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「存在しないシリーズ」

近未来SFミステリー『存在しない欠落』

作者: SnusmumriKen
掲載日:2026/06/18

1章 存在の根拠


夜明け前のリトリートは、音という概念を忘れたかのように静かだった。

外界から切り離されたこの施設では、すべての生命がAIの眼差しの下に置かれている。


呼吸の深さ、心臓の律動、体温の揺らぎ――人間の存在は、数値として管理される。


阿久津は、その数値の意味を誰よりも理解していた。

彼は昨夜、談話室でこう語ったのだ。


「人は、目に見えるものを信じていると思っている。しかし本当は違う。

脳が“こうあるべきだ”と予測した像を、現実だと錯覚しているだけだよ」

その言葉が、翌朝の“事件”の前触れだったと気づく者は、まだ誰もいなかった。


第2章 密室の朝


午前六時二分。リトリートの静寂を切り裂いたのは、心拍停止を告げる無機質なアラートだった。


管理センターのモニターに表示された阿久津のバイタルデータは、緩やかな曲線を描くことなく、垂直に奈落へと突き落とされていた。血圧、心拍、血中酸素濃度。すべてが「ゼロ」を指している。それはこの最新鋭の施設において、生物学的な死と同義だった。


「阿久津先生の部屋です! ロックを解除して!」


スタッフの悲鳴が廊下に響く。最上階のスイートルームは、内側から厳重にロックされた完全なる密室だった。生体認証と暗証番号、物理的なかんぬき。そのすべてを解除し、スタッフがなだれ込んだとき、そこには地獄が具現化していた。


白い大理石の床を覆い尽くす、どす黒い赤。 部屋の中央には、変わり果てた姿の阿久津が横たわっていた。その傍らには、美術品のような曲線を描く鋭利なナイフが転がっている。


「……誰も、入れるはずがないのに」


監視映像に記録されていたのは、午前三時、阿久津の影が窓際で揺らめき、その後、何者とも知れぬ「影」が壁を伝うように消えていく不可解な映像だけだった。


第3章 死体なき葬列


事件は、死さえも芸術へと昇華させた。 運び出される阿久津の遺体は、真っ白なシーツに包まれ、まるで現代彫刻のような造形美を保っていた。野次馬と報道陣が詰めかける中、黒塗りの霊柩車が静かに出発する。


「あまりに、完璧すぎる」


群衆の端で、一人の男が呟いた。刑事でもなければ、親族でもない。阿久津の古い知人であり、冷徹な観察眼を持つ男、久我くがだ。彼は、阿久津が提唱していた「知覚のデザイン」という言葉の裏側を覗き込もうとしていた。


葬儀の準備は、阿久津が生前に遺したマニュアル通りに淡々と進められた。遺族はいない。あるのは、彼の「死」を悼む世間の熱狂と、完璧に管理された「喪失」の儀式だけだった。


第4章 違和感の種


数日後、久我は無人のリトリートへ足を運んだ。警察の鑑識は「完璧な密室殺人」として捜査を進めているが、久我の脳裏には棘のような違和感が刺さっていた。


彼は、現場の記録映像を何度も巻き戻す。 「……おかしいな」 まず、血痕だ。ルミノール反応も示し、成分も阿久津のものと一致している。だが、乾燥の仕方が不自然だった。まるで、層を成して塗布されたかのような、わずかな厚みのムラ。


次に、監視映像の「影」だ。その動きは、物理的な質量を感じさせない。まるで、あらかじめ計算された光学的トリックのように、カメラの死角を縫う「演技」をしているように見えた。


そして決定的なのは、AIのログだった。 心停止の直前、阿久津のバイタルには「恐怖」による心拍の乱れが一切記録されていなかった。彼は、眠るように死んだのではない。凪のような平穏の中で、数値だけが消滅したのだ。


久我は、阿久津が最後に語った言葉を反芻する。 『脳が“こうあるべきだ”と予測した像を、現実だと錯覚しているだけだよ』


「阿久津さん……あんたは、僕たちに何を見せようとしているんだ?」


久我の視線の先には、阿久津の遺体が安置されていたはずの、空っぽの祭壇があった。


第5章 知覚の罠


久我は、現場に遺された「血の海」の前に跪いていた。 警察が引き上げた後の部屋は、死の残滓ざんしだけが沈殿している。彼は懐中電灯の光を、床の一点に絞り込んだ。


「……やはり、そうだ」


光に照らされたのは、赤黒い液体の端。それは凝固して剥がれかけた塗装のように、わずかに「エッジ」を持っていた。本物の血液であれば、多孔質の大理石にはもっと無秩序に染み込むはずだ。だがこれは、計算された粘度によって、完璧な形状を保っている。


「これは死体ではない。……『死』というタイトルの、彫刻だ」


久我は立ち上がり、部屋の四隅に配置されたスマート・センサーを見上げた。 阿久津が夜な夜な語っていた「知覚のデザイン」。その真髄は、情報の遮断ではなく、**「情報の置換」**にある。


密室のトリックは、物理的な鍵の開閉ではなかった。 AIが管理する「バイタルデータ」という、この世界における唯一の現実をハッキングし、阿久津の生存を「ノイズ」として処理させたのだ。


監視映像に映った影は、阿久津自身だった。 彼はあらかじめ用意していた生体ダミー(精巧なシリコン製の彫刻)をベッドに配置し、自らは「影」となって部屋を出た。AIには「そこに誰もいない」と認識させる特殊なパターンを身に纏って。


そして、葬儀で焼かれたのは、肉体ではなく「阿久津という記号」に過ぎなかった。


第6章 存在しない欠落


一ヶ月後。 事件は「未解決の怪死」として世間から忘れ去られようとしていた。 だが、久我だけは、南の島の波打ち際に立つ一人の男の背中を見つめていた。


「死の恐怖から逃れる唯一の方法は、死ぬことだ。……ただし、概念としてね」


振り返った阿久津の顔には、かつての神経質な陰りはない。 彼はこの島で、数値化されない、管理されない「名もなき生」を謳歌していた。


「久我くん。あのリトリートで、君たちは何を見ていた? 心拍数か? 血圧か? それとも、大理石の上に撒かれた赤い顔料か?」


阿久津は、足元の砂を指差した。そこには彼の足跡があるが、次の波が来れば、それは跡形もなく消え去る。


「人は、見たいものしか見ない。そして、データが『死んだ』と言えば、目の前に生きている人間がいても、それを幽霊だと断じる。私の不在は、最初から存在していなかったんだよ」


久我は黙って、ポケットから一枚の写真を差し出した。 それは、あの密室の床を接写したものだ。赤い液体の中心、そこに一点だけ、筆先でつついたような「塗り残し」があった。


「阿久津さん。あんたの作品には、一つだけ欠落があった。あの血の海の中に、あんたの呼吸の痕跡が混じっていなかったんだ」


阿久津は一瞬、目を見開いた。だがすぐに、満足げな笑みを浮かべて水平線を仰いだ。 「……そうか。やはり、完璧な死など、この世には存在しないらしい」


久我の独白が、風に溶けていく。 人は、欠けているものを探そうとする。だが、本当に恐ろしいのは、そこにあるはずのないものが、最初から「存在しない」と定義されてしまうことなのだ。


阿久津という男は、死んだのではない。 世界というシステムの「知覚」から、ただ静かに、デザインされた。


久我は写真を指で弾き、砂の上に落とした。

波がそれをさらっていくのを見届けながら、静かに呟く。

「……欠落していたのは、あんたの呼吸だけじゃない。


あの部屋には、最初から“生きた人間”の気配が一つもなかった。」

阿久津は笑みを浮かべたまま、返事をしなかった。

久我はその沈黙を、答えとして受け取った。

“あの密室には、誰もいなかった。”

その論理が、波音の向こうで冷たく確定する。

そして久我は歩き出した。


真相は解けた。


だが――

「本当に“死んだ”のは、誰だったのか。」

その問いだけが、彼の背中に影のように張り付いていた

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