秘密
ぼくには恋人がいる。
ぼくたちはいつもお昼の学食で待ち合わせ、食事をして、お茶を飲む。そして、他愛のない話をして、よく笑う。
彼女には秘密がある。
サークルの連中にもクラスメイトにも、親しい女ともだちにも、たぶん、親にもきょうだいにも、言えないことがある。
ぼくだけが知っている。
彼女が人を殺したことを。
大学に入ってから半年で学んだことは、大学というところはつまらない、ということだった。
それほど偏差値の低い大学に入った憶えはないのに、見回すとバカしかいないというのはどういうことだろう?
そんなバカの中で、夏木という男に妙に懐かれたのもつまらなさを助長した。高校まではラグビーか何かやっていたとかで、色が黒く重そうな体格をしていて、体格だけでなく頭の回転も少々重たい男だった。
友人というよりは顔見知りに近いその男が、あまりにもしつこく合コン合コンと言うので何度かつきあっても、自分のことを芸能人の誰それに似ているなどと吹聴する大勘違いしたブスばかりでつまらないことこの上ない。それでも夏休みに入る頃には、その似たようなブスの中からカノジョとやらを見つけた夏木は浮かれくるっていた。
ひと夏が過ぎ、「カノジョと別れた」と夏木はメールを送ってきた。涙顔の絵文字のついたメールは気持ちが悪かったが、少しはバカが治ったかと期待していたら、思い切り裏切られた。ことあるごとに人生の先輩風を吹かせるようになったのだ。「お前も彼女くらい作れよ。人生変わるぞ」と以前にも増して合コンに誘ってくるようになったのは、とにかく最悪だった。
先人の言葉は真理に満ちていると、つくづく思った。すなわち「バカは死ななきゃ直らない」。
キャンパスライフとやらも、所詮、制服がないだけのガッコウというだけで、勉強しなきゃならないことには変わりはない。毎日着るものを決めなければいけない煩わしさを考えれば、まだ学生服を着ていた頃のほうがましといえた。
親元をはなれての一人暮らしにしたって、昔から両親は家業で忙しく、小学校高学年くらいからある程度は自分で家事もやっていたから、面倒ということもなかった。
そういうわけで、秋休みが終わり、初めての後期の授業が始まったときにはもう、ぼくは大学生活というものに厭きていた。大学生活だけではなく、人生にも厭きていたのかもしれない。
新しい授業の始めに各自の自己紹介が始まったときも、うんざりした気分でテキストをめくっていて聞いてはいなかった。クラスメイトの名前など覚えなくても、単位は取れる。それに、昨夜は寝るのが遅くなったせいか、やたらと眠かった。眠るまいと思っても、脳みそが後頭部から溶け出していくように意識が薄れていく。
だから、隣に座っていた人間が急に立ち上がったとき、思わずびくついて、ついでにまじまじと見つめてしまったのだ。
肩のあたりで切りそろえられた黒くてまっすぐできれいな髪が揺れて、その陰から明るく澄んだ瞳が現れた。
「まつした、かのんです。花の音と書いて、かのんと読みます」
そのとき、ぼくはなぜだか、あっ、しまった、と思った。道の小石につまづいて、身体が地に叩きつけられる直前のような、一種の浮揚感の漂う「しまった」だった。それが、ぼくが恋に落ちた瞬間だった。
入学して半年も経つというのに、ぼくは松下花音のことを知らなかった。見たことすらないと思っていた。
しかし、彼女に恋をしてからというもの、花音の気配はぼくの世界に頻繁に進入するようになった。
例えば、二十メートル先の廊下を曲がろうとしている彼女。以前だったらそんな距離で自分の視界から消えてしまおうとしている誰かなんて意識しない。今でも、彼女以外の人間に対してはそうだ。
例えば、バイトからの帰り道、コンビニの中で雑誌を立ち読みしている彼女を見かけて、買う物なんてないのに店内をうろうろしてしまったり。彼女はぼくと同じで、大学近くに数多くある学生用のアパートの二階で一人暮らしをしているらしかった。
昼は大抵学食で、二、三人の仲のいい女の子たちと一緒にいる、ということもわかった。聞くこともなしに話を聞いているうち、なんの授業をとっているのかもわかってきた。
花音のことを気にとめていると、驚くほど彼女の姿をあちこちで見かけた。それはぼくのことを彼女が待ち伏せしているのではないかと思うほどだった。そうでないのなら、ぼくと彼女のことを世界が祝福しているのだろう。
授業の合間、飲み物を買いに行ったときもそうで、校内に何箇所もある自動販売機の中で、どうしてぼくがさっきまで授業を受けていた教室から一番近い販売機の前に彼女がいるのだろうかと、その偶然に思わず笑ってしまうほど嬉しくなる。
ぼくの前で無心に順番待ちをしている花音は髪をポニーテールに結っていて、後れ毛をたくさんのピンで留めているのが見えた。彼女の番になるとネイビーブルーの布のバッグの中から無造作に白い皮の財布を取り出し――そのとき小さなカギがバッグの中から転がり落ちた。ぼくはとっさにそのカギの上に足を動かした。踏まないように細心の注意を払いながら、そ知らぬ顔で彼女の後ろに立って待っていた。
彼女は緑色の冷茶の缶を手にとると、カギを落としたことに気づかず、小走りに次の授業へと去っていく。
そっと振り向いたが、ぼくの後ろには誰もいなかった。注意深く足を動かすと、小さな鈴のついたカギがコンクリートの上で輝いている。
拾いあげた淡いピンク色の鈴は、小さな音を立てた。カギは二つついていて、一つは自転車によくあるような形のアルミのもの、もう一つはぼくも似たようなのをポケットに持っている――彼女のアパートのカギに違いなかった。
翌日、そのカギを返そうと思っていた。
直接返そうかとも思ったが、上手い言い訳を思いつかなかった。というより、彼女のあの澄んだ目に見つめられながら嘘をつくのは、とても無理なように思えた。だからといって、本当のことなど言えるはずもない。
交番に届けようかと思ったが、なんとなく後ろめたさを感じて、学生課に届けることにした。誰が落としたのかは知らないが、適当な場所で拾ったと届ければ問題ないだろう。
本当はすぐにでも学生課に持っていったほうがいいのはわかっていた。
でも、できなかった。
花音の体温が残っているようで返しがたかった。彼女が困っているだろうことがわかっていても、カギが彼女の一部であるように思えて、それをぼくの手の中に一晩置く誘惑に負けた。
翌日、ぼくは学生課にカギを持っていった。名前を聞かれたので、かわりに夏木の名前と学生番号を言っておいた。夏木なら美人への受け答えはそつがない。わけがわからないままに適当にごまかして、自分がカギを拾ったことにして話をあわせてくれるだろう。
自分の名前を言わなかったのは、さすがに少し気が引けたからだ。なぜならぼくは学生課に行くその前に、合鍵を作ってもらっていたから。もちろん彼女のアパートのカギだ。センターのレジの横にはたくさんのキーホルダーの飾られたショーケースがあって、その中から彼女のものによく似たピンク色の鈴のキーホルダーを選んでつけてもらった。
そのカギを使ってどうこうしようという気持ちはなかった。ただ、彼女がいつもそばにいるような気がして、それが気持ちよくて、そうしただけだった。
ぼくと彼女の距離が近くなったような気がしていた。
寒くなるころには、ぼくは花音のことならほとんど何でも知っているといえた。
彼女は少し大雑把な性格だったから、口座引き落としになっている携帯電話の請求書が届かなくても気にも留めないようで、ぼくは彼女の携帯電話の番号を知ることができた。
早起きの苦手な彼女はいつも夜のうちにごみを捨ててしまうので、朝になるとのら猫に荒らされたごみ袋から彼女の好きなお菓子のパッケージや、冷蔵庫でうっかり腐らせてしまった食品のパックなどを見ることができた。
不思議なことに、そうしてぼくの中に彼女の情報が溜まっていくたびに、ぼくの中では彼女のことをもっともっと知りたいという欲望がふくれあがっていった。
そして、ぼくは日曜日、電気街に出かけていった。
店員はとても親切だった。
恋人が浮気しているかもしれないので、彼女に知られることなく監視をしたいというと、あれこれと商品を見繕ってくれた。ベッド上の天井に穴を空けて赤外線式のカメラを仕掛けるというのも、親切なその店員のアイディアだった。電源はどうしたらいいのかという問題も、バッテリーを使うということで解決した。センサーと連動させ、彼女が部屋にいる時間だけカメラを作動させるようにして、マイクを使わなければ一日三~四時間の使用で二週間ほどバッテリーは保つという。操作はパソコンを使えば簡単で、画像のチェックもインターネットを使って行うということだった。
カメラ用のプロバイダーへの契約料も含めたその値段は、真面目にバイトに励んできたぼくにとって、それほど高額なものではなかった。
まだ見たことのない、彼女の寝顔を見られると思えば、安い買い物だった。
あの合鍵を初めて使って入った彼女の部屋は、なんとなくよそよそしい感じがした。
花音は落とせない授業を受けているので絶対に帰ってこない。
ぼくの住んでいる部屋ととてもよく似た間取りのアパートだった。部屋の中身は当然のことながらかなり違うが。
勉強机と兼ねたこたつの冬支度はまだなのに、ベッドの壁の上のハンガー掛けに吊るされたコートは真冬のように重装備で、そのアンバランスさが少しおかしかった。ベッドヘッドは小さな棚のようになっていて、文庫本やマンガや雑誌などが無造作に置かれていた。
その棚の上に高さ二十センチほどの不恰好な青銅の小さな天使のような像が置いてある。手にとって裏を見ると、「2-3松下花音」と掘り込んであった。きっと高校の美術の時間に制作したものなのだろう。
こたつの上には借りてきたDVDが置いてあった。彼女の好きな俳優の出演作ばかり三本。
DVDの横にはノートパソコン。パソコンの前にはカップが置かれていて、朝食の跡らしいパン屑が少し落ちていた。カップの中身はコーヒーではなくココアらしい。そういえば、寒くなってからは学食で飲んでいるのはいつもココアだった。
窓際のカーテンは黄色い花模様で、部屋の内側から見るとところどころに小さなピンクの花も散っているのに気づいた。マンションの外から見飽きるほど何度も見上げた窓なのに、近くで見ないとわからないこともあるものだ。
壁際のカラーボックスの大半はテキストや辞書で埋められていた。ボックスの上には鏡と化粧品がきちんと並べられていた。その中のヘアームースを手にとって鼻を近づけると、小さなガラスのビンに入ったコロンのふたを開けると、確かに、彼女の匂いがした……。
カメラの設置が滞りなく終わったころには、もう晩秋の陽は暮れかけていた。
ぼくは名残惜しさを振り切るように、彼女の部屋のドアを閉めてカギをかけた。
自転車で五分ほど離れた自分の部屋に帰るとデスクトップパソコンを立ち上げ、カメラの調子を見るためにウェブカメラのアドレスにアクセスした。
見覚えのある薄暗い彼女の部屋がぼくのパソコンの液晶画面に浮かび上がる。ベッドと部屋の真中に置いてあったこたつが三分の二ほどの見えた。上出来だ。
まだ帰ってきていないらしく、彼女の姿は見えなかったので、カメラのバッテリー節約のためにすぐにブラウザを閉じ、電源を落とす。
そのときふと思い出した。彼女の部屋には、ぼくの知っている他人――クラスメイトの男たちの部屋には必ず一台以上はあるはずの、ゲーム機がなかったことを。
そうか、女の子って、あんまりゲームとかしないんだな。
ぼくは少し感動していた。
彼女は週に四回ファミレスで夜十時までバイトをしている。そのとき以外はだいたい家にいて、勉強したり、テレビのドラマを見たり、借りてきたDVDで映画を見たりしている。
彼女の部屋の中での定位置は、こたつとベッドにはさまれた部分で、ベッドにもたれかかるように体育座りをしてよくテレビを見ている。コマーシャルになると上体をベッドに押し付けるようにそらして伸びをした。
眠るときはいつも横向きで、胎児のように体を軽く縮める。ときどきは本を読みかけのまま寝入ってしまい、いつまでも明かりがつきっぱなしのときがある。そんなときぼくは、彼女が寝返りをうつたびに枕の上の黒髪が液体のように広がって形を変えていくさまを見守っているのだった。
あるとき、あかりをつけたまま寝入っていたはずの彼女がこちらをまっすぐ見つめて微笑んでいたことがある。すぐに目をつぶって横を向いてしまったところをみると、寝ぼけていただけなのだろうが、思わずこちらまで微笑んでしまいそうな、そんな優しくてきれいな笑顔だった。
世界中のみんなが不幸になってもいいから、彼女だけはいつも笑っていてほしい、とぼくは彼女の寝顔を見ながら願った。
しかし、一番の願いごとがいつも叶わないように、その願いもまた叶いはしなかったのだった。
クリスマス間近に迫った土曜日の夜、彼女は突然侵入してきた男をあの青銅の天使の像で殴って殺してしまったのだ。
その日ぼくは、急なバイトのせいで帰宅が深夜になり、部屋を暖めるのもそこそこにパソコンの電源を入れたばかりだった。
彼女はもう眠っていて、ノクトビジョン特有の緑がかった闇の中で安らかな眠りについていた。
ほっとしてコートを脱ぎ、風呂にでも入ろうかとお湯を入れて出てくると、画面の隅から黒いかたまりが現れた。ぎょっとしつつも、それが何なのかわからずに見ていると、かたまりは下から上へ、彼女のベッドの足元から頭のほうへと移動していく。やがてかたまりの中から触手のような白いものが彼女の顔へと伸びていったとき、ああ、あれは触手じゃなくて人間の手なのだ、あの黒いかたまりは人間なのだと判った。
かたまりの頭部が彼女の顔に重なった。屈みこんでいるだけにも見えるし、キスをしているようにも見える。よくわからない。彼女は眠ったままなのか、身動きもしない。
何とかしなければ、と思ったが、何をどうしていいのかわからなかった。
突然彼女は目を覚ましたらしく、かたまりを懸命に遠ざけようと手で押しやろうとした。かたまりは彼女のベッドの上に上がると、ふとんの上から彼女に馬乗りになった。彼女は手をめちゃくちゃに振り回して必死で抵抗している。それをかたまりが無理やり押さえ込もうとしているらしく、ベッドが激しく揺れ、あの不細工な天使の像らしきものが彼女の枕もとに落ちた。
彼女がそれをかたまりの頭部に二度三度と振り下ろす瞬間を、ぼくは今でもはっきりと覚えている。それはスローモーションのようにゆっくりとした動作に見えた。
かたまりが動かなくなると、彼女は壁を背中で這い登るように立ち上がり、よろけながら部屋のあかりをつけた。かたまりはベッドの上で完全にのびていて、彼女のふとんの白いシーツの上をどす黒い赤いもので汚しつつあった。うつぶせに倒れているかたまりは、黒っぽいコートを着た若い男に見えた。
そのとき、バッテリーのマークが表示され、赤く点滅したあと、画面は真っ暗になった。ブラウザをリロードしてみたが、もう何も表示はされなかった。カメラのバッテリーが切れたのだ。
ぼくはただ阿呆のように立ち尽くしているだけだった。
彼女のもとに駆けつけようかと一瞬考えたが、なぜぼくが彼女の部屋の異常を知りえたかを説明できるわけがないことに気づいて、脱力し、座り込んだ。
彼女のことをよく知っているはずなのに、何もできないなんて……。
事件のショックというよりは、自分の無力さに目の前が暗くなった。
呆然としたまま夜をすごしたらしく、気が付くと朝になっていた。
テレビをつけるとちょうど全国ニュースから地元のニュースへと切り替わるところで、ぼくは痛々しい気持ちで彼女の名前が読み上げられるのを待ったが、ニュースは飲酒運転による事故とか、地方議会のリコール問題とか景況報告とか、そんなどうでもよいものばかりで終わってしまった。
不思議な気持ちで、昨夜のあの出来事は夢だったのかと思い、パソコンを立ち上げて、彼女の部屋のカメラへとアクセスすると、そこにはいつものようにこの時間はまだ眠りこけている彼女の姿はなく、黒い画面だけ。バッテリー切れだ。やはりあれは夢ではなかったのだ。
ぼくはすぐに花音のマンションに行ってみた。パトカーなんてどこにもいない。自転車置き場には彼女の愛用の自転車が置いてある。昨夜のあの黒いかたまり――頭を殴られ血を流していた若い男はどうなったんだろう?
そっと彼女の部屋の前に行ってみた。刑事ドラマでよく見るような黄色と黒の立入禁止のテープを張り巡らされている、ということもなかった。
いつもと変わりない彼女の部屋の前で、ドアの呼び鈴を鳴らそうか鳴らすとて、なんと話を切り出したものか迷っていると、ガス給湯器を使うときのボワーッという音が玄関脇から聞こえてきた。
彼女は今日はバイトは休みのはずだ。学食でいっしょにいる仲のいい女の子たちとの話を聞いていた限りでは、どこかに遊びに行く予定もなかったはずだ。それに、まず、彼女は朝寝坊だから、こんな時間に起きれるはずがない。
ますます混乱していると、隣のドアのチェーンを外す音がした。
とりあえず、隣人に姿を見られるのは、彼女にとってもぼくにとっても得策ではない。ぼくは足音を立てないように階下へと降りていった。
建物の外に出て、二階の彼女の黄色いカーテンを仰ぎ見たが、昨日から変化は見られない。
首をひねりながら、ぼくは自分の部屋へと帰るしかなかった。
結局、それからの三日間というもの、彼女は行くはずのバイトも落とせない授業も放り出して家にこもっていて、ウェブカメラのバッテリーを替えに行くことができたのは事件から五日目のことだった。
学校で見かけた彼女はいつになくやつれたようすで、学食では女ともだちに風邪を引いたて寝込んでいたと説明していた。
その言葉を背中越しに聞きながら、ぼくの中の疑問符が確信へと変わっていくのを感じた。
――彼女はあの黒いかたまりのような男を殺してしまったのだ。そして、死体を始末して何もなかったかのように、日常生活に戻ろうとしている。彼女みたいな筋力のなさそうな女の子だって、三日あれば死体もなんとかできるだろう。
ぼくは結局何もできなかった自分を恥じる気持ちとともに、彼女があれをなかったことにしようとするのなら、ぼくも黙っていてあげるしかないと思った。あの夜の彼女の恐怖をぼくだけが知っていて、いつか彼女が望むなら、誰にも言わず、ぼくだけが受け止めてあげようと誓った。彼女に対して殺人者への恐怖というものはなかった。
むしろ、か弱い犠牲者への庇護心と愛しさがないまぜになったものが、ぼくのなかで、どんどん、どんどん、大きくなっていった。
夏木から電話がきた。
「新年会の会場なら知ってる。鳥やだろ? 山下から地図つきでPCのほうにメール来たから」
と切り返すと、
「まだ会場は決まってないはずなのに。未来から来たメールかな?」
と本気で不思議そうな声がした。ぼくは本気で電話を切りたくなった。
合コンの話ならパス、と早々に切ろうとすると、そうじゃない、と夏木は慌てた。
「とにかく会って話したいんだよ」
「毎日みたいに学校で会ってるだろ?」
「ああいうところではゆっくり話なんてできないじゃないか」
電話の向こうで口を尖らせているのが見えるような口ぶりだった。
「悪いけど今はちょっと忙しいから……」
「あ、あのな、俺、彼女できたんだよ」
またか、と思ったが、一応、おめでとうと言って電話を切った。
そしてパソコンのディスプレイに向かう。
いつもと変わらないぼくの彼女がいる。テレビドラマはコマーシャルになったのか、猫のように優雅に、ベッドの上で上半身だけ大きくのびをした。
春になる頃、いつの間にか、ぼくと彼女はあいさつを交わすようになっていた。というより、彼女が声をかけてくるようになったのだ。
どういうことなのかわからなかったが、こみ上げてくる嬉しさをかみ殺しつつ、わざと普段他のクラスメイトに接するときのように、ことさら親しげでもなく、かといってそっけないわけでもない態度をとるようにした。照れくさかったこともあるが、好きな女ができたとたんに地に足がつかなくなるような夏木のようなふるまいをするのは見苦しくていやだったからだ。
夏木は相変わらずで、誰だか知らないが新しい女にうつつを抜かし、単位を落としかけていた。
ぼくは彼女を見守って、彼女が一人の男を殺したという秘密を共有しているだけで満足だった。彼女は今のところ誰ともつきあってはいなかったけれど、運命づけられた、ぼくの恋人――のはずだった。
いつものようにバイトから帰ったぼくはウェブカメラのアドレスを開いた。
いつものように彼女はベッドとこたつのすきまでひざをかかえている。
と、急に彼女は立ち上がって画面の下方に消えた。風呂に行ったのか、玄関に行ったのか。どっちにしろ、問題はないだろう。こんな時間に訪ねてくるのは、いつも学食でいっしょの2人の女の子のうちのどちらか、または両方に決まっている。彼女は、夜の12時を過ぎて一人暮らしの家に恋人でもない男を招き入れるような尻の軽い女じゃない。
画面の下方から出てきた人間が彼女一人ではないことには驚きはしなかったが、定位置の彼女の隣に座った人影は、上着を脱ぐとくつろいだようすであぐらをかいた。短い髪の毛。女ならベリーショートというところだろうが、彼女と仲良のよい女友達は2人とも髪の毛は長い。
ラガーシャツを着た肩幅も、ジュースの空き缶を灰皿代わりにしている姿も、どう見ても女ではない。
2人は楽しそうになにかをしゃべっている。彼女は肩をふるわせて笑っている。
ぼくは血の気がひいてくらくらしてくるのを感じた。
ふと、男の手がまだ長いたばこをもみ消した。彼女の肩に左手を回して引き寄せた。彼女の体が脱力したようにくにゃりと男の腕の中に納まった。
それがぼくの我慢の限界だった。
気が付くと、ぼくは彼女の部屋の前にいた。
ためらわずにドアを開ける。男がいたって関係ない。彼女の秘密を知っているのは、彼女のことを本当に知っているのは、このぼくだけなのだから。
部屋の中は暗かった。何度も何度も何度もバッテリーを替えるために来たし、いつもいつもいつもカメラで見ている部屋だ。あかりなんてついてなくても問題ない。
ベッドに誰かいるようだった。
ぼくは覗き込んで、顔を確かめるために手を伸ばした。
街灯の青い光の中に彼女の顔がぼんやりと浮かんだ。
さっきの光景が脳裏に浮かんだ。
彼女の唇だけが、青い光の中でなまめかしいピンク色に染まっていた。
何も考えられず、その唇にぼくは吸い寄せられた。
彼女のまぶたが急にぱっちり開いて、獣じみた叫び声が聞こえた。必死でぼくを押しのけようとした。
どうしてだろう。彼女はぼくのことを知っているのに。彼女はぼくの恋人なのに。
悲しさと悔しさと怒りで、彼女をめちゃめちゃにしたいと思った。
叫び続ける彼女の口をふさぐために、ベッドの上にあがって、彼女のからだを押さえつけようとした。彼女は激しくもがいて、ベッドヘッドの不細工な天使が彼女の枕もとに落ちた。
どこかで見たことのあるシチュエーションだと気づいたとたんに、衝撃がきた。
痛みというよりしびれて身体がうごかない。
彼女は泣きながらぼくの下から這い出すと、部屋のあかりをつけた。
そして泣きながらどこかに電話をかけているようだった。
「タダシくん? タダシくん! 今どこ? すぐに来てぇ」
花音の声は嗚咽まじりでよく聞こえない。いや、ぼくの耳が聞こえなくなっているのか。
男はすぐに来るらしい。あのラガーシャツの男が。
意識が完全に消える前に思い出したことは、そういえば夏木の名前も忠士だったということだった。
〈了〉