恋雪~植~
今年の電撃大賞に応募して、一次通過も出来なかった作品でございます。皆様のご意見、御感想をお待ちいたしております。
雪が深々と降っている。
日中から降っていた雨が、雪へと変わり文字通りのホワイトクリスマスとなった。
歩道を行き交う人々の足取りも、どこか浮かれているようだった。
僕は雪が嫌いだった。
雪の日に、良い思い出など一つもなかった。否、考えてみれば雪の日に限らず僕の生きて来た十九年の人生の中で、良い思い出というやつはほとんど存在しなかった。
大体、僕の存在自体がたぶんそういう良い思い出とか、世間で言う幸せとかとは無縁の様な気がしてならない。外見は小太りといか言われている範囲をはるかに超えているし、近眼で度の強いメガネをかけて、性格も暗くどちらかと言えば引きこもりの代表選手みたいな印象しか与える事が出来ない僕が、当然のように幸福の女神に見放されたとしても、それは恐らく自然の摂理なんだと思う。
しかし、こんな僕でも母だけは愛してくれていた。
その母が死んだのも、五年前の今日だった。今、僕が居る所から道路を挟んで高岡記念病院という大きな看板が自然と僕の視界に入り込んでくる。五年前の今日もやはり雪が降っており、母はあの病院で雪を見ながら亡くなった。
母が死ぬ間際に僕に言った。
「大ちゃん、ごめんね。お母さんもう大ちゃんと一緒に居られなくなっちゃった」
大ちゃんは僕の名前である。結城大切。これが僕の正式名称だ。
「大ちゃんは、お母さんのたった一つの大切な宝物なの。だから、大切と名前を付けたのよ。大ちゃんも早く大切な宝物を見つけて、自分が大切だと思った事を信じて生きて行くのよ……」
それが母の最期の言葉だった。
父は僕が三歳の時に事故でなくなっているので、母が死んだ瞬間、僕は正真正銘天涯孤独の身となった。
「大切な宝物……」
僕は思わず言葉を漏らしていた。
無理だよ。母さん──
降りしきる雪を見つめながら、そんな事を思い出して僕は小さく溜息を吐いた。
「今日も誰も来ないか……」
僕の口から白い息が漏れた。
小さな折りたたみのイスから立ち上がると、僕は目の前に置いてある数枚の色紙とその横に立てかけてある段ボールで作った似顔絵一枚五百円の看板を畳み始めた。
その時、僕の後ろでサクっと雪を踏みしめる音がした。
「もう、終わりなんですか?」
女の人の声がした。
「あっ、いえ、大丈夫で……」
と、振り向きながら答えた僕は、その人を見つめた瞬間に最後の言葉が言えなかった。
そこに立っている女の人があまりにも可愛いくて―─
少しはにかんだように微笑む顔に僕は呆然と見とれてしまった。
「描いて頂けます?」
「あっ、はい」
僕は慌てて描く準備を始めた。
「どうぞ。このイスに座って下さい」
僕は自分が座っていた折り畳みイスの隣に置いてある、大きめの別のイスを彼女に差し出した。
「あっ、これもどうぞ」
と、傘を開いて彼女に差し出した。
「えっと、どんな感じがいいですか? 顔のアップとか、上半身だけとか、全身も描けますけど」
「貴方にお任せします」
「わかりました」
僕はイスに座り直し、色紙が雪で濡れないようにもう一本の傘を肩に立て掛けた。
こうして僕は彼女、水貴恋と不思議な時間を共有する事になったのである。
似顔絵はどれだけ短い時間で、その人の特徴を捉え描き上げるかが勝負であった。
人の顔というのは、千差万別で同じ顔というものは絶対に存在しない。
例え双子であっても、同じようには見えてもその細部を見比べると微妙に違うものなのである。
人の顔で一番特徴を現すのが目である。
目は口ほどにものをいう。なんて諺があるくらい目はその人物のすべてを現すのである。
いつも、絵を描きながら思うのだが、僕は人の目を見ているだけで、何故かその人の性格とか判るような気がするのである。実際、確認したことはないけれど――
そして、僕は今目の前にいるこの女の人に対して、奇妙な感覚を味わっていた。
色紙に鉛筆を走らせながら、僕はこの人の目を見つめて懐かしさを感じていたのである。
会った事などないはずなのに、どうして僕はこの人に懐かしさを覚えるのだろう。
「喋ってもよろしいかしら?」
「あっ、どうぞ」
「私、水貴恋と申します」
突然、その人は自分の名前を名乗った。
「はあ?」
その人の予想外の言葉で、僕は思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「結城大切さん……ですよね?」
「そうですけど、どうして僕の名前を?」
「あっ、ごめんなさい。びっくりしますよね。突然名前なんか言われたら……」
「あのー、どこかでお会いしましたっけ?」
「いえ、たぶんお会いするのは今日が初めてだと思います」
その人、水貴恋はそう言うと顔を真っ赤にして俯いた。
「どうしよう、私……」
「えっ?」
水貴恋が突然イスから立ち上がっていた。
「ごめんなさい」
水貴恋はそう言うと傘をさしたまま頭を下げた。
傘に積もっていた雪がバサリと僕の前に落ちた。
僕はただ呆然と書きかけの色紙を持ったまま、走り去って行く水貴恋の姿を追っていた。
「なに?」
まったく訳が判らず、僕はポツリと呟いた。
降り続ける雪が、斜めになった傘にまた積もり始めていた。
その夜。僕はずっと水貴恋の事を考えていた。
書きかけの色紙を見つめながら。
水貴恋の顔ははっきりと僕の脳裏に焼き付いていた。すべてにおいて、バランスのとれた顔だった。
丸みを帯びた輪郭は彼女の優しさを表現しているようで、その丸くて大きな瞳は彼女の明るさを現しているようだった。少し太めの眉毛は彼女の奥に隠れた知性を現し、形良く伸びた鼻筋と唇は彼女の謙虚さと清廉さを僕の魂に植え付けた。
この十九年間閉ざし続けた僕の灰色の脳みそに、初めての感情が沸き上がった。
水貴恋が顔を真っ赤にして俯いた姿が蘇った。
その瞬間、僕の心臓が高鳴り、全身が熱くなった。
僕は、何度も大きな溜息を吐き、いつの間にかその色紙に鉛筆を走らせていた。
そして、気が付けば窓から陽の光が洩れていたのである。
昨日の雪が嘘のように、今日は日射しが眩しかった。
僕は昨日と同じ様に高岡記念病院前に座り、行き交う人々の様子をぼんやりと眺めていた。
家を出たのが朝の七時で、今は昼の一時半である。
その間、お客さんは誰も来ていなかった。
いや、お客さんなどどうでも良かった。僕はただ、水貴恋が現れるのを待っていた。
根拠など何もなかった。あんな可愛くて綺麗な人が僕のような侮男に会いにくるはずないのに──
でも、絶対に来る。
不思議なその確信だけが、僕の全身を支配していた。
そして、陽も暮れかかった頃。その確信通り水貴恋は僕の前に現れたのである。
「昨日はすみませんでした」
僕の前に立った水貴恋がペコリと頭を下げた。
「いえ、僕こそ貴方に何か不愉快な思いをさせてしまったようで、かえってすみませんでした」
「いえ、何も不愉快な事などありません。私が勝手に混乱してしまっただけで本当にごめんなさい」
そう言って水貴恋は昨日と同じあの飛び切りの笑顔を浮かべた。
「昨日の続き、描いて頂けるかしら?」
「あっ」
僕は慌てて、出来上がっている水貴恋の似顔絵を紙袋から取り出して彼女に差し出した。
「うわぁ、そっくり。凄い大ちゃん」
「えっ!」
母が死んでから、しばらく呼ばれた事のない呼ばれ方に驚いて、僕はまじまじと彼女の顔を眺めた。
「今……?」
しかし、彼女自体は僕に対して『大ちゃん』と言った事に全然気付いていないようだった。
「凄いですね。一度見ただけで、こんなにそっくりに描けるなんて」
やはり、自分が描いたものが人に喜んでもらえたり、褒められたりするのは気分が良かった。
僕が唯一人から褒められるとしたら、この似顔絵ぐらいである。自分の外見から、どうせ他人は自分とは関わりは持たないようにするだろう。
でも、まったく他人と関わらず生きて行くなんて、やっぱり無理だと思うし、いくらそういう事を割り切ろうと自分で決めても、自然と人との関わりを求めてしまう。
僕が似顔絵描きでこうして街頭に立つのも、人との関わりが恋しいからである。
「良かったです。気に入ってもらえて」
彼女はニコニコしながらハンドバックから財布を取り出した。
「どうぞ」
と、彼女は財布から五千円札を僕に差し出した。
「あっ、ちょっと待って下さい。今おつりを差し上げますから」
僕は自分の財布を広げた。
「あの、もし宜しかったらそれは全部受け取っていたただけないかしら」
「いえ、それは困ります。あくまでもこちら書いてある値段でお願いします」
僕はおつりの四千五百円を彼女に手渡した。
「そうですか。凄く気に入ったものですからそのお礼と思ったのですが、ごめんなさい……」
「いえ、良かったらこの紙袋使って下さい」
彼女が受け取った紙袋に色紙をしまった。
「あのー、昨日は本当に失礼な事をしてしまって、なのにこんな素敵な絵まで描いていただいて……」
彼女は俯いたまま顔を真っ赤にした。
「私、どうしても貴方に何かお礼がしたいんです。迷惑じゃなかったらこれから御一緒にお食事でもいかがてすか?」
今、目の前で起こっている出来事は夢なのだろうか?
こんな綺麗な人が自分を食事に誘うなんて、そんな事が現実に起こり得るのか?
有る訳がない。しかし、今こうして目の前で顔を真っ赤にして佇む水貴恋は間違いなく現実であった。
「何かの勧誘ですか?」
ああ、僕は何をいっているのだろう。自分でも思っていない言葉が勝手に口から出てきた。
一瞬、水貴恋は戸惑いの表情を浮かべた。
「いいえ、そんなじゃなくて、本当にただお礼がしたいだけなんです!」
彼女のあまりにも真剣な眼差しと、どこか気迫じみたものを感じた僕はただ頷くだけしか出来なかった。
その十分後。僕達はそこから五百メートル程離れたレイチェルというファミリーレストランに居た。
僕はあれからほとんど喋れないで、今水貴恋と向かい合っていた。正直、何を喋ったらいいのか判らなかったのである。
「すいません、本当に勝手な事ばかり言って……ここのびっくりハンバーグセットはとても美味しいんですよ」
と、彼女の薦められるままに僕はそれを注文した。彼女はレイチェルナポリタンセットを注文していた。
自分からはほとんど喋ろうとしない僕に気を遣ってくれているのか、水貴恋は色々話しをしてくれた。しかし、ほとんど僕は上の空で、この夢のような一時がいつ過酷な現実を突きつけて終わるのかと、そればかり心配していたのである。
食事中も気の利いた会話などをする訳でもなく、僕は黙々とハンバーグセットを食べた。
食後のコーヒーを店員が置いて行くのと同時に、水貴恋が僕を見つめた。
「本当に今日はありがとうございました」
僕は黙ったままコーヒーを一口啜り、彼女の視線を受け流した。
「変な女だとお思いでしょ?」
「いえ……」
短くそれだけ答えた。
「何からお話すればいいのか、昨日もそうだったんです。きちんと話すべき事はまとめていたはずなのに、貴方と言葉を交わした途端に気が動転してしまうんです」
そう言ってまた彼女は顔を赤らめた。
「多分、信じてもらえないと思うんですけど、今から二週間前に初めて貴方の夢を見たんです」
「夢? 僕のですか?」
僕は思わず聞き返した。
「はい。その日から毎日貴方の夢を見るようになったんです」
そんな事あるはずがない。しかし、彼女は真剣な表情のまま続きを喋り始めた。
「最初はボンヤリとしていたんです。でも、日に日に貴方がどこで何をしているとかがはっきり判るようになってきて、三日前にあの場所に行ってみたんです。そしたら、夢と同じ人がそこにいて絵を描いていて、それで、また一日考えて昨日思い切って声を掛けてみたのです」
「では、僕の名前も?」
「はい、夢の中で知りました」
「さっき貴女は僕の事を大ちゃんと呼びました。この呼び方をする女性は僕の知る限り母親だけです」
「えっ? 私そんな失礼な事、言っちゃいました? ごめんなさい」
彼女はより一層顔を赤くして頭を下げた。
「でも、どうしていきなり貴方の夢しか見なくなったのか、私、原因が知りたいんです」
「原因と言われも、僕が貴女に何かしている訳でもないし困ったなぁ」
「あの、先程お母様のお話されましたけど……」
彼女が探るような視線を僕に向けた。
「母は、五年前に亡くなりました」
「そうですか」
そのまま彼女はしばらく何かを考え始めてた。
長い沈黙が続き、僕はどう対処していいものか判らないまま視線を外へと移した。
「笑わないで聞いて下さいね」
突然、真顔で彼女は僕を睨んだ。
「結城さんは霊の存在を信じますか?」
「は?」
その時の僕は、恐らくとんでもなく間の抜けた表情をしていたに違いない。
「霊って、あの心霊現象とかの?」
「どう考えても、同じ夢を見続けるなんて絶対にありえません。これはやっばり霊のしわざじゃないかと思うんです」
「貴女が言いたいのは、つまり死んだ母の霊が貴女に僕の夢を見させていると言う事でしょうか?」
「それ以外考えられないんです」
「確かに母は僕の事を心配して死にましたけど、しかし、現実的にそんな事が起こるものでしょうか?」
「だったら、どうして同じ夢ばかり見るんですか?」
僕は返す言葉がみつからず、ただ唸るだけしか出来なかった。
そして、結局何の答えも見いだせないまま僕は彼女と別れたのだった。
昨日からほとんど寝ていない僕は、家に帰り着いた途端ベッドへと倒れ込んだ。
とても長い間緊張していたせいか、僕はベッドに横になってすぐに眠りに就いた。
そのまま朝まで眠ってしまった僕は、買ってからほとんど鳴らなかった携帯電話の着信音で目が覚めた。
相手は誰だか判っている。水貴恋だ。昨日、食事の後に彼女の方からまた連絡を取りたいので携帯の番号を教えてほしいと言われ教えたのだが、実はその時も僕は彼女に笑われたのである。彼女が携帯を取り出しながら「今、赤外線でおくりますね」と言った。友人もいない僕にとって、携帯に着いているそんな機能等使った事がなく、僕はどうして良いか判らなかったのである。彼女はクスッと小さく笑うと、僕の携帯のOKボタンを押してディスプレイに表示されている赤外線の所にカーソルを移動させ、僕の携帯と彼女の携帯を向かい合わせた。
「はい。これで大丈夫です」
本みたいなマークのボタンを押して、素早く彼女は僕の携帯のディスプレイに自分の名前を表示させた。
「ねっ」
そう言ってまた笑った。
その笑顔を思い出しながら僕は受話器マークのボタンを押した。
「はい、結城です」
「あっ、朝早くからごめんなさい。水貴です」
昨日彼女が話していた内容が頭の中に蘇った。
「やっぱり見ましたか?」
「はい」
「そうですか」
「結城さん、今日の御予定は?」
「特別何もありませんけど」
「では、今日もレイチェルで会っていただけませんか」
「構いませんけど」
「では、十二時にレイチェルで」
「わかりました」
僕は電話を切った。これは喜んでもいいのだろうか?
会うための理由はさておき、向こうから誘ってくると言うことは僕に対してまず警戒はしていないという事ではないだろうか?
彼女が僕に会っている時に見せるあの恥じらいの表情は、僕に対してまんざらでもないという事ではないのか?
しかし、本当にそんな事が有り得るのか――
有り得る訳がない。だとしたら、彼女の目的は何なんだ?
判らなかった。どっちにしても、今日彼女に会えば、彼女の目的もはっきりするだろう。
僕は、いかなる状況になろうと出来るだけショックを受けないよう、頭の中で様々なシミュレーションを行った。でも、同時に今のこの状況に心ときめくものも感じていた。
待ち合わせの時間よりも三十分早く、僕はレイチェルのテーブルに着いていた。
取り合えずコーヒーだけを注文した。
ボンヤリと外へ視線へ移すと高岡記念病院の入り口が目に入った。
そうか、ここからも見えるんだ──
母の顔が浮かんだ。
「そんなこと、有る訳ないよな」
思わず小さく吹き出した時、店員がコーヒーを運んできた。
「お待たせいたしました。コーヒーでございます」
僕は小さく首を立てに振った。
店員が去り、コーヒーを一口啜りまた外に視線を向けた時だった。
水貴恋の姿を見たのであった。
水貴恋は高岡記念病院の入り口から丁度出て来た所だった。
どうして、彼女が病院に?
素朴な疑問が浮かび上がった。
病院から出て来た彼女は、横断歩道を渡りこちらへと向かっていた。
窓に映る僕の姿を見て、彼女はあの笑顔を浮かべ小さく手を振った。
その仕草に見とれながら、僕も小さく手を挙げていた。
ピンホーンというチャイムの音と共に彼女は店内に現れ、僕の所へとゆっくりと近づいて来る。
こんなシチュエーションが味わえるなんて、僕はこの時本当に生きていて良かったとしみじみ思ったのである。
「ごめんなさい。待ったかしら?」
「いいえ。僕も少し前に来たばかりです」
まもなく店員が水とメニューとおしぼりを持って来た。
「私、ラザニアとシーザーサラダ。それからアイスティー」
彼女はメニューも見ずにそれらを注文した。
「あっ、僕もラザニアとシーザーサラダ下さい」
「かしこまりました。アイスティーはいつお持ちいたしますか?」
「食前でお願いします」
「かしこまりました」
店員が頭を下げて去って行く。
「水貴さんは、ここによく来るんですか?」
「はい、病院に行った帰りは必ず寄ります」
彼女がおしぼりで手を拭きながら答えた。
「今もそこの高岡記念病院から出てきましたけど、どこかお悪いのですか?」
「私、腎臓が悪くて、透析をしているんです」
「腎臓……ですか?」
「ええ、五年前に移植手術を受けてからずっと調子良かったんですけど、三ヶ月前からまた調子が悪くなって受診したら、移植した腎臓が悪くなり始めているって」
「そんな事ってあるんですか? 僕はてっきり移植したらすべて治るものだと思っていました」
僕は思いがけない彼女の実態を垣間見た様で心苦しかった。
「ええ。五年も持ったのは良い方なんですって」
「そうなんですか……」
その時、何かが僕の心の中に引っかかった。
「お待たせ致しました。アイスティーでございます」
店員が彼女にアイスティーを差し出した。
僕は、またコーヒーを啜り視線を窓の外へと移し掛けた。
そして、この瞬間ようやく僕は気が付いたのだった。
「水貴さん。一つだけ聞いても宜しいですか?」
いつになく真剣な表情で、僕は水貴恋の顔を見つめた。
恐らく、僕の考えが正しければ、これですべての謎が解けるはずである。
「水貴さんが、手術したのは五年前のいつですか?」
「十二月二十五日ですけど」
彼女の答えを聞いて、予想していたとは言え自分の考えが的中した事に僕は軽い目眩を覚えた。
「それがどうかしました?」
「水貴さんはA型ですよね?」
「あら、良く判りますね。やっぱり性格とかに出ちゃってるのかなぁ」
「実……」
と、僕が言いかけた時、店員が注文した品を持って来た。
「お待たせ致しました。ラザニアとシーザーサラダでございます」
順番に皿が置かれて行くのを眺めながら、僕は自分の考えを整理していた。
「ごゆっくりどうぞ」
と、店員が去って行く。
「いただきまぁーす」
彼女が自分の胸の前で手を合わせた。
「あっ、いただきます」
僕もつられて手を合わせた。
「私、あれから色々と考えてみたんです」
彼女がサラダの中身をフォークで突きながら喋り始めた。
「でも、いくら考えても結局答えは同じ所に行ってしまうんです」
「霊ですか?」
「はい」
「実はその事なんですけど、多分答えが見つかりました」
「えっ! 本当ですか?」
「はい」
「凄い、早く教えて下さい」
彼女はまるで子供のように目を輝かせていた。
「その前に、水貴さんにお願いがあるんです」
「何でしょう?」
「今度、水貴さんが透析する時に僕の血液も使っていただけませんか?」
「どういう事ですか?」
「多分、僕が輸血することで、貴女が見てきた僕の夢はもう見なくなるはずなんです」
「意味が判りません。もう少し判るように説明してもらえませんか?」
「僕が今考えている事は、正直とっても馬鹿げている事なんです。だから、その確証を得る為にどうしても貴女への輸血が必要なんです。お願いします」
「判りました。透析が済みもし貴方の夢を見なかったら、貴方の考えが正しいと言う事なんですね?」
「そうです」
「その後、きちんと私に説明してくれますか?」
「はい」
「では、今度の透析は三日後の朝九時からですので、高岡記念病院の透析外来でお待ちしております」
「わかりました」
そして、僕達は淡々と食事を済ませレイチェルを後にしたのだった。
『今日も貴方の夢を見ました』
と、彼女からメールが来た。この文だけだと、とても彼女から僕が慕われているような錯覚を起こしてしまう。
彼女にしてみれば、僕に対しての単なる報告でしかないのだ。
翌日も同じ内容のメールが来た。
そして、約束の日の朝も同じメールだった。
僕は久しぶりに母の仏壇に線香を上げて、「行ってくるよ。母さん」とだけ告げて家を出た。
高岡記念病院に着いたのは八時二十分であった。
母がここで亡くなってから一度も来たことがなかったが、雰囲気は五年前と変わらなかった。
エレベーターに乗って僕は二階で降りると、そのまま左側へ行き透析外来へと向かった。
外来の受付の看護師に自分の名前を名乗ると、すぐに中の第一診察室へと案内された。
「失礼します」
部屋へ入ると、40代前半くらい白衣を着た医師が机に向かって書類を書いていた。
「どうぞ、お座り下さい」
「ここの院長をしています。高岡勝といいます」
「結城大切と申します」
僕は少し緊張しながら頭を下げた。
「水貴さんに聞いたのですが、彼女に輸血をしたいとか?」
「はい」
「それは、どういう理由ででしょうか?」
「あの、専門的な事はわからないのですが、彼女の腎臓を良くする為に輸血したいと思いました」
「結城さん。貴方何か勘違いされてませんか?」
「彼女の病気は慢性的な腎不全です」
「はい、彼女に聞きました」
「慢性腎不全は、早い話腎臓が正常に機能出来ないために血液の濾過が出来なくなる病気です」
「はい」
「血液の濾過が出来なくなると、身体中に毒素が溜まりいずれ死を迎えます。」
「それを防ぐ為に、人工的に血液を濾過するのが透析療法です。だから、輸血は関係ないのですよ」
「しかし、五年前に移植された彼女の腎臓はもうほとんど機能していないのでしょう?」
「水貴さんからお聞きになったのですか?」
「そうです」
絶対に引けないと思った。僕は高岡医師を分厚いレンズの奥から睨み付けた。
「それに先生。移植した腎臓の肉親の血液を輸血すれば、極まれに悪化している腎臓の機能が正常に戻ることがあるって、本で読んだ事があります」
「ふん。そんな事は何の医学的根拠もないでたらめだよ」
高岡医師が鼻で笑った。しかし、すぐに真剣な表情で今度は高岡医師が僕を睨んだ。
「君、今臓器提供者の肉親と言ったね?」
「はい。彼女に腎臓を提供したのは、僕の死んだ母です」
「ドナーは、臓器移植法によってその移植者を知る事は許されていない。どうして、彼女に提供したと言い切れる?」
「母は五年前の十二月二十四日にこの病院で亡くなりました。そして、その翌日の二十五日に彼女はここで移植手術を受けています」
高岡医師が僕の言葉を聞いて笑い出した。
「そう言う事か」
「お願いします、先生。彼女に輸血させて下さい」
高岡医師は目を瞑りしばらく考え込んでいたが、ゆっくりと僕を見据えると口を開いた。
「私は別に君の考えを認めるつもりもないが、昨日から彼女のヘモグロビンの値が急激に下がり始めた」
「ヘモグロビン……ですか?」
「簡単に言えば腎性貧血という症状が出始めたという事だ」
「では、輸血が必要なんですね」
「君、この人の血液検査」
高岡医師は看護師にそう指示すると席を立った。
「ありがとうございます」
僕が頭を下げ終わった時には、すでに高岡医師の姿はなかった。
「はい。では輸血の前に血液検査をしますので、右腕を出していただけますか?」
その看護師から輸血の説明等を聞かされながら、僕は腕に刺されたチクッとした痛みに耐えた。
「検査結果は十五分程で出ますので、その間廊下でこの問診票を記入していただけますか?」
僕は問診票を受け取ると、廊下の長椅子に腰掛けてそれを記入し、再びさっきの看護師に手渡した。
そして、十分後。僕は二百CC程血を抜かれ返されたのであった。
その日結局彼女には会えず、お昼頃にメールが来ただけだった。
『今、透析終わりました。ありがとうございました。何か、今晩眠るのが怖いですけど、でも明日になればすべてはっきりするんですよね』
僕は『はい』とだけ返信した。
そう。明日になればすべてがはっきりと判る。
僕の仮説が正しかったのか、それとも間違っていたのか。
そして、水貴恋と会うのも明日が最後になるだろうと僕は覚悟を決めたのであった。
ほとんど眠れぬまま僕はその日の朝を迎えた。
頭がボーとして重たかった。
時計を見ると六時三十七分だった。
そろそろかな──
そう思った時、突然携帯電話が鳴った。
きた!
僕は手を伸ばして携帯を取ると、受話器マークのボタンを押した。
「おはようございます」
『あっ、おはようございます。水貴です』
「どうでしたか?」
『貴方の言った通りでした。信じられません、どうしてなんですか?』
「直接会ってお話しします」
『では、九時にレイチェルでどうですか?』
「すいません。僕結果が気になってほとんど眠れなかったんです。ちょっとだけ寝てもいいですか?」
『あっ、ごめんなさい。じゃあ十二時ではいかがですか?』
「すいません。わがまま言って」
『いえ、ゆっくり休んでください』
「ありがとうごさいます」
で、僕は電話を切るのと同時に眠りに就いたのだった。
しまった!
五、六時間も寝てしまった熟睡感を覚えたまま僕は慌てて飛び起きた。
しかし、時計を見るとあれからまだ一時間も立っていなかった。
僕は、携帯のアラームをセットし、きちんと目覚まし時計も掛けるともう一度ベッドに横になった。
すぐに睡魔は訪れ、僕は三時間後、目覚まし時計と携帯のアラームに起こされた。
服を着替え、洗面を済ませると僕は家を出た。
レイチェルに向かいながら、僕は母の事を考えていた。
母は自分の死期を悟った時、臓器提供者となった。癌などとは違い、母の肉体は本来の心臓病以外、特に欠陥はなく臓器提供者として申し分なかった。
母が死ぬ三ヶ月前。僕に言った事がある。
「大ちゃん。多分お母さんの病気はもう治らないと思うの。だから、お母さん自分の身体を病気で困っている人達に上げようと思うの」
その時の僕は、母の気持ちが判らず半べそをかいていた。
「泣いたら、駄目。いい? 大ちゃん。こう考えてみて」
母は笑っていた。
「もし、お母さんが死んでも、お母さんの身体の一部が他の人の身体にあれば、それはお母さんが生きているってことでしょう」
僕は泣きながら首を振った。
「それにね、身体は死んでも心は死なないの」
その時の優しさに満ちた母の笑顔は、未だに僕の心に焼き付いていた。
そして、僕は彼女が待っているレイチェルへと入って行った。
すべての始まりは母の思いであった。
自分が心臓病を患い、息子の行く末を見届けて上げる事が出来なくなってしまった悔しさや無念さは、母が自分で考える以上にその肉体の中に蓄積されたのだと思う。
それでなくても、僕の容姿、性格は他人から好まれるものではない。母自身も当然その事は判っていたはずだ。そういった僕の将来への不安が恐らく今回の事を引き起こしているのである。
母が臓器提供を思い立ったのは、最初は純粋な気持ちからであったろう。しかし、いよいよ死期が近づいた時、母は思ってしまったのだ。
他人に臓器を提供する時に、自分の思いも移植できないかと──
しかし、現実的にそんな事は不可能である。母は自分の死以上に深い絶望を味わった。
そして、その絶望感こそが今回の事を引き起こす未知の力となったのだ。恐らく母は死の瞬間まで自分の思いを体内に呪詛のごとく植え付けたのだ。
既に母が死んでしまっている以上、すべて僕の憶測でしかないが──
母が死んだあの高岡記念病院に同じく移植待ちで入院していた水貴恋は、母の死亡と同時に母の腎臓を移植された。
母の思いが染み込んだ腎臓を──
しかし、移植された腎臓がそのまま移植された側の腎臓として通常の機能をし続けるには限界がある。
母の腎臓も当然その機能を徐々に低下させてゆくのだが、母の腎臓は思いが染み込んでいるから悲鳴を上げたのである。
この腎臓に肉親の血液が流れれば、自分はもう一度、健全な腎臓として機能出来ると。
その悲鳴が水貴恋に僕の夢を見させる事だったのだ。
そして、僕はその思惑どおり彼女に輸血をした。
健全な腎臓として復活したそれはもう悲鳴を上げる事はなくなったのである。
だが、僕はこんな馬鹿げた話をすべて彼女に話す事が出来なかった。
結局、僕が彼女に語ったのはドナー登録していた母の腎臓を移植した事と、腎臓としてもう一度健全な働きをしたいために肉親の血液を必要としていたという事だけだった。
貴方が見た僕の夢は、腎臓が復活するための奇跡である。と、そんな嘘をついてしまったのである。
そして、母の愛情を移植されてしまった水貴恋は、今日もあの可愛くて飛び切りの笑顔を僕だけのために浮かべるのだった。
了