桜の季節の回覧板
うちの庭のやつなの、もうすぐ咲くわよ、とバイト先の同僚のマリちゃんからもらって一週間。
桜はつぼみのまま、まだ咲かなかった。
マリちゃんはいいコだ。
入ったばかりの僕がトレーに山盛りのグラスを落として割ったときも、すぐに駆けよって片づけを手伝ってくれた。
自分だって忙しいのに、他の人が動きやすいように気づかってさりげなくサポートしてくれる。バイトとはいえ働くようになって、気が利くっていうのはこういう人のことをいうんだなと思った。
ただ、誰に対してもそうだから誰かが特別扱いというわけじゃない。
だから僕はのほほんと、いいコだなと思ってるだけだったのだ。
「マリちゃんさぁ、彼氏と別れたんだって?」
二つ年上のヤマノさんの声が休憩室から聞こえた。
そういえば、マリちゃんの少し前に休憩行ったっけな。
今日のまかないの丼とウーロン茶のグラスを持ったまま、僕は少し開いている休憩室のドアの前で立ち止まった。
「ヤマノさん、なんで知ってるの」
驚いたようなマリちゃんの声。
そうか、やっぱり彼氏いたのか。でも別れたなら……。
「じゃあさぁ、俺とつきあわない?」
……みんなおんなじこと、考えるよな。
僕は静かに裏口から外に出た。
花冷えのせいか少し寒かったけれど、コンクリートの階段に腰かけ、勢いをつけて飯をかき込んだ。たちまちむせて近くの店のネオンの文字がにじんで見えた。
深夜、居酒屋のバイトを終えての帰り道、川沿い公園の桜並木が星あかりに白く浮かんでいた。もう満開だ。
うちのあの桜は咲かないまま枯れてしまうのかな。
そんなことをふと考えて、少しさびしくなった。
四、五十センチもある桜の枝を活けられるような花びんが僕のアパートにはないからって、掃除用の青いバケツにつけといたのがいけなかったんだろうか。
バケツはもちろんきれいに洗ってから入れたし、水は毎日とりかえてるんだけどな。置いてあるベランダはよく陽も当たる。
川沿いの道の途中、レストランが見えてきた。その横の道を少し歩いたところに、僕の住むアパートはある。
レストランはもう真っ暗で、花見用に屋外席を設けてあるのを見ると、やっぱり今日はこの店も忙しかったのだろうか、などと考えてしまう。
その時、左手から勢いよく飛び出してきた白い影があった。
カラカラと響く軽い下駄の音を追って首を巡らせると、僕の住むアパートのあるほうへと向かう道を急ぐ、白っぽい着物姿の女の子があった。肩より短く切り揃えてある髪が走ると揺れる。背丈からすると、小学生くらいだろうか。
こんな時間になんでこんな子どもが? しかも着物姿で?
もしかしたら犯罪でもと、つつじの植え込みの向こうの公園に目を凝らしてみたけれど、桜の花びらが静かに散るだけで追ってくる者もいないようだし、逃げてるというよりは単純に急いでいるように見えた。
女の子が向かったその先は僕の住むぼろアパートを含め学生用の賃貸物件が多く、夜中でもどこかしらに明かりがついていてあまり物騒な感じはしない。
とはいえ、このご時世だ。何かあったら寝覚めが悪い。
どうせ明日はバイトも休みだし、あの子が家に着くまでは見届けることに決めた。あの格好ではどうせ遠くまでは行くことはないだろう。
僕は女の子の後をそっと追った。
走っているといっても、着物に下駄ではそうスピードは出ない。すぐに追いつくことができた。闇の中をさまようチョウチョのように紅い帯が僕の少し前を揺れていた。よほど急いでいるのだろうか。小走りは止まらない。それに、胸元に本かノートのようなものを抱え込んでいるようだ。
そのまま後ろからついていっても、女の子は僕に気づいていない。
でもこれじゃあ、僕のほうがそのうち誰かに通報されそうだ。
早く彼女の家についてくれればと祈りつつついていくと、白い姿がふいに路地を曲がった。
え?
女の子は古い二階建てのアパートの前で立ち止まり、胸に抱えていた四角い板のようなものに指をあてて何かを読んでいるようだ。
そこは僕の住むアパートで、そこには学生しか住んでいない。もちろん、子どもなんかいやしない。
追いついた僕が驚いて立ち止っていると、女の子は顔をあげ、二階の右から「いち、にぃ、さん」と指差ししてカウントすると、確認するようにうなづき、
軽い音を立てて鉄の階段を登っていった。
グリーンハイツ二〇三号室は僕の部屋だ。
あんな子知らないけど……?
何の用だろうと不思議に思いつつ急いで階段を登りきると、女の子はちょうど呼び鈴を押しているところだった。
ピンポーンという電子音が僕の耳にも聞こえた。
声をかけようとしたとき、誰もいないはずの僕の部屋のドアが開いた。
ええっ?
中から出てきたのは、中学生くらいの女の子。こちらは薄いピンク色のワンピースを来ている。やはり見覚えはない。
ていうか、どこから入ったんだ?
驚いて見ていると、着物の女の子はワンピースの女の子にあの四角い板のようなものを手渡している。
僕の部屋から洩れる明かりの下で見えるそれは、緑色の回覧板だった。
「遅れてごめんなさい」
着物の女の子が何度も頭を下げている。
「いいのよ。こんなところに外れてひとりだけでいると、遅くなるのは仕方ないもの」
ワンピースの女の子は嬉しそうに笑った。どこかしらマリちゃんに似ているような気がした。
「それじゃ」
着物の女の子はぴょこんとお辞儀をすると、くるりとこっちに向かってきた。
どちらに声をかけるべきか迷っている隙にドアの閉まる聞きなれた音がして、そっちを向いている間に、軽い下駄の音は僕の横をすり抜け、階段を下りて行った。
「あの!」
二階廊下の手すりから声を張り上げたけれど、下りて行ったはずの白い小さな姿は見当たらなかった。耳を澄ましてみても、下駄の音はもう聞こえない。目の前の二〇一号室のドアの内側から、夜中にやってるお笑い番組のテレビの音が聞こえてくるだけ。
何が起こったのかよくわからないまま、とりあえず自分の部屋の前に移動する。
ついさっき確かに明かりがついていたのに、窓は真っ暗だ。僕は混乱していた。
鍵を開けて部屋に入って、明かりをつけて見回してみた。異常はない。あのワンピースの女の子もいない。念のために押入れもあけてみたがいない。
「いったい、なんなんだ?」
混乱したまま、さらにベランダも見てみる。
「あ……」
女の子はいなかったけれど、マリちゃんにもらったつぼみが一斉に開いていた。その花びらの色は、あの女の子のワンピースに似ているような気がした。
そういえば、母さんが言ってた。
桜が同じ場所で一気に咲くのは、「今夜咲きましょう」って回覧板が回ってくるからだって。
離れたところにある桜の咲くのが遅いのは、回覧板が来るのが遅れるからだって。
「……とりあえず明日、ちゃんとした花びんを用意してやるからな」
話しかけながら、桜をベランダから部屋の中に入れた。
机の上の青いバケツの上、ほころんだピンク色の花びらを見ながら僕は決心していた。
明日、マリちゃんに電話をしてみよう。
「あの桜が咲いたよ」って。
そして伝えよう。
「君のことが好きだよ」って。
〈了〉