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Canonシリーズ

彼の居場所

作者: 藤夜 要

 翠の葬儀は、本人の意向により信州で密やかに行なわれた。その後克美は「年単位のペースで構わないから」と穂高から別荘にある翠の遺品の整理を頼まれた。手をつけ始めてから、かれこれ半年以上が過ぎている。

 今日も克美は肌寒い夜の店内で、閉店の処理を済ませてから運んで来た遺品に手をつけた。


 穂高が死の間際に翠へ贈った、あの公園で咲き誇る桜の絵。間に合ったそれを見て翠は「綺麗」と微笑んだと言う。穂高から「それを見ると翠の最期を連想してまうさかいに、店にでも飾ってくれ」と渡された。

 克美はそれを手に取り、しばらく思案に暮れた。

 安西穂高。見た目は辰巳とよく似ている癖に、こういうところも性格も全然違う。そんな奴を思い出させるその品を店に飾るのは嫌だったけれど。

「ここで翠と一緒に花見も散歩もしたんだよなあ……話も、いっぱい」

 悔しいけれど、この絵が翠との思い出を優しい気分で思い出させる。今際の際に克美を打ちのめした、張り裂けそうなあの苦しさを少しだけ和らげてくれる。克美は新たなフックを店の壁に取りつけ、そこに夜桜のそれをセットした。

「……解ってる。ホントは穂高が悪いんじゃない」

 翠が少し羨ましいだけ。彼女のただひとり愛した人が、同じ気持ちを周囲にまで撒き散らすほど解りやすい相手だったということが。穂高と似た顔をしている癖に、辰巳はいつも曖昧だった。飄々と受け流してはごまかすのが、克美の中に宿る辰巳の印象。辰巳も若い頃は――姉の婚約者だった頃は、穂高のようにストレートな顔や態度で感情を表す人だった。

 姉と翠がラップする。穂高と昔の辰巳がクロスする。

「違うもん。辰巳は、ボクを認めてくれたもの」

 これが最後の依頼だからと旅立つ直前、彼は初めて克美を女だと認めてくれた。その時は確かに同じ想いだと信じられたはずのに。

「辰巳……どうして何も言って来ないんだよ……」

 あれから三年以上が経つ。客を装い伝言を預かる人さえ訪れたことがない。

「ボクの大切な人なら、辰巳にとっても大切な子、だったんだろう、翠は」

 心が、折れそうだ。いつもなら癒してくれるはずの埋もれたい腕が、今は自分の傍にない。あの時の辰巳は、一緒に心を痛めてくれたのに。今、その翠がいなくなってしまったのに。彼女の夢を見る度に、泣きじゃくる自分の傍で一緒に心を痛めてくれたのに。

「俺の所為でごめんね、って、ずっと傍にいてくれたじゃんか……」

 いつもそう言って、克美が泣き疲れて眠るまで、ずっと抱いててくれたのに。

「なんで、なんにも知らせて来ないんだよ……」

 深夜の薄暗い店内で、張り裂けそうな心を抱きしめた。




 もうひとつの形見をコンセントに繋ぐ。それは翠が常に携えていたノートパソコンだった。

『克美ちゃんと別れてからの、アタシの生きて来た記録なの』

 そう言って手渡された時、初めて病気のことを知らされた。でも、こんなに別れる時が早く来るなんてことは、最期まで教えてくれなかった。

『本当はのんを産む時に終わっていたはず、って……どうして、なんで翠、ばっか、り……っ』

 きっと泣きたいのは翠の方だっただろうに、自分ばかりが泣いていた。克美が未だにそう悔やむのは、翠がそんな自分を見て寂しげな笑みを零したからだ。自分が泣いてしまった所為で、泣きたくても泣けなかったのかも知れない。ふたつ年下の彼女よりも幼い自分に、今の克美は歯噛みする。

『幸せかどうかってね、生きた長さじゃあない。アタシはこういう宣告を受けても今生きているじゃない? のんちゃんを産む時、いろんなことをまだやり残しているのにって、すごく生きたいと思ったの。ちゃんと生きてなかったからなのよね、きっと』

 彼女は克美に聞かせるというよりも、見えない誰かに確認しているような口振りで、ゆっくり確かめながら言の葉を紡いでいた。克美が口を挟めないほど、パソコンを見つめながら。

『今になってやっとそれが解ったって気がするの。このパソコンに入っているデータで、アタシの中に“彼”っていう存在がいたんだってことを少しだけ実感出来たわ。アタシの中の“彼”の欠片が、時間じゃなくて生き方なんだって、教えてくれた』

 翠と“彼”の心の移り変わりが解るから読んでみて、と渡された。処分を任せると言ったその出来事を境に、翠はあっという間に衰弱していった。まるで、自分の役目を終えたみたいに、どんどん弱って動けなくなった。


『under the rose』のファイルをスクロールして読んでいく。“彼”の憎悪の裏側に、翠に認めて欲しいというゆがんだ悲願が見え隠れする。無視されるくらいなら憎まれる方がましと言わんばかりの、素直じゃない表し方しか出来ない幼い情。

 十数年前に翠が零した言葉を思い出す。

『ごめんなさい。克美ちゃんの大切な人なのに……怖いの』

 翠は自分への罪悪感から、辰巳に対して怯え、恨む自分を否定し、それを全部“彼”に背負わせた。そうしてでも精神を保たなくてはいけなかった。煌輝への憎悪も罪と見做し、全部自分の所為にしなくてはならなかった。それでも生きなくてはならないと彼女に思わせていたのは。

「ボク、だったんだね」

 まだ自分を女だと認められなかった頃、あけすけに翠へ好意を伝えた。翠のはにかむ、あの甘酸っぱい笑顔が見たくて「大好き」と何度も口にした。知らずに自分が“彼”を生む一端を担っていたことを、このファイルから初めて知った。

 それでも涙を拭えたのは、それからあとに綴られていく、翠と“彼”の成長を感じさせる互いのやり取りの記録だった。たくさんの暴言があったけれど、そこから“彼”の混乱や焦れる想いも伝わって来る。穂高の為に強くなりたい、その為に“彼”と向き合い始めた翠に、取り合わないと言いたげに吐き出される“彼”の言葉が、克美の目には嫉妬と受け取れた。

「まるで穂高に翠を取られて駄々ってるみたいだ」

 久し振りに克美の口から、くすり、という笑いが漏れた。


 いつしか遺品の整理を忘れて、ファイルを読み耽っていた。

「うゎ、翠もつわりが結構酷かったんだな。ってか、アンダーのヤツ、ボクが見た感じだとガキんちょっぽかったけど。こんなすげえ話をちゃんと解ってたのかな」

 殆どがローズとされる翠の色付文字の記述ばかりになっていくページを読みながら、ついそんな独り言が出た。

(あ、やっべ。芳音が起きちゃう)

 読み耽り過ぎるのも、まずいかな。克美はそう考え、ゆっくりスクロールしながら色付の文字を斜め読みしていった。

(お? デフォルト文字色。アンダーの分だ)

 スクロールの手を止めたのは、“彼”の記述だからということだけでなく。

(そう言えば、翠はあの時から一度もあの事件のことをボクや貴美子さんにも訊かなかったな)

 あの事件――辰巳が高木と計画していたらしい、藤澤会銃乱射事件。“彼”の記した最初の文字が、その事件があった翌日の日付になっていたことも、克美の関心を惹くきっかけになった。

 ――よう、ご無沙汰。ガキの件と辰巳の件、聞いた――

 綴られた言葉が克美に推測させる。

(ってことは、翠は知っていたってこと?)

 事件に触れた内容と解り、文書をモニタいっぱいに広げて一気に読んだ。


 ――貴美子から辰巳と高木の企みって奴を全部聞いた。以下のとおり。


 計画発案は辰巳。克美の姉貴の復讐に、高木を口車に乗せて共謀させたとのこと。

 条件として、克美を成人するまで自分に保護させること。克美が成人して自活可能になった段階で東京に戻る予定だった。

 けど、お前が計算を狂わせたんだとさ。

 克美がお前に男として惚れ込んでたのに、辰巳が兄さんを殺っただろう?

 それが解決したから計画を実行しただけのこと、なんだとよ――


(げ、翠にばれてたのか)

 そんな気恥ずかしい思いと、まだ消化し切れていない人の名前で翳る気持ちが、克美の中でないまぜなまま、変な微笑を浮かべさせた。

(高木さん――誰に殺られたんだよ……。あの事件、結局曖昧なまま報道されなくなっちゃって)

 そんなことを思いながら、アンダーの手紙を続けて読んだ。


 ――貴美子から伝言。

 辰巳の偽造文書モロモロのお陰で克美はあいつが生きてるって信じてるから、時間が解決するまで辰巳が死んだことを知らせるなって。

 克美を一緒に支えろ、だとよ。あいつが今知れば、また壊れるに違いないから、って――


「え……死ん……?」

 唐突に突きつけられたそのセンテンスに、克美は思わず思ったままが声に出た。だが、最後まで言葉に置き換えることが出来なかった。

 呼吸が過剰になっていく。息が、浅く、苦しくなる。鼓動が異常に早く感じ、こめかみに鈍い痛みが走った。

「お、落ち着け、ボク……」

 克美は敢えて口にした。

「辰巳は手紙を届けてくれた。うん、あれは事件のあとだった。本当の自分は生きている、だから戸籍の死亡を見て泣くな、って、言った」

 薄ら笑いが浮かぶのに、額にじとりと汗が滲む。言葉で自分を説き伏せようと足掻くのに、ひとつの事実がそれを拒む。その手紙は郵便物ではなく、それを届けてくれたのは。

「……貴美子、さん」

 殉職した高木の死は本当だった。翠が望にベビードレスを着せていた時、それを形見だと言っていた。あらかじめ形見として翠に渡していたということだ。考えてみたら、あんな大掛かりな裏工作なんて幾ら辰巳でも出来るのか? 日本全部を相手に、騙し果せることなんて、本当に、出来るのか――?

「う、そ……だ……」

 克美は店のカウンター席から立ち上がり、ふらりと電話の子機を取った。




「うん……へーき。本当のこと、教えてくれてありがと」

 自分でも驚くほどの淡々とした声。くすりと笑う余裕まで貴美子に見せられた。

『克美、今はもうあんた独りの命じゃないんだからね。解ってるとは思うけど、下手なことを』

「大丈夫だよ。言ったでしょ。待つのに疲れちゃっただけだ、って」

 前を向いて歩きたいから事実を知りたい、だなんて。

(翠の受け売りの言葉なのにな。よく言えたもんだ)

 克美は貴美子に事実を語らせる為に吐いた嘘を思い出し、心の中で、嗤った。

『克美、辰巳はね』

「貴美子さん、ごめんね。ボクら、姉妹揃って貴美子さんに甘え過ぎたよね。辰巳を取り上げちゃって、本当にごめんなさい」

『克美?! あんた何』

 ブツ、という音が、貴美子の声を掻き消した。

「もう、ホント……もう、いいよ……」

 だから、受話器を置いた。

 事実だった、あの事件。辰巳が高木を撃ったこと。自らこめかみを撃ち抜いたこと。

 海藤組から逃れる為に、過去を全部東京に捨てて過ごして来たこの二十年。逃げる為にここへ移り住んだのだとばかり思っていた。

 克美は虚ろな瞳でふらりと立ち上がると、店の扉を開いて上の階の倉庫へと向かった。

 ドアベルまでが、からん、と突き放すような冷たい音を奏でて克美の後ろ姿を見送った。




 倉庫にセッティングしてある古いパソコンの電源を入れ、彼が消えた日に残していったビデオを再生させてみる。今日も彼は画面の向こうから、変わらない最高の笑顔で克美に語り掛けた。

『克美ー、泣いてるんじゃないか? もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ』

「辰巳、笑えないよ……翠までいなくなっちゃったよ……早く帰って来てよ」

『大事な事を言い忘れちゃったんだ』

「加乃姉さんが殺された時から、ボクの前から消える、って決めてた。それ、本当?」

『もし、俺の子が宿ったら、芳音(かのん)、と名づけてくれると嬉しい』

「ボクがそれを望んだから? 独りじゃ寂しい、なんて言ったから?」

 辰巳は少し照れた顔で俯いたまま、何も喋らず口角を上げて言葉を選んでいる。

「ねえ、ボクの話の返事をしてよ……。辰巳……お前はもう、いないの?」

『俺達の楽園(エデン)の象徴を名づけてやって欲しい』

「俺達って言った癖にっ! お前ちっとも帰ってなんか来ないじゃんか!」

 バン、と机を思い切り叩いた。それでもモニタがぐらりとしただけで、その中にいる辰巳はいつもと同じ笑みを浮かべたまま、克美になんの反応も示さなかった。

『よろしくっ、んじゃ、今度こそ、行って来るよ』

「行って、帰って来なかった癖に……」

 ――嘘つき。

 オートリプレイで繰り返される辰巳に向かってそう零した。それさえも、無視という形で拒まれる。そんな形で辰巳の不在を知らしめる。

「嘘つき……嘘つき……っ」

 辰巳は繰り返し、同じ言葉を紡ぐだけ。それが傍にいないと痛感させる。悔やむ想いが蘇る。

 結局、最後まで彼に自分の想いを言葉にして伝えることが出来なかった。思い返せば彼もまた、何も言ってはくれなかった。

「ボクって、辰巳の、何?」

 決して答えてはくれない辰巳に、小さな声で問い掛けた。

 涙が止まらない。彼の笑顔を信じられない。零れていく。すり抜けていく。

「加乃姉さんも、翠も……辰巳まで、ボクの所為で死んじゃった、のか」

 辰巳の微笑が、ゆがんで霞んだ。克美はもう二度と笑えないと思った。


 デスクの引き出しから、彼の愛用していたトカレフを出す。

「ボク、死神、みたい」

 振り返った過去が克美にそう言わせた。

 姉は自分も親に捨てられたのに、自分がいたから生きなくてはいけないと思っていた。姉が身体を売るという犠牲を払ったから、今の自分が生きていられる。そんな自分が汚らわしい。生きている資格なんかない。

 自分がいたから、辰巳はいつまでも海藤組に狙われた。自分の為に、短い一生を自ら消した。

 自分がいたから、翠にあんな想いをさせて来た。若い命の大半を、苦しみに満ちたものにさせてしまった。

「これ以上、誰かを苦しめたくなんか……」

 克美は獲物を手にした腕をゆるりと上げた。こめかみにフロントサイトを当てると、ゴリ、という鈍い音が骨から内耳へ伝えて来た。冷たい感触が、今は却って心地よい。その冷たさが、姉の遺体を連想させた。それに誘われるまま、トリガーへ掛けた指に力をこめていく。

「マーマっ」

 ハンマーを落としたと同時に響いたその声に、克美の肩がびくんと大きく揺れた。

 声の方を、恐る恐る振り返る。

「……か、のん」

 振り返った扉の前には、まだ三歳にもならない小さな息子が、なぜか片手に自分のマグカップを持って立っていた。いくら足腰がしっかりして来たとは言っても、結構急勾配なこのビルの階段では、足許がおぼつかなかっただろうと思う。湿り切ったことがありありと判るおむつの膨張が、一層芳音の足取りを邪魔したに違いない。夜はすっかり冷え込む季節になっているというのに、芳音の額には汗がじとりと滲んでいた。

「寝てたんじゃ、ないのか?」

 驚き固まった恰好のまま、なんとも間抜けな質問をする。彼は克美が自分の存在を認めたと解ると、突然満面の笑みを浮かべた。“にぱ”という言葉が最も適していると皆が顔をほころばせる、どこか父譲りの甘ったるくて見た者をとろけさせる、極上の笑み。気づけば克美は、それに釣られて笑んでいた。

 小さな救世主は、湿り切ったおむつの重みでふらつきながら母の許まで歩いて来ると、手にしていた愛用のカップを差し出した。

「ママ、これ、飲んで? 笑って?」

 湿り切ったコーヒー豆が、そのままカップに入っていた。小さな幼児の必死の努力で、母の見様見真似をしたのがよく解る。同時にもうひとつ解ったのは、店にいたさっきまでの自分の表情を、すべてこんな小さな子に見られていたこと。

「マーマ、にぱっ」

 皆の言葉を真似て、自分にも笑えと愛らしく強要する。飛び切りの笑顔をかたどるのに、瞳が不安げに揺れている。克美だからこそ、その小さな違いに気がついた。気づいた自分が、彼のなんなのかを嫌というほど知らしめる。

 ごとりと鈍い音がデスクの上に落ちた。右手に握っていたものが誘惑した想いは、芳音が一瞬にして拭い去っていた。

「芳音……ありがと。すごく、美味そうだ……」

 彼の中に辰巳を見る。その笑みが翠の願いを思い出させる。彼らが自分に望んだもの。

 ――笑って。

 それが、愛じゃなくてなんだというのだろう。

 三年前を思い出す。彼が切り捨ててくれた、長い髪。『願掛け』だと言ってこっそり伸ばし続けていた、保護者としての辰巳の象徴。絡め取り、染め上げていくような、甘くて妖しくさせる、濃厚な――家族のキスとは違うキス。

『克美にこういうことが出来なかった、この間まで。だから、やっと大願成就』

 照れ臭そうに笑いながら、そんな内訳を教えてくれた。

 翠がパソコンを克美を指名して遺した理由が解った。

『限られた時間だからこそ、残りの時間を大切に、前を向いて笑って生きたいの』

『時間じゃなくて生き方なんだって』

「ボク、は……独りじゃ、ないんだ……芳音がいる……ここに、いる……」

「ママ?」

「……芳音、だいすき」

 思い出させてくれた芳音が、辰巳の息子だから、ということと関係なく。その存在そのものが、愛しかった。こみ上げるその想いに溢れる腕が、彼を強く抱きしめた。


「今日は特別。明日には忘れるんだよ」

 そう念を押し、一度だけ彼の父親の姿を見せてやった。まだ油断は出来ない気がするから、芳音の前で辰巳の名を口にするは、やめた。だから、教えてあげたいけれど見せるだけ。克美はそんな風に、母としての自分のありようを自分へ促した。

「ホタ?」

 素朴にそう問う息子へ

「ばーか、穂高がこんなに男前な訳ないだろ。お前の父さん、だよ」

 と意味が解らないでいる芳音にのろけて寂しさを紛らせた。

「まだ芳音は小さいから。それに、ボクらはまだ隠れていなくちゃ危ないからね」

 ふたり人だけの秘密、と指切りをした。

「えへへ……かーのんっ。ちゅうっ」

「ちゅーっ」

 啄ばむような淡いキスを交わす。言葉になど置き換えられないほど愛しい息子へ、ひそかに誓う。

 ――そう、まだ、死んでる場合じゃないんだから。もうこの引き出しは、封印。

「ママ、にぱっ。よかったー」

 幼児独特の甘い香りと柔らかなぬくもりが、克美の凍り掛けた心を溶かしていった。




 寝てしまった芳音を抱いて下の居室へ戻った。芳音のおむつを替えていると、こんな夜中に携帯電話が鳴り響いた。そんなことは滅多にない。克美は首を傾げながら、芳音を起こさないよう急いで電話を手に店の方へと移動した。

「もしもし?」

『うっす。生きてるか?』

 電話の主は、克美が最も苦手な奴だった。

「……穂高、今が何時か解ってんのか? 夜中だぞっ」

 心拍数が、どんどん上がる。それも、非常に嫌な意味で。

『あ? 今、ロス。時差を数え間違えた』

「……馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど」

 てっきり貴美子から何か言われて電話をして来たのかと思った。だが、彼の緊迫感のないのん気な声と、こんな夜中に電話をして来たのが単なる時差の勘違いと知り、克美は受話器を少し離して小さく安堵の溜息をついた。

『今日な、翠の夢を見たんよ。そしたら克美の声が聞きたくなった』

「は?」

 穂高にしては珍しく穏やかな口調で、夢の内訳を語ってくれた。

『夢ン中で、あいつが泣いとったんや』

 ――克美ちゃんを助けて。穂高にしか出来ないの。

「ボクを、助けて、って? 翠が?」

『うぃ。せやから、お前になんかあったんかな、と思うて。そんで声を聞きたくなった』

 平気か、と問われても、答えられる言葉がない。

『……なあ、克美』

 穂高は沈黙を続ける克美へ、諭すように問い掛けた。

『お前の中に、辰巳はおらんのか?』

「え」

『忘れてやりなや、あのおっさんの帰る場所』

 穂高はそう言って、小さく笑った。

 彼は言う。自分の中に翠はいつでも傍にいる。時々どうしようもなく逢いたくなることもあるけれど、そんな時には望を抱えて一緒に眠ってしまう。

『必要な時には今回みたいに、ひょこっと出て来よるねん、あいつ』

 と、穂高は聴いているこちらの方が恥ずかしくなる台詞を苦笑しながら口にした。それはきっと、自分が翠の心友だから、彼なりに気遣ってくれたのだろうと解釈した。

「別に翠に義理立てしてボクに構わなくて結構だよ。お前、ボクのことなんか嫌いじゃん」

『お前な、人の話を全ッ然聞いてへんやろう。ただのことづてだっつってんだろ、ボケ』

 けど、ちょっとだけ男としての私見、という補足に、つい歯向かう言葉をつぐんでしまった。

『辰巳は俺が唯一負けたくないと思うた奴で、尚且つ負けたと思わされた奴やった。最初の内はな、惚れた女の為に人を殺るまで出来るか、みたいな、変な敗北感でいっぱいやってんけどな』

 そのあとに続いた言葉に笑わされ、そしてそれ以上に泣かされた。

『天晴れ、っちゅうくらいにお前の気持ちを解ってへん奴、って意味で、今は参りましたっつうか、勝利感?』

「ぶふっ。なんだよ、それ」

『あいつはさ、お前の存在そのものを守るのんに精一杯で、それ以外見る余裕のないガキんちょなおっさんやってんな。お前の気持ちなんかは全然解ってへん。そんな余裕も持たれへんくらい、お前が一等大事やったんと違うか?』

 穂高は「もしも辰巳が目の前にいたら、自分が余裕でアホ呼ばわりしてやる」、と言って笑った。釣られて自分まで声を出して笑えたことに、克美自身が驚いた。

『ったく、マジお前、男の趣味悪いわ。自業自得や。さっさとあんなおっさん忘れちまえ』

 彼の気持ちが温か過ぎて、痛い。彼の懐の大きさが羨ましくて、眩しい。自分と穂高は同じ立場だということを、笑えた今になって思い出した。最愛の人を失くしたと自覚して間もないのに、彼は自分のことまで考える。そんな気持ちに感謝をこめて、克美は憎まれ口で応酬した。

「お前にだけは言われたくないやいっ」

 鼻声なのが説得力に欠けるが、ありったけの想いをこめて、言い返す。

「自分だって翠に惚れ込み過ぎて、ふらふらとしてばっかいた癖に」

 漏れ伝わって来た彼の溜息は、安堵と肯定を克美に告げた。

 ただ、失いたくなかっただけ。女をまるでトレジャーのように捉え、それにも想う気持ちがあるということに気づけないほど、それを奪われる前に狩りに出る。男とは、欲しいと思ったものを独占しないと気が済まない、まるで駄々っ子のようだ。

 克美はそんな内容で辰巳を評し、穂高にその文句をぶちまけた。

『もう、大丈夫やな。それでもあいつがいいってえなら、辰巳の居場所をお前の中に作ってやりぃさ』

 辰巳とよく似た声で、そう語る。少しだけ、辰巳本人がそんな風に自分へ願い出てくれた気がした。

「……うん」

『その内、芳音と一緒にこっちにも出て来ぃさ。ほんなら、おやすみ』

 穂高はそれだけ言うと、克美の答えも待たずに自分から電話を切ってしまった。

「……お礼、言い損ねちゃった」

 誰もいない店内で、トーン信号だけが小さくこだまする。だがもう克美はそれに不安を感じなくなっていた。




 それ以来、克美の涙を見た人はいない。より明るく、ある意味下品なほど豪快に彼女は笑う。

 相変わらず喫茶『Canon』は、常連客で賑わう毎日を送る。

 のちに新たな噂が女子高生の間で流れていく。

「口の悪さは母譲り、切れ長の涼しげな瞳と客には優しい語り口調は昔懐かしい父譲り。そんな若手のイケメンウェイターが、最近休日だけ『Canon』に立つらしい」

 そんな噂は世代を越えて、多くの人へ口伝いに広がっていった。


 誰もがふと立ち寄りたくなる場所。一度入ったらなかなか腰を上げられないほど温かい場所。

 スピード社会の中にぽっかりと浮かぶ、レトロでアンティークな現代の楽園(エデン)は、その後も語り継がれてゆく。

 翠が最も愛した場所、辰巳が最も慈しんだ楽園を、今日も克美は守ってゆく。

「いらっしゃーい、おひとり?」

 克美は心にふたりを伴いながら、今日もオレンジの弾けるような明るい笑みで客を出迎えた。

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