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聖俗交響 ― ネオンの花道 ―

作者: 風倭人

短編小説「ネオンの花道」。謎の坊主――比叡山の修行僧か?心の幻影か?新人ソープ嬢・彩花、元銀行員・山岸、元ヤクザ・園村。彼らは、それぞれの傷と向き合い、坊主の「我慢の逆説」が湖の闇に波紋を広げます。“実在”と“幻影”の坊主が問いかけます。――あなたは、「わしがどこに居るか気づけるのか?」ネオンの輝きと湖の風が誘う物語が、いま幕を開ける。


※2025年9月8日、帰結の第6章:「念仏の残響」を大幅改訂。よって、本編を改訂第7版とする。

聖俗交響 ― ネオンの花道 ―


「改訂第7版」




1.紫布の降臨




滋賀県雄琴のソープ街に、


かつて奇妙な噂が流れていた。



「紫の座布団を被った坊さんが、


 琵琶湖タクシーで


 ソープランドに現れる」と。



紫の座布団は、高僧が法要で使う


荘厳な仏具でもある。



それがある日、頭に被られ、


タクシーの後部座席に揺れていた。



目撃した川筋通りの男は言った。



「まるで寺から抜け出してきた


 生き霊やったわ。湖の闇に


 溶けるみたいやった」と。



雄琴のソープ街では


誰もがその噂を耳にしていた。



「延暦寺の修行僧が


 煩悩試しに来るんちゃうか?」



「いや、


 ただの色気づいた坊さんやろ!」



そんな表の


客引き達のざわめきと、


笑い声が、


夜の湖風に混じっていた。



マネージャーの山岸が


その坊主を初めて見たのは、


立春を過ぎたばかりで


まだ冬の寒さが厳しい


春の昼下がりだった。



雄琴のネオンがまだ眠る


静かな時間。



拓也の元気な呼び込みの声が


眩く白けた雄琴の街に、


一際、威勢よく響いていた。



新人だが、


外回りの呼び込み担当として、


得意の軽快な話術で客を惹きつけ


奮闘するのだが、冷やかしばかりで


客は一向に入らず、肩を落とし、


しょんぼりしていた。



そこへ、琵琶湖タクシーが


ハザードランプを点滅させながら


通りの呼び込みの喧騒を掻き分け、


拓也に吸い寄せられるように


店の前に静かに止まった。



タクシーのドアが開き


僧侶の袈裟をまとい


紫の座布団を


頭に覆った坊主が降り立つと、


拓也はその異様な姿に


目を丸くした。



だが、すぐに気を取り直し、


すかさず坊主に歩み寄って


丁寧に尋ねた。



「ご予約のお客様ですか?」



坊主は無言で首を振る。



拓也は「フリーのお客様ですね、


かしこまりました」と笑顔で応じ、


店舗のフロントへ急いだ。



「山岸さん、予約なしのフリーの


 お客や。なんか変な坊さんやで。


 頭に紫の座布団被ってる」



フロントに座る山岸は


タバコをくゆらせ、眉を上げた。



「初っ端から坊主の来店、


 なんか縁起悪いな。


 おとりかもしれんぞ、


 気ぃつけろや」



坊主がフロントに進み、無言で


ずっしり重い巾着袋を差し出した。



山岸が袋を開けると、


硬貨がジャラジャラと


受付のカウンターに溢れた。



(なんや、これ……!


 4万円も小銭で払う気か?)



「料金、全部この硬貨で


 払いはんの!?……」



山岸が恐る恐る尋ねると、


坊主は軽く頷いた。



「これ一体、なんぼありますの?」



すると坊主は初めて口を開いた。



「……千枚や」



『せっ、千枚……!?』



山岸は驚きを隠せなかった。



坊主を先に待合室に案内して


フロントに戻り、


黙って100円玉だけを


選んで数えはじめた。



先に入浴料1万5千円、


150枚を汗ばむ手で掻き分け、


何とか数え終えた。



次はサービス料2万5千円、


山岸の250枚を数える指が


ふと止まった。



元銀行員だった彼の胸に、


行員時代の仲間の裏切りが


蘇っていた。



裏の仕組みは、口にすれば、


途端に漏れ、摘発されかねない


危うい綱渡りだ。



拓也が予約の確認で


フロントに戻ると、山岸の手が


止まっているのに気づいた。



「山岸さん、どないしたん?


 なんか変な顔してるで」



山岸はタバコを灰皿に押しつけ、


わざとらしく口角を上げ、


不敵な笑みを浮かべた。



「おまえ、ほんまアホやな。


 こんな得体の知れん硬貨で


 払う客、初めてや、気色悪いわ」



「これ、寺の賽銭違います?


 でも、なんで入浴料と


 サービス料、別々なんや?


 なんかややこしいな」



「それ言うか。世の中には


 分かってても詮索したら


 アカンことがあんねん」



拓也が首をかしげると、


山岸はカウンター奥の帳簿を


トンと叩いた。



「入浴料。


 これは“お風呂屋さん”の料金や


 ウチは風呂屋やから、風呂代を


 もろてるだけや。ええな?」



「は、はい……」



「ほんで、サービス料。


 これは女の子が“個人的に”


 客からもろてるお金や」



「えっ!


 じゃあウチの売上には……」



「入ってへん。


 せやから税務署にも警察にも、


 ウチは“風呂屋”として


 正々堂々してるってわけや」



「でも……実際は?……」



「“実際”を言うたらアカンのや。


  わかったか!」



拓也がまだ腑に落ちない様子で


山岸に追い打ちをかけるように


言った。



「サービス料って、


 女の子が全部もらうんやろ?」



山岸は呆れ果てて帳簿を閉じた。



「全部?……


 そんなアホな子、おらんわ。


 場所使って、水使って、


 呼び込みもして、ボーイが


 タオルのセットや、


 部屋の掃除まで


 するとこもある――なあ?


 タダでできるわけないやろ」



「じゃあ、どこで……?」



「見とき。ほら、あの子、


 今バックで払ろてるやろ」



扉の隙間から見えるのは、


嬢が小さな封筒を帳場の引き出しに


入れる様子だった。



「これは“心付け”や。


 自主的なもん。


 ウチが取ったんやない、あの子が


 勝手に置いていきはったんや。


 そう書いてるやろ、帳面には」



拓也は、裏帳簿の下に貼られた


付箋を見た。



「彩花:3本/心付け15,000」



それは黙って見送られるべき、


誰にも知られない


“裏の収支報告書”だった。



彩花はその日、坊主の他に


2本の客を取っていた。



「女の子ら、


 守ったらなアカンねん。


 そやから、フロントは


 アホなフリしてんねん」



山岸はため息をつき、


小銭の山を見つめた。



「この硬貨、税務署や警察に後で


 突っつかれるリスクあるんや。


 そやけど、女の子にちゃんと


 渡さなアカン」



山岸は決めた。


「俺がこの“賽銭”250枚、


 きっちり数えて、彩花の個室に


 サッサッと届けたる。このリスク


 帳場が引き受けるわ」



 「山岸さんかて、


  “賽銭”言うてますやん」



 「チッ、…100円玉や! 」



坊主に付いたのは


講習を終えたばかりの新人、


彩花だった。



彼女は祇園のクラブで働いていた頃


妻子持ちの会社員に騙された。



男は経営者を装い、資金繰りに困り


手形が不渡りになると嘘をつき、


借金を押し付け、


500万円を背負わせた。



彩花は彼の言葉を信じ、


祇園の店に借金をした。



貯金の全てを差し出し、


足りない分を闇金から借りた。



彩花は、


山科やましなのアパートで


一人暮らしをしながら、


自らソープ嬢を選び、


借金を返している。



彼女の純粋な瞳は


どんな客にも嘘がなかった。



150枚を金庫に、50枚と


200枚は札に両替して、


残った大量の硬貨と一緒に


巾着袋に入れ、個室に届けた。



帳場がただの会計係でないことを


拓也はそのとき初めて知った。



硬貨の重さが、どこか


祈りの匂いを帯びていた――



彩花は園村というケツ持ちに


守られている。



彼は会津小鉄会の元ヤクザで、


彩花の稼ぎを吸い取り、


送り迎えをする俗に言うヒモだ。



酒癖が悪く、飲むといつも


相手構わず大暴れして、


その度に指を詰めて


詫びを入れていたため、


彼の両手にはもはや親指しか


残っていなかった。



そんな園村を、哀れに思った


中川組傘下の山根組は、


堪忍袋の緒が切れた体裁を取り


組のメンツを保ちつつ


最後の親心で彼を破門した。



彩花は園村の一歩も引かない


無謀とも思える強さと、


嘘をつかない純粋な性格に惹かれ、


彼が守ってくれると信じている。



山岸は彩花の選択を見守っていた。



彩花は坊主の接客からあがると、


静かに言った。



「うち、なんもせえへんかったよ。


 お坊さん、部屋の隅で正座して、


 ひたすら念仏唱えてた。


 なむーあーみーだーぶーつ、


 って。淡々と、時間いっぱい」



彼女は、首をかしげた。



「でも、座布団の下の目、なんか


 湖みたいやった。深い、暗い目。


『誰にも言うな』って


 言われた気がして、ちょっと


 怖かったわ」



山岸は鼻で笑った。



「ほんま、変な坊さんやな。


 延暦寺の修行でも


 しとるんちゃうか? 命懸けの、


 なんちゃら回峰行とか言う」



拓也が呼び込みから戻り、


高学歴らしい知識で話しを補った。



「千日回峰行やろ?


 延暦寺の修行やん、


 比叡山で煩悩と向き合うんやて」



この店の従業員の多くは、


社会からはじき出された者たちの


集まりだった。



純粋すぎて社会に馴染めず、


騙されて


借金を背負った者もいれば、


生まれながらにして


貧乏のどん底で、


苦しんできた者もいる。



過去の過ちで行き場を失った者、


夢破れて流れ着いた者もいる。



山岸自身、


仲間の裏切りを忘れられず、


ネオンの下で生きていた。



だが、ここには不思議なぐらい


誰一人として、社会や他人を


罵る者はいなかった。



仲間に裏切られたあの夜、


山岸は一人、


銀行の裏にある非常階段に座り、


煙草をくゆらせていた。



「信じたら裏切られる。


 やっぱり俺は馬鹿だったよ」



心の中で何度も繰り返した


その言葉は、やがて、


裏切られる前に距離を取り、


自分の生き方を正当化しはじめる。



人との距離感、


それが自分を守る術だったと――



その時、坊主が去り際に


不意に放った言葉が


山岸の脳裏に蘇っていた。



まるでその場で見ていたかの様に。



「おまはん、よう我慢しとる。


 それがほんまは一番強いんやで。


 誰にも頼らんと、


 自分で飲み込んでな」



その言葉が何故か胸を打った。



自分のその「我慢」は、


他人に期待することをやめた諦め


からではなく、誰にも甘えず、


誰も傷つけずに済ませようとする


“強さ”だったのではないのか――



その晩、帳場で山岸は


笑いそうになった。



馬鹿みたいにずっと自分を


「弱い人間」だと思い込んで


いたことが、急に可笑しくて、


仕方がなかったのだ。



だが笑わなかった。


涙が先に零れそうになったからだ。



それは、初めて


自分を「認めた」瞬間だった。



山岸はタバコに火をつけ、


湖面に揺らぐネオンを見つめ、


大理石の壁に映る琵琶湖の


揺らぎと重なっていた。



外で園村が彩花を待っていた。



器用にタバコをふかし、


湖を見ていた。



山岸は園村とタバコを吸いながら


湖を眺めるのが日課だった。



「坊さん、なんやったんやろな」



そう山岸が切り出すと、


園村は笑った。



「祈っとるんちゃうか。


 俺らみたいに、


 過去を水に流したくてな」――




2.番傘の波紋




半年後の梅雨がまだ明けきらぬ


雨降りの、蒸し暑い


夏の夜の宵の口、


ネオンの明かりが


ようやく目覚めたころ。



湖風がよどみ、雨の匂いと


湿気を運ぶ中、


いつもより客足はまばらで、


拓也は雨に濡れながら


声を張り上げて、昼からずっと


表で呼び込みをしていた。



川筋通りの入口に


ネオンの光で小さく揺れる


白い傘が滲んで見えた。



拓也が自分の差す傘を


深く被り直そうと、目を逸らした


その瞬間、それは、


紫の座布団を被って、


白い番傘を差した坊主となって、


突然目の前に立っていた。



拓也は驚き、坊主の


湖のような深い目を見つめた。



坊主はゆっくりと拓也に近づき、


静かに声をかけた。



「おまえはん、誠実に生きるのが


 一番強いんやで。


 客が来んでも、声を出し続ける


 その心、ええもんや。」



普段は高学歴を鼻にかける


こともある拓也だったが、


その言葉に胸が熱くなり


素直に頷いた。



「ありがとう、お坊さん。


 なんか、頑張れそうです。」



坊主は無言で微笑み、


店に向かった。



その素早い足取りに驚き、


拓也は慌ててフロントに駆け込み、


山岸に報告した。



「山岸さん、坊さんがまた来た!


 今度は徒歩で、番傘さして! 」



山岸はタバコをくゆらせながら、


笑った。



「雨降りはな、客を呼び込むんや。


 本来、坊主で茶を引くゆうのに、


 雨降りと坊主で助かったわ。


 今どき番傘か?


 いつの時代やねん」



坊主は袈裟袋からずっしり重い


巾着袋を取り出し、


フロントに差し出した。



拓也がフリーの客だと告げると


山岸は早番のフリーの順番を


確認し、偶然にも彩花を呼んだ。



彩花は坊主を見て、


初回の湖のような目を思い出し、


軽く微笑んで言った。



「指名してくれたん?」



坊主が首を振ると、


彼女は小さく笑った。



「ほな、偶然やね」



山岸が袋を開けると、


硬貨がジャラジャラと溢れ、


カウンターに山のように積もった。



山岸は手慣れた様子で黙って


400枚を数え、


「またか…」と思う一方、


硬貨に宿る祈りの重さに


慣れきれなかった。



しばらくして、彩花が坊主の


接客を終え、あがってきた。



「坊さん、どやった?」



「またあんたかって思ったんよ。


 今度も念仏だけやったけど、


 途中で一瞬、黙ったんよ。


 ため息みたいなん聞こえて。


 座布団の下、


 目が悲しそうやった」



山岸はタバコの煙を


思わず吐き出した。



「悲しい? 坊さんが?


 ここで何してんねん、


 我慢比べか!?チッ…ほんまに」



彩花は帳場に立ち寄り、


心付けの入った封筒を


そっと置いた。



その様子を見ていた玲奈が彩花に


アイスコーヒーを差し出す。



「これ飲んで休憩しとき。


 暑いからな」



30代のベテラン嬢、玲奈は


指名ナンバーワンの部屋持ちで、


この店の稼ぎ頭だ。



元高校教師で、親の会社が倒産し、


銀行と消費者金融の借金を


親に代わって肩代わりしている。



借金の取り立てを避け、


店舗最上階の寮


―6畳の間が4部屋ある―


その空き部屋だった1室で


暮らしている。



玲奈がゆっくりと振り返って、


呟いた。



「100円玉、煩悩の数やろ。


 お坊さんの


 心の重さちゃうかな?」



山岸は鼻を鳴らした。



「煩悩ねえ……そしたら俺ら、


 毎日煩悩の湖で泳いどるわ」



この日も、園村の車がやって来た。



彼は京都競馬の開催期間中は


車で週刊競馬ブックを配って、


違法なノミ屋で生計を立てている。



助手席側の真っ黒な窓が


スルスルスルッと下がり、


窓から園村の女房が


笑顔で顔を出し、


競馬ブックを差し出す。



彼女は手が不自由な園村を


支え続けている。



そのやつれた顔立ちの奥に、


陽だまりのような


朗らかさが宿っていた。



それは、彩花にも似た、


何も言わずにただ黙って


全て呑み込んで


耐え忍んできた者の強さだった。



拓也は新聞を受け取りながら、


軽く会釈を返した。



園村は運転席で少しかがんで、


窓越しに拓也へ声をかける。



「博打はするなよって、山岸に


 伝えてくれや! よろしくな」



そう言って、ニヤリと笑い、


足早に去って行った。



山岸はその様子を遠目に見ながら


園村の酒癖の悪さを、


思い出していた。



正妻は、彩花の存在を


知っていながら、


いつも園村の帰りを


何も言わずに待っている。



園村にはその笑顔だけを見て


大切にしてほしいと思った。



雨も上がり、夜もふけ、


閉店時間が近づいたころ、


山岸は彩花を迎えに来て


表で待っている園村の姿を見つけ、


彼に近寄り、


そっとタバコを差し出した。



「お前、指詰めても


 酒やめられへんのか」



園村は笑った。



「やめられへんのは、彩花や。


 俺、あいつには頭上がらへんわ」



山岸は園村が咥えるタバコに


火をつけながら



「お前の女房、えらい我慢強いな。


 彩花も、強い女やで」と、



それとなく釘を刺した。



園村の女房の一途な愛と、


彩花の深い愛情が、ネオンの夜に


一際美しく光を放っていた――




3.花宴の静寂




この年の晩秋。


琵琶湖を渡る風が冷たくなって


もうじき比良おろしの強風が


気になり始める頃。



坊主が三たび現れた。



拓也の呼び込みをかいくぐり、


琵琶湖タクシーがすり抜けるように


店の前に止まった。



拓也が予約の確認をすると、


坊主は無言で首を振る。



拓也は落ち着いた様子で


山岸に坊主の再来を報告した。



坊主はいつも通りフロントで


ずっしり重い巾着袋を差し出した。



だが今日はいつもと違った。



山岸が袋を開けて、硬貨が


バラバラと大理石のカウンターに


溢れ出したその時、坊主は


ふっと何かを思い出したかのように


彩花を呼ぶようにと言った。



山岸はその指名料を含め


いつもより多い430枚を数え、


札に両替し、


残った硬貨と一緒に


巾着袋に戻し、坊主に渡した。



早速、待合室の静けさを破るように


ホール担当のボーイが


案内を始めた。



「本日ご指名の、彩花さんです。


 お時間最後まで、ごゆっくり


 お入り下さいませ!」



真っ赤なドレスを身にまとった


彩花が、一礼しながら姿を現す。



その目が、部屋の奥に座る坊主を


捉えた瞬間、彩花の表情に


フッと笑みがこぼれる。



「あっ!……指名ありがとう。


 今日は偶然じゃないね。」



紫の座布団を頭に被った坊主は、


微かに頷くだけで、


何も言わなかった。



彩花の前に立つその姿は、以前と


変わらない。



だが、彼女の目には、どこか


少しだけ違って見えた。



二人は廊下を並んで歩き、


「花の宴」と名付けられた


 個室へと入る。



10畳ほどのその部屋には、


焚かれているのか分からないほどの


かすかな香りが漂っていた。



坊主は部屋に入ると、紫の座布団を


そっと脇に置いた。



座布団に座るでもなく、


ただ傍らに添えるように。



彩花も何も言わず、


その隣に静かに座った。



やがて、坊主が静かに口を開いた。



その声は、淡々と、


しかし、深い響きを帯びていた。



「今日は、これまで彩花はんが


 心に抱えてきたものに、


 向き合う時かもしれんな。」



部屋の空気が少し重くなる……


彩花は小さく息を呑み、


目を伏せて頷いた。



「これまで……?」


彼女自身、十分わかっていた。



だが、それを言葉にするのは


容易ではなかった。



坊主は微かに微笑んだ。


鋭くもあり、温かな微笑みだった。



「彩花はんは、ずっと、一人で


 抱え込んでいたんやろ。誰かに


 助けを求めるんやなくてな。」



その言葉に、彩花の胸が


締め付けられるようにうずいた。



彼女は無意識に手を膝の上で握り、


静かに目を上げた。



「彩花はんの悩みは、ただの


“弱さ”やない。守ろうとしたもの


 があったからや。」



坊主にはまるで、


透けて見えているかのような


その核心を突いた言葉が、


彩花の心に、衝撃を放った。



その瞬間、


彩花の脳裏に、かつての情景が、


走馬灯のように駆け巡った。



母の病床で交わした約束――


……信じた恋人の冷たい背中、


……客の嘲笑を耐えた夜。



どれも心をえぐったが、


彼女は家族や自分を守るために


この道を歩き続けた。



まず最初に浮かんだのは


母の病床での約束だった。



山科の古い病院の一室で、


母は酸素マスク越しに


微かな笑みを浮かべながら、


彩花の手をそっと握った。



「彩花、家族を頼むな。


 あんたなら大丈夫」と、


 かすれた声で言った。



窓から差し込む夕陽が


母の白い顔を染め、


薬と消毒液の匂いが


部屋に満ちていた。



14歳の彩花は、


母の言葉を胸に刻み、


涙をこらえて頷いた。



母が逝った後、


父は仕事もせず酒に溺れ、


中学を卒業した彩花は、


昼は飲食店、夜はスナックの


厨房で食器を洗い、


いくつもの仕事を掛け持って、


眠る間も惜しんで働いた。



母との約束は、


そんな彼女の心の芯となり、


どんな苦しみにも


耐える力を与えた。



次に、祇園のクラブで出会った


妻子持ちの会社員の裏切りが


蘇った。



男は独身経営者を装い、


「彩花、俺とお前で新しい未来を


 作ろうや」と笑った。



彩花は彼の言葉を信じ、


店に借金をした。



貯金の全てを差し出し、


足りない分を闇金から借りた。



500万円を貸した夜、


男は「すぐに返す」と約束したが


翌週には姿を消した。



アパートの


冷たいコンクリートの壁に


背を預け、自分の愚かさを呪った。



それでも、彼女は立ち上がり、


ソープ嬢の道を選んだ。



母との約束を守るため、


そして、自分を信じるために。



さらに、初めての夜が


鋭い痛みとともに、心を刺した。



客の男が、彩花の身体を


値踏みするように見つめ、



「新人やな。こんなんでも


 金取るんか」と、笑った。

 


薄暗い部屋で、男の声は


刃のように彩花の心を切り裂いた。



彼女は唇を噛み、


涙を堪えて微笑んだ。



客が去った後、鏡の前に座り、


震える手で化粧を直し、


母の顔を思い出した。



「家族を守るんや」と自分に言い


 聞かせ、彩花はためらう事もなく


 次の客を迎えた。



どんなに傷ついても、彼女の瞳は


嘘をつかなかった。



そして、園村との出会いもまた、


彩花の心に浮かんだ――



破門された元ヤクザの園村は、


相変わらず


酒に酔うと乱暴だったが、


彩花には手を上げなかった。



初めて会った祇園の店で


園村が言った。



「お前みたいな純粋な子、


 この世界じゃ簡単に潰れるで。


 けど、俺が守ったる」



その言葉は、


彩花の孤独な心に響いた。



園村の一歩も引かない強さと、


嘘のない瞳に、


彼女は救いを見出したのだ。



彼の酒癖や過去を知りながらも、


彩花は園村を信じ、


自分の選択を


今度こそ正しいと信じたかった。



彼女にとって、園村は、傷だらけの


心を支える一つの光だった。



これらの記憶が、走馬灯のように


彩花の心の中を一瞬で駆け巡り、


彼女の胸を締め付けた。



「でもな、守るためにこんなにも


 うちだけが傷つく必要は、


 なかったんや……」



彩花はハッとして、


坊主の視線を見つめ返し、


かすかに眉を寄せた。



「守るために、傷つくのは…


 当たり前だと思ってた。」



「それは本当の“強さ”やない。


 彩花はんのほんまの強さは、


 人を傷つけずに守れることや。」



その言葉は、彩花の心に


深く突き刺さり、


同時に何かを解き放った。



彼女は一瞬、息を止めた後、


ゆっくりと吐き出し、


肩から力が抜けるのを感じた。



過去の自分を縛っていた


母の放った“呪いの鎖”が、


やがて静かにほどけていった。



そして、娘を守りたいと思う


母の願いだけが


素直に生きる支えであったことに


気付かされ、


新たな救いをもたらしたのだ。



「今なら分かる。


 今までの自分があってこそ、


 今の自分があるって。」



彩花の声には、揺るぎない


決意がみなぎっていた。



彼女は背筋を伸ばし、初めて自分の


歩みを誇りに思う光が瞳に宿った。



坊主は静かに頷き、


穏やかに言葉を紡ぐ。



「もう自分を責める必要はない。


 歩んできた道に、無駄なものは


 何一つない。」



その瞬間、彩花は胸の奥で温かな


解放感を感じた。



長い間背負ってきた重荷が、


嘘のようにスッと消えていく。



彼女は目を閉じ、


かすかな笑みを浮かべた。



「お坊さん、ありがとう。


 うちのこと…見つけてくれて。」



それは奇妙だが


心からの感謝だった。



彼女は自分の強さと、


傷つきながらも


立ち上がってきた自分に、


深い敬意を抱いた。



彼女の手が膝の上で緩み、


穏やかな安堵が全身を包んだ。



視線が坊主の背中に注がれ、


静かな温もりが


胸に広がっている。



坊主は立ち上がり、


ゆっくりと言った。



「これからの人生は


 彩花はんが決める。でもな、


 自分を大切にすることを


 忘れんようにな。」



彩花は軽く唇を噛み、


力強く頷いた。



「はい。


 もっと自分を大切にします。」



不安や恐れが薄れ、彼女は


自分に素直になる道を選んだ。



未来を自分らしく生きる。



それが彩花の新たな


決意だった――



店の出口まで坊主を見送りに、


彼女は歩みを進めた。



扉の開く音が、軽やかに響く。



「これでわしは彩花はんとの


 縁を果たせた。わしの役目も…

 

 ここで終わりや。」



坊主はそう最後に言葉を言い残し、


笑いながら静かに店を後にした。



彩花は座布団が揺れるその背中を


じっと見送り、扉が閉まる瞬間、


思わず一歩前に踏み出し、


胸に手を当てた。



彼女の胸には、静かな感謝と


新たな始まりへの期待が


満ちていた。



部屋に戻り、窓を開けた。



新しい風が吹き込み、


彼女の心の中には、清々しい


安らぎだけが広がっていた。



“これからは、もっと


 自分らしく生きてみる。”



そう心で呟き、彩花は目を細め、


心からの笑みを浮かべ、


両手を合わせ、軽く合掌した。



新たな一歩を踏み出す覚悟を


静かに、しかし確実に誓った。



彩花が坊主の接客を終えて


「花の宴」からあがってきた。



「今度も念仏だけやったけど、


 なんか……


 終わったみたいやった。


 お坊さん、最後にこっち見て、


 軽く頭下げたんよ。


 ありがとな、って


 言われた気がした。


 湖みたいな目、忘れられへん」



山岸は思わず視線を上げた。



「頭下げた? なんや、


 礼でも言うつもりか?」



彩花は、さっき起こった不思議な


出来事を山岸に話すのを


ためらっていた。



指名の客待ちで待機していた


玲奈は、その場の空気を察し、


山岸の言葉を遮り、


彩花に声をかけた。



「彩花、休憩しとき。


 あんた、無理したらアカンで」



玲奈は、若手の面倒をよく見る。



部屋持ちとしての自信と、


借金の重さを肩代わりする


優しいプライドが、


彼女の強さを支えていた。



彩花は、帳場に封筒を置いて、


その場にしばらくたたずみ、


フッと息を吐いて


次の客へと向かった。



その夜、客のあがり部屋の


ラウンジにあるテレビで、


ニュースが流れていた。



「延暦寺の比叡山千日回峰行、


 厳しい修行として知られ、


 満行者はまれ…」



山岸は画面をちらりと見て、


胸がざわついた。



玲奈が控え室から


慌てて降りて来て呟いた。



「あのお坊さん、ほんまに


 修行やったんちゃう?


 ここで煩悩試して、


 仏さんに詫びてたんかなあ?」



山岸は笑った。



「千日回峰行はなぁ、7年も


 外に出られへん過酷な修行や。


 あの坊さんがそやったら、


 ほんまもんの生き霊やで」



だが、山岸はそんな他愛のない


冗談を言いながらも


心に思う事があった。



ここは決して交わることがない


聖と俗とが交錯する


特別な場所ではないだろうか……



紫の座布団が煩悩という


抽象的な概念を示すものではなく、


悟りとの象徴的な境界線であるなら


千枚の硬貨は…


祈りの数だったのではないか。



山岸自身、


そんな到底理解できない奇妙な


解釈に捉われていたのは、


そこにある


得体の知れない『気配』を、


敏感に感じ取っていたからである。



それはまさしく


ここが山岸にとって、


心地よい“居場所”になっている


証でもあった。



そして、


彩花が坊主を見つめていたその瞳に


園村と交わることが出来ない儚さを


重ね合わせていた――




4.風濤の訣別




彩花は坊主の言葉を胸に、


園村と向き合う決意をした。



閉店後の店の外で、


比叡山から吹き下ろす


少し冷たい風が吹く中、


園村がいつものように


タバコをふかしながら待っていた。



彩花は彼の前に立ち、


静かに目を上げた。



「園村さん、うち、もう逃げへん。


 自分の道、ちゃんと歩くわ。」



園村はタバコをくわえたまま、


小さく舌打ちをし、目を細めた。



「は? 俺がいなきゃ、お前、


 この街で生きていけへんやろ。


 現実見ろや。」



彼の声には、いつもの強引さと、


どこか不安が入り混じっていた。



だが、彩花は動じなかった。



彼女は園村の目を見つめ、


穏やかだが力強い声で言った。



「今まで、守ってくれて


 ありがとう。でも、


 うちは自分一人で立つ。


 あんたがいても、いなくても、


 うちは生きていく。」



その瞳には、坊主の湖のような


深い光が宿っていた。



園村は一瞬、その光で言葉を失い、


彩花の強さに圧倒され、


初めて自分の弱さに気づいた。



出会った頃は彩花を


金ずるとしか見ていなかった園村は


写し鏡のように、自分の姿を


彩花に投影し、互いに負の連鎖を


断ち切れないまま寄り添っていた。



それは自分の過去と決別し、


変わることに怯える姿でもあった。



聖と俗が交わらないように、


この二人もまた交わることはない。



しかし、その境界線で、


いつも静かに寄り添う女の姿が


はっきりと見えていた。



園村はタバコを投げ捨て、


目を逸らしながら苦笑した。



「お前、ほんま変わったな。


 ……ええわ。勝手に生きろや。」



その声には、不器用な優しさと、


初めて芽吹いた後悔が滲んでいた。



その思いを噛み締めるように――


小さく震える親指だけの手を


ポケットの奥で


ぐっと握りしめていた。



彩花は頷き、


静かに微笑んだ。



「園村さん、ありがとう。」



そう別れを告げると、


しっかりと前を見据え、


一度も後ろを振り返らずに、


ネオンが消えた漆黒の湖畔を


明日に向かって歩き始めた。



“必ず光が見えると信じて。”



それは過去の自分を許し、


未来を見据える


新たな一歩だった――




5.ネオンの残光




閉店後のフロントは、


ネオンの光が消え、


静かな湖風だけが漂っていた。



山岸はラウンジのカウンターで


簡易帳簿を開き、女の子が取った


出前の精算を始めた。



寿司、お酒、


冷蔵庫の飲料水やビール代。



「拓也、飲料水2本で200円や。


 玲奈、寿司3,000円と


 ビール1,500円で4,500円。


 彩花、ジュース500円な」



山岸が帳簿にメモしながら言うと、


拓也が笑った。



「山岸さん、めっちゃ細かいなあ」



「アホ、帳場はキッチリ


 せなアカン。ほんま、お前


 まだわかってへんな。



 拓也、飲料水はタダや覚えとけ。



 玲奈、コーヒー4本も


 タダでええわ。



 彩花、ジュースは来月から


 店が持つ。



 飲料水は基本タダやで」



玲奈が思い出したように呟いた。



「お坊さんの念仏、


 なんか心に残るなあ」



彩花は小さく頷いた。



「うん、なんか……


 許された気がしたんよ。


 騙された自分も、全部」



拓也が二人の会話に割って入る。



「また坊さん来たらええな。


 100円玉、


 めっちゃ数えるの大変やけどさ」

 


山岸は鼻で笑い、帳簿を閉じた。



「みんな、


 今日もえらい頑張ったな。


 お疲れさんや、ほな閉めるで」

 


フロントの明かりが落ち、


ネオンの残光に溶けるように


それぞれが帰路についた。



微かに湖面に漂うその光が


まるで彼らが道に迷わぬよう、


道しるべとなって、そっと


見守っているかのようだった――




6.念仏の残響




その晩秋を境に、坊主は、


ぱったりと現れなくなった。



巾着袋も、千枚の硬貨も、


もう来ない。



山岸はホッとしながら


どこか寂しげだった。



その様子を見ていた玲奈が


明るく笑いながら言った。



「お坊さん、


 ほんま我慢強かったなあ」



彩花はささやくように


小声で言った。



「うん。ウチに、指一本


 触れへんかったんよ」



その時、突然、


誰もいない待合室のテレビから


「声」が響いた。



「なむーあーみーだーぶーつ……」



山岸はその念仏に驚き、


慌てて周りを見渡し、


坊主の姿を目で探している


自分自身の無意識で、


おかしな挙動に、


笑いが込み上げてきた。



その山岸の滑稽な姿を、


園村と決別し、


自分の道を歩むと決めた


彩花が見つめ、


おかしそうに笑っている。



その姿に、


山岸が安堵の気持ちを抱きながら


彼女を横目にしたとき、


坊主の言葉がスーッと


胸の奥に蘇ってきた。



「おまはん、よう我慢しとる。


 それがほんまは


 一番強いんやで。」



その瞬間、


山岸は胸の奥に、うっすらと


何かの気配を感じた。



それは――


念仏を唱えながら、


100円玉を数える


坊主の姿であった。



千枚を数え終えると、


坊主はほっとした表情を浮かべ、


ゆっくりと


こちらに歩み寄ってきた。



ところが、一体どうしたのか


突然何かにはばまれて


立ち止まり、


その場でじっと佇んでいる。



山岸は不思議に思い、


目を凝らし、坊主に近寄り、


しっかりと見つめた。



その視線の先には――



“鏡の中で”こちらをじっと


見返す坊主が立っていた。



その顔が――


まるで自分自身と瓜二つで


あることに気づくと、


坊主はフッと姿を消した。



山岸は思わず、呟く。



「わしが生き霊だろうが、


 亡霊だろうが、見えるそれは


 ただの


 空箱からばこでしかない。


 大切なのは………


 “わしがいつもどこに居るか


 気づけるかどうかや”」



山岸が放ったその言葉には


どこか坊主の匂いが宿っていた。



それは――


紫の座布団を被った坊主が、


この店で生きる者たちに残した


最後の言葉のように思えた。



山岸は、自分の口から漏れ出た


その言葉に、驚くこともなく、


ただ静かに受け止めていた。



山岸の思いは――


更に核心へと向かう。



坊主は自分たちの我慢を


いつも優しくねぎらっていた。



だがそれは、『あなたは本当に


それで良いのか…?』と、


自らの問いかけに導き、



自分の中に既にある


揺るぎない確信と強さに


気づかせ、救おうと


していたのではないのか……



その我慢が、人を目覚めさせ、


成長へといざない、


さらに強く生き抜く力の


みなもとになる――



坊主が言わんとしていたことは、


決して、我慢を是とせず、


美徳とすることでもなかったのだ。



正に“逆説の教え”である。



あの晩秋の『気配』もまた


自分の内なる心の象徴として、


坊主の形を借りて、姿を現した


もう一人の――


自分自身ではなかったのか。



玲奈は山岸のその静かな目を見て、


そっと頷いた。



「お坊さん、みんなの心に


 何か置いていったね」



山岸はその言葉に


微かに笑みを浮かべて言った。



「ああ、


 笑って流すんが賢い思てた。


 でもな、賢いだけじゃ


 踏みつけられて終いや。


 俺は戦わへんかった。


 あの時、吠えとる犬に


 なっときゃよかったんかもな」



玲奈が苦笑した。



「ほんまやね、でも今さら、


 噛みつき方も忘れてしもたわ」



彩花は、あの日以来、


もう孤独を感じることはなかった。



もう一人の『内なる坊主』が、


そっと、傍らに寄り添って、


見守っている――


そんな気がした。



 “迷っても、大丈夫”


 “もう、うちは一人じゃない”



 ただ、そう思えた。



ほんのひとときだけど、


ここには人間が人間として、


“居場所”を譲り合う空気があった。



黙っていても隣にいるだけで、


ちょっと安心できた。



それだけで、充分だった。



そして、それが


何より嬉しかった――




7.春風の祈り




山岸は大正寺川の川岸から


琵琶湖をじっと見つめていた。



拓也は外で元気に客を引き、


玲奈は新人の講習を任されていた。



この店で働く人たちは、


自分と向き合い、


自分が選んだ道で


精一杯生きていた。



玲奈の優しさ、彩花の純粋さ。



拓也の誠実さと、


山岸の仲間を思う気持ち。



それこそが掛け替えのない


“本当の強さ”だと気づいた。



騙され、裏切られても、


大切な人を守りたいと


願う強い心は、


ネオンの下で一つに輝いていた。



それぞれが不思議な坊主に導かれ、


修行僧に自分の身を重ね、


過去の自分と向き合った。



山岸は裏切りを飲み込んだ強さを。



玲奈は借金を背負いながら、


仲間を守る優しさを。



彩花は自分を許す決意を。



拓也は誠実さで、


未来を切り開く希望を。



そして、園村は、


愛の狭間の境界線で変わる勇気を。



皆、それぞれの強さを見つけた。



ネオンの花道が湖面に揺れて、


雄琴の夜は、欲望と願いを


優しく、抱きしめていた。



琵琶湖に映るその光は、


彼らの傷と絆を


いつくしむように、


そっと、包み込んでいる。



遠く、比叡山の方角から


珍しく、強い春風が吹いてきた。



その風音が


湖面でかすかに響き、


まるで心の内に


ひっそりと住まう



坊主の祈りのようだった――





             「完」






「ネオンの花道」を読み終えた今、あなたの心には何が響いていますか?


琵琶湖に揺れるネオンの残光、千枚の硬貨の重さ、それとも「なむーあーみーだーぶーつ」と響く念仏の声でしょうか。


この短編は、雄琴のソープ街という俗の極みで、聖なる修行の幻影を描き、「我慢」の本質を逆説的に問いかけます。


物語の核心は、坊主の二重の姿にあります。


紫の座布団を被り、千枚の硬貨を差し出し、念仏を唱える“実在の坊主”は、比叡山の千日回峰行を体現する存在です。


しかし、第6章で、待合室のテレビから響く念仏と、鏡に映る瓜二つの坊主が「自分自身」だと気づく瞬間、彼は実態のない内なる幻影として現れます。


千枚の硬貨を数える行為は、千日回峰行の過酷な「我慢」を象徴し、念仏は心の浄化を導く。


この二重構造は、「我慢は美徳ではない、だが成長の源だ」という逆説を、結びつけます。


冗長に思える彩花の過去や山岸の回想は、千枚の硬貨を数える3度の反復、念仏の単調なリズムと呼応し、読者に「修行の時間」を体感させます。


第6章で、鏡の中の坊主が「わしがいつもどこに居るか気づけるかどうか」と囁くとき、すべての冗長さが「内なる修行」のプロセスとして結実。


彩花は自分を許し、山岸は裏切りを飲み込み、店全体が「居場所」として輝きます。


この短編は、風俗街の人間模様を詩的に描きながら、胸の奥に秘めた「我慢」を解き放ち、人が生き抜く本当の強さを呼び覚まします。


実態のある坊主と実態のない幻影が、湖風のようにそっと寄り添うこの物語は、あなたに問いかけます。


「これから、どんな自分を生きる?」ページを閉じ、琵琶湖の春風に耳を傾けてください。


そこには、あなただけの祈りが響いているはずです。

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