった。河野には家族があった。妻もいたし、息子も3人いた。もちろん、彼女たちは日本にいたのだが、彼女たちを養っていくだけのお金を作り出せるか河野は常日頃悩んでいた。
河野の妻は常日頃から、私立の、授業料が高額な小学校に息子たちを入学させたがっていたし、河野の妻は消費家で、常に高級なものをほしがっていた。
1億円と言えば、それらを補って余りあるくらいの金だ。この後の人生設計においても楽ができる。
そういう事情があって1億円というのはとても魅力があった。
河野はのどから手が出るほどその金が欲しくてたまらなくなってきた。
「どうでしょう?100万ドルですよ?私だったら絶対に引き受けますがね」スコットは言った。
「確かにいい話ではありますね」
河野はマフィアに協力する後ろめたさを感じながらも言った。
「そうでしょう?引き受けていただけますね?」
二人の間に沈黙が起こった。
「引き受ければいいのですね?引き受ければ……」
河野は少し考えてから言った。マスコミにたたかれる可能性はあるにしても、100万ドルは魅力だ。
「ありがとうございます」スコットは言った。
「礼を言うには及びませんよ。しかし、100万ドルは間違いなくいただきますよ」河野は念を押した。
「わかりました。しかし、一度引き受けてくださった以上は後には戻れませんからね」
「わかりました」
「では、ついてきてください」
スコットはスーツに包まれたその大きな体を伸ばして言った。彼は歩きだした。100万ドルという欲求に駆られた河野はそれにつき従うしかなかった。