プロローグ
姉の円香がいなくなったのは、よく晴れた月夜の晩だった。
目を覚ますと変な気持ちがした。大人ならそれが胸騒ぎというものなのだとわかったかもしれない。
だが四歳の穂香はそんなことはわからずに、トイレに行きたくなったのだと勘違いしてベッドを抜け出した。あかりの消えた子ども部屋は妙にしらじらとして、反対側の壁際に置かれた空っぽの姉のベッドがやけにはっきり見えた。
「お姉ちゃん、どこ行ったんだろ?」
開きっぱなしのドアから出ると、リビングに続く廊下には床板に反射した光があふれていた。
「――」
一瞬、外から名前を呼ばれたような気がした。
わけのわからないまま誘われるように入ったリビングには誰もおらず、カーテンと窓が開け放たれて、ひんやりした空気と月光が流れ込んでいた。
床に伸びた影に気づいて見上げると、円香がベランダの手すりの上に後ろ向きに座っていた。
「お姉ちゃん、危ないよ。お母さんに怒られちゃうよ」
もともと円香は病弱でこんなところに登るほどおてんばではないし、それにもまして母親のいいつけはきちんと守る子どもだった。そうでなくてもここはマンションの十二階で、落ちたら助かるはずもない。幼児の自分だってそんなことわかっているのに、十一歳で自分よりずっと大きい姉がどうしてこんなことをしているのか穂香にはわからない。
「落ちたら死んじゃうよ。ねえったら」
不穏な空気を感じて穂香は必死に姉に呼びかける。
「大丈夫よ。お姉ちゃん、死なないから」
今までも何度か同じやりとりをしたことがあった。救急車で搬送される苦しい息の下で、病院で何本も管をつけたまま酸素マスク越しに、円香は何度もそう言ってきた。円香が穂香に嘘をついたことはない。
「ほんと?」
半べそをかく穂香に円香は振り返って微笑んだ。
「お姉ちゃんはね、月の子になったの。ほら、この目、見て」
そのとき穂香は初めて気がついた。姉の瞳が月のしずくを受けたように、金色に染まっていることを。
「月の子ってなに? 人間じゃなくなったの?」
「そういうことかな。いつの間にかこんなになってた。私、人間じゃなくなったのよ」
そう言って、円香は立ち上がった。
「お姉ちゃん……」
「だから月に帰るの。死ぬんじゃない――帰るだけ」
最後はつぶやくような小さな声だった。
「見てて」
円香は空中に足を踏み出した。
「お姉ちゃん。イヤだ!」
とりすがろうとした腕は空を切り、コンクリートにぶつかる。穂香はそのまま頭を抱え、身を縮めて何かが終わるのを待った。