結婚して三週間、初めて妻に「好いている」と告げた日
無表情、寡黙すぎて何も言わない領主。
最初の結婚も離婚も、そして今回の結婚も、周囲に流されるままに決まった。
自分の意見をはっきり口にしたことなど、ほとんどない。
そんなワスト領主グユウは、幸福の絶頂にいた。
理由はただひとつ――ミンスタ領から嫁いできた妃、シリが美しすぎるからだ。
妃が嫁いで三週間が経つ。
口下手で不器用な自分に、シリはひっきりなしに話しかけ、微笑み、真っ直ぐに見つめてくれる。
夜を共にするたび、夢ではないかと胸が震える。
ーーこんなに美しく聡明な女性が、オレの妻だなんて。
けれど同時に、不安もつきまとう。
辺鄙な地、豊かでない領政、二度目の結婚、前妻の間の子供。
強いリーダーシップもない自分に、彼女は本当に満足しているのだろうか。
オレと政略で結ばれなければ、彼女はもっと豊かで人望のある領主に嫁いでいたはず。
出会って三週間。
どうしようもなく惹かれているのに、「好いている」の一言が言えない。
胸が詰まり、声にならない。
――オレだけが浮かれているのかもしれない。
夜の寝室、
唇を重ね、肌を重ねた後に、彼女の乱れた髪をそっとかきあげる。
蝋燭の光に揺れる長いまつ毛が、震えていた。
「す・・・」
思わず声が漏れた。
ゆっくりと瞼が開き、青い瞳がこちらを見つめる。
普段は気の強さを秘めたその瞳も、今は揺らぎを含んでいる。
――好いている。
その四文字を告げたいのに、どうしても口にできない。
「・・・す?」
ぼんやりとした声で、腕の中のシリが首を傾げる。
「す・・・」
掠れた声で続けかけた。
けれど、最後まで言えない。
オレに言う資格があるのか――そう思った瞬間、違う言葉がこぼれ落ちた。
「・・・すまない」
「また、その言葉」
シリはふっと笑った。
それにさえ、返せるのは「・・・すまない」だけだった。
ーー言えない。
この結婚は、愛がない政略結婚なのだ。
彼女は仕方なく嫁いだ。オレの元に。
そう言い聞かせる。
最近は夕暮れになると、二人で散歩をすることが多くなった。
馬場の向こうに広がるロク湖。
静かな湖面に浮かぶ小さな島が、陽を受けて鈍く光る。
「ここの景色が一番好き」
湖風に金の髪をなびかせながら、シリはいつもそう呟いた。
その姿を見るたび、胸の奥で言葉にならない想いが溢れる。
シリは女性にしては珍しく、会話の幅が広かった。
領地の事情、政治の駆け引き、馬や武器のこと、領土問題まで。
けれど、兄であるミンスタ領主ゼンシの話になると、途端に口を閉ざす。
それ以外の話題では、饒舌に言葉を紡ぐのに。
疑問はあるが、その理由は聞けない。
なので、必然的にその会話を避けるようにした。
女性とは何を話せばいいのかわからない自分でも、彼女とは自然に会話が続いた。
だが、話し終えたあとにシリがふいにこちらをじっと見つめると、落ち着かない気持ちになる。
その瞳は何かを探るようで――だが、やがてふっと笑う。
その笑みの意味は、最後までつかめなかった。
ある日の散歩で、シリは静かな湖面に浮かぶ小さな島を指さした。
「グユウさん、あの島はなんというの?」
「チク島だ。人は住んでいない」
「じゃあ、何があるの?」
「セン家の建物がある。代々、大切に守ってきた」
シリの瞳が好奇心で揺れる。
そんなに島に興味があるのか、と不思議に思う。
「どうやって島に行くの?」
「舟だ」
「舟! 本当に舟に乗るの?」
驚きに目を大きく見開いたシリを、思わず見返す。
「ああ」
「舟に乗ったことがないの。チク島に行ってみたい!」
身を乗り出す彼女の声は、少女のように弾んでいた。
――舟に乗りたい? 女性が? 思わず言葉を詰まらせる。
「舟は・・・揺れるぞ」
そう口にしても、シリの瞳は期待に輝いている。
その光を曇らせたくはなかった。
「すぐには無理だが・・・いつか、チク島に連れていこう」
シリは嬉しそうに頷き、湖面を見つめ続けた。
その横顔を見ながら、彼女の願いなら叶えたい――そう強く思った。
城に戻り、重臣会議の場で、ふいに口を開いた。
「・・・シリを、チク島に連れて行きたい」
ざわめきが広がる。
重臣たちが一斉に顔を上げた。
ーー無理もない。
これまで会議では、オレはただ黙って耳を傾けるだけだった。
いても、いなくても変わらない領主。
それがオレの存在だった。
自分から発言することに驚いているようだ。
「今、なんと仰いました?」
最初に声をあげたのは、同い年の重臣オーエンだった。
「シリを、チク島へ連れて行く」
「チク島に・・・女が? 聞いたことがございません」
オーエンの目が大きく見開かれる。
「女人禁制ではないはずだ」
静かに言い返すと、重苦しい沈黙が落ちた。
「ダメだ。女が島へ渡るなど前代未聞だ」
父が拳を卓に叩きつけた。
低く響く音に、皆の背筋が凍る。
これまでは、この父の一言で全てが終わった。
今回は、そうはいかない。
「・・・だが、シリが行きたいと言っている」
言葉を絞り出す。
ーーシリが望むのなら、叶えてやりたい。
ただそれだけの思いが、揺るぎなく胸にあった。
重臣たちは互いに目を交わし、困惑を隠せない。
その様子を老臣ジムは胸の奥に震えを覚えていた。
今まで一度として、自分の意見を口にしたことのないグユウ様が――話している。
黒い瞳に、譲れぬ想いを秘めて。
驚きのあまり、しばし言葉を失った。
慌てて、ジムが口を開いた。
「――連れて行きましょう。何事も、初めては前代未聞から始まるものです」
張り詰めた空気を和らげるような声だった。
「どうせ、船酔いして泣き言を言うだけだ」
父が忌々しげに吐き捨て、オーエンは深い皺を眉間に刻む。
それでも、心は揺らがなかった。
シリの瞳が望みを語ったとき――その光に応えたいと、初めて強く願ったのだ。
◇
五日後、ようやく日にちを調整し、シリと共にチク島へ渡ることになった。
実はその前日、彼女の兄ゼンシ様からの手紙が城に届いていた。
――国王に挨拶に行くから、同行せよ。
命令に近い文面だった。
けれど、そのことをシリに伝えることができなかった。
なぜか、彼女は兄の名を口にすると、途端に機嫌を悪くする。
その瞳の曇りを見たくなくて、言い出せなかった。
その日、シリは黒の乗馬服を身につけて現れた。
ジム以外の重臣は皆、唖然と口を開けた。
女性が男の服を着るなど前代未聞だったのだ。
だが、自分の目には――誰よりも女性らしく美しく見えた。
もちろん、口に出すことはできない。
ただそっと手を取り、揺れる舟へと導いた。
風に押されて舟が進む。
景色がぐらりと傾き、やがて四方を湖に囲まれる。
「すごい・・・こんな景色、初めて」
瞳を輝かせる彼女に、かけた言葉は「そうか」だけだった。
だが、心の奥ではもっと多くを伝えたいと思っていた。
沖合に浮かぶ小島が近づく。
岩場を覆う緑が湖面に映え、ひときわ鮮やかだ。
島に降り立ち、百段を越える石段を登ると、
背後で、重臣ジェームズがヒュッと小さく口笛を吹いた。
「あの妃、船酔いしなかったな」
「あぁ・・・」
答えたサムは、顔を青ざめさせていた。
「俺の方がきつい・・・」
シリは振り返り、楽しげに笑った。
その姿に、緊張していた空気が少しだけ和らいだ。
古びた建物が現れた。
中には、小さな女性の木像が祀られている。
「これは・・・」
「芸事、在福、知恵の徳を授ける像だ。セン家が代々、大切にしてきた」
シリはしばらく像を見つめ、それから風の吹く岸辺に歩み出た。
――今なら話せるかもしれない。
「シリ」
控えめに声をかける。
彼女が振り返る。
「ゼンシ様から手紙が来た。ミヤビへ行き、国王に挨拶をしたいと」
彼女の兄にとって悲願である、領土統一への一歩。
ワスト領を通らねばならないからこそ、彼女がここへ嫁いできた理由でもある。
「嫁いでまだ一月も経たないのに・・・兄上らしいけれど、露骨ね」
シリは苦々しく答えた。
「だが、堂々と事を進めるゼンシ様に、オレは興味を覚える」
そう言うと、彼女の唇が固く結ばれた。
「そうですか」
湖面を見つめる横顔は、彼女の兄にあまりにも似ている。
思わず言葉が漏れた。
「シリは・・・ゼンシ様に似ている」
金髪の輝きも、切れ長の青い瞳も。
激しい気性も、強い存在感も――。
その言葉が気に障ったのだろう。
「兄上に似ているなんて、嫌だわ」
吐き出すように言い切る彼女。
「私は兄を領主としては尊敬します。けれど、一人の男としては・・・好いてはいません」
青い瞳が挑むようにこちらを射抜いた。
「兄上は狂気をはらんでいます。そのために、多くの人が苦しみました」
声が震え、顔が歪む。
そこに何があったのか、聞きたいのに聞けない。
ただ返した言葉は一言だけだった。
「・・・そうか」
「私は結婚に夢を抱いていませんでした」
シリの声は、挑むように鋭かった。
「兄上は奥方の実家の力を削ぐために、嘘の情報を流したのです。
夫婦が騙し合いで成り立つ――そんな姿を見せられて、私は結婚などしたくないと思っていました」
あまりに強い口調だった。
彼女が兄を憎んでいることは痛いほど伝わる。
そして――そんな兄に命じられて、自分の元へ嫁いできたのだ。
きっと不満に思っているに違いない。
オレは、「シリが嫁いでくれて嬉しい」
そう言いたかったけれど、出てくる言葉はこれだけだった。
「・・・そうか」
長い沈黙が落ちた。
シリは深く息をつき、それから真っ直ぐにこちらを見つめる。
背後には青い湖の光が揺れていた。
「でも、グユウさんに出会って・・・少しだけ考えが変わりました」
「オレは、何も・・・」
ーー本当に何もしていない。
言葉が見つからない。
「いいえ。グユウさんは口下手だけど、嘘はつかない。私を騙そうとしない」
一歩近づいたシリの頬が赤らむ。
次の言葉を予想できず、呆然と見つめるしかなかった。
「あなたに出会って、幸せだと思いました。――あなたが好きです」
その瞬間、湖の音も、波のざわめきも消えた。
ただ彼女の声だけが胸に響いた。
本来なら、こういう言葉は男が口にすべきものだ。
女性は言わない。
だが、彼女は常識にとらわれず、真っ直ぐに告げてくる。
「グユウさんと結婚してよかった」
その小さな声が、胸の奥で炎のように広がった。
気づけば、彼女の頬に触れていた。
白い肌は今、熱を帯びて紅く染まっている。
剣技で荒れた指先が震えた。
それまで恥ずかしくて目を伏せていたシリは、
思い切って顔を上げてみた。
目の前にいるグユウの表情に、シリの頬は再び熱を帯びた。
いつもは夜の湖のように凪いでいるグユウの瞳が、今は光を帯びている。
硬く閉ざされた口元も、わずかに緩んで見えた。
「・・・グユウさん、笑っている?」
驚いたように目を見開くシリ。
――オレは笑っているらしい。
それは、嬉しいからだ。
この世に、自分を好いてくれる人がいた。
その奇跡に、胸が震えていた。
「シリに出会って、驚くことばかりだ」
不器用に輪郭をなぞりながら、言葉がこぼれる。
「約束する。オレはシリに嘘をつかない」
抱き寄せ、耳元で囁いた。
胸の奥に隠していた想いが、ついに形になる。
「オレも・・・シリを好いている」
生まれて初めての愛の告白だった。
「グユウさん・・・!」
シリも強く抱きしめ返してくる。
結婚して三週間。出会って三週間。
ようやく、妻に「好いている」と言えた。
抱き合う二人を、少し離れた場所で重臣たちは見て見ぬふりをした。
だが、狭い島内では、それも難しい。
「・・・あのお二人は、仲が良いですな」
サムは気まずそうに目を逸らしながら呟いた。
隣でジムが柔らかく笑う。
「女性が苦手だったグユウ様が・・・こんなふうに笑うとは」
その声には、心からの安堵がにじんでいた。
「あのグユウ様を変えてしまうとは・・・すごい妃です」
ジムの声は、どこか夢を見るようだった。
湖を渡る風が、二人の言葉をさらっていった。
それは、結婚して三週間の出来事。
寡黙な領主が、初めて妻に「好いている」と告げた日だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、グユウ視点によるエピソード(第7作目)です。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
そして、この短編を気に入ってくださった方へ。
短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。
https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/
※この短編も、1週間後に短編集に追加予定です。