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【短編】雪の黎明 ~ 兄と妹の記憶 ~

 夕方から降りだした雪は、ワーグルナー伯爵家の屋敷の庭にも降り積もった。


 多少は残るかもしれないが、それでも朝になればこの程度の雪など解けてしまうだろう。




「それはそれで残念だな。いや……さっさと雪など解けてしまったほうが、馬車を動かすにも楽かな……」




 自分にはしばらくの間馬車に乗って出かける用事などはないが、それでも使用人たちは薪や食料を買いに街に出るのだ。雪などさっさと解けるほうがいい。


 そんなことを考えつつも、ロイは積み上がったままの書類から、一枚の申請書を取り出した。




 父親と母親、先代のワーグルナー伯爵夫妻が突然の事故で亡くなってから、まだわずかに一か月。


 なんとか葬儀を行い、そして、ロイが伯爵位を継いだ。


 優秀な家令がいるから何とかなっているものの、四苦八苦しながら政務を行っている状況だ。


 一つ一つ調べながら、であるので、時間がかかりすぎてしまう。


 昨夜も遅くまで、書類を処理し、終わらず、短時間の仮眠をとっただけで、日の出る前からまた書類と格闘だ。


 ロイは、ぼんやりとした頭をぶるっと振るった。


 時計を確認すると時刻はまだ四時を過ぎたばかりだ。夜明けまでにはまだ猶予がある。ロイのいる執務室はランプの灯りのため、それなりに明るい。だが、窓から外を見ればしんと静まりかえり、まだまだ朝のおとずれには遠い。


 夜明けを告げる鳥すら未だ眠りの床にてまどろんでいる……。


 そんな埒もあかないことばかりが頭に浮かんでは、消えていく。


 どうやら、仮眠程度では疲労は解消しないらしい。


 きちんと寝て、そして、朝からまた政務に取り組んだほうがいい。


 そうは思うのだが……。


 父のようにうまく政務をこなせない焦りもあり、全てのことが上手く回らない。


 寝たほうがいいとわかっていても、どうやらすぐに寝付けそうもない。


 ああ、寝酒の一杯でも引っ掛けるかな……。


 そう思いはすれども、動けず、ため息ばかりを吐いてしまう。




「――ああ、そうだ」




 ふと、思いついた。


 妹の寝顔でも見に行くか。




 ロイには年の離れた妹が一人いる。


 父や母が亡くなった後、気丈にも、死んだ母親の代わりに伯爵家内の家政を執り行おうとしている妹。


 年はまだ十なのに。背伸びをして、精いっぱい、一人前の大人のふりをして、兄を支えようとしている。


 今頃彼女は自室のベッドでぐっすりと眠っていることだろう。そうだ、同じベッドで眠ってやろうかな。


 ロイは、いたずらを思いついた子どものようにくすくすと笑い、執務室のランプを消し、その足を妹の寝室へと向けた。


 あの子は小さいから一緒のベッドを使っても広さ的には大丈夫だ。……起きた時には叫びだすかもしれんがね。「まあ、お兄様っ! 妹とはいえ淑女の寝室に無断で入るなんてっ!」と。


 そんな朝の光景を空想し、くすくすと楽しそうに笑いながら、冷えた廊下を進む。


 そして、ロイは妹を起こさないようにとそっと寝室の扉を開けた。




 そっと、足音を忍ばせて。


 しかし、予想に反して寝室のベッドは空であった。




「え……?」




 いない。


 寝室に、寝ているはずの、妹が、いない。




 慌ててベッドのシーツに手を触れた。




 冷えている。


 少なくとも、起きだして御不浄へ行っている……というわけでもないようだ。


 毛布も、きちんとたたまれている。




 と、何かの音を聞いたような気がしてロイは窓のほうに視線を向けた。


 その分厚いカーテンをそっとめくり、外を、ワーグルナー伯爵家の中庭を見下ろした。


 その中庭では、なにか赤いものが外で動いているようだった。




「――なんだ?」


 


 ロイはその赤いものをじっと凝視した。


 それはこのベッドで眠っているはずの、妹だった。


 真っ赤なフード付きのコート。フードからはみ出ているのは金色の緩やかな髪。




「エリーゼ」




 夜明け前の暗い空。


 雪で覆われた、白い庭。


 そこにひょこひょこと動く赤い色。




「なにをしているんだ、あいつ……」




 朝日でも昇れば真っ白な庭が輝いて、それはそれで美しいのかもしれない。


 が、しかしまだ今は夜明け前だ。


 ささやかな外灯が申し訳程度に中庭を照らしている。


 夜更け前の空の暗さと、庭の雪の白。


 そしてその静止した晦冥の中でたった一つ、赤いコートのエリーゼだけが世界に動きを加えるものとして存在している。


 なにやら不思議な感覚を覚えてロイはそのまま窓も開けずにそっとエリーゼの様子を覗き見た。


 エリーゼは、もちろんロイなどには気が付くはずもなく、足元の雪を踏み固めるようにして、2メートルほどまっすぐに歩いている。


 そうしてそのまっすぐな線から直角に曲がり、またもや今度は1メートルほど歩いていく。そのまま進むのかと思えば、今踏み固めた雪の線を踏み外さないように戻って行った。最初に2メートルほど固めた直線の、中ほどまで戻ると、また同じように1メートルほど直角に線を描く。そしてまた戻り、今度もまた1メートルほどてくてくと雪の上を踏み固めた。ちょうど縦の線が一本、その縦線に直角になるように横の線が三本並んだ。




 ――妹は、何をしているんだろうか?




 ロイはエリーゼの動作の意味が分からず、かといって窓を開けて声をかけるのでもなく、ただただその様子を見つめた。




 エリーゼは今度は両足をそろえてピョンと飛び跳ねた。そしてその飛び跳ねた先からまたもや同じように2メートルほど雪を固めながらまっすぐに歩く。止まって、直角の向きに角度を変えて、またまっすぐに雪を固め、歩く。


 そしてまた、ピョンと跳ねる。




 ――ああ、わかった。Eの字とLの字だ。字を雪の上に書いたのか。




 ようやくロイにも、それが分かった。




 ――E、L、では、次は……? 




 そこまでロイは考えると、唐突に彼女のしていることを理解できた。




 E・L・I・S・E




 ああ、妹は真っ白な雪の上に自分の名前を刻み込んでいるのか。




 ロイは、なにかの衝動に背を押され、寝室のドアを開け、中庭へ向かった。半ば駆け出すように急ぎ足で。




 ――子どものようなことをしている妹をからかってやるつもり……だ。




 言い訳のように考えたが、それだけでは無いようだ。




 ――では何をしに私は妹の元へと急ぐのだろう。いつも精いっぱい、大人の淑女を気取っている妹が、こんな子どものようなことをしているのを私に見つかれば、きっと不貞腐れるだろうに。私は、その表情が見たいのか? 妹もまだまだ子どもだと、安心したいのか?




 ロイは自分の胸の内すらはっきりと分からないまま、更に速度を増して、エリーゼの居る中庭へと急いだ。




 ロイが中庭へ着いたころには、E・L・I・S・Eいうスペルはすでに刻み終えられていた。


 そして、次は何を書こうかなとでもいいたげな思案顔になって、エリーゼは、佇んでいた。


 単に遊んでいるとは思えないほど真剣な表情。


 いや、寒さの為、顔が強張っていただけかもしれない。


 ロイは一言も発せずに、ゆっくりと妹の方へと足を進める。


 その足音に気が付いたエリーゼは、ロイの予想にたがわす、不貞腐れた顔をロイへと向けた。




 ――何よお兄様。コドモみたいなことをしてなんて、お説教でもするつもり⁉




 エリーゼの表情は雄弁だった。声に出さずとも、自身の意志を明らかに表している。そして彼女は身構えた。




 ――それとも淑女が、護衛や侍女も付けずに、夜明け前から何をしているんだって怒るのかしら。




 エリーゼは、深い考えがあって、このような夜更けに、雪の上に自身の名を刻むというようなことをしていたわけではない。


 ふと眼が覚めて、雪が積もっていて、その雪には何の跡も付いていなかったからなんとなく衝動的にやってしまった、というのが実際のところなのだ。




 ――こんな夜明け前に、誰も起きてこないと思っていたのに。不覚だわ。




 やはり声には出さずに、ロイの顔を睨みつけるエリーゼ。


 自分からは何も言わず、エリーゼはただロイが何を言い出すのを待った。


 しかし、そんなエリーゼを一瞥しただけで、ロイは何も言わずに、エリーゼに背を向けた。


 そして、まっすぐ雪を踏み固めるようにして歩き、止まり、半円を描くようにと回り込み、今度はやや斜めに雪を踏み固めていった。


 先ほどのエリーゼの真似するかのように、わざとピョンと跳ねると、今度は楕円を描くようにして再び雪を踏み固めていった。


 そんなロイの様子を、拍子抜けしたようにエリーゼは見つめた。




 ――何をしているのかしら、お兄様は。何も言わないで、変な動きをして……。




 眉を顰め、睨むようにマスタングを見ていたエリーゼは、一瞬の後、一言「あっ!」と声をだした。


 そうよ、あれはアルファベットのR。次のはO。その次はY。




 ――お兄様がわたしと同じに、雪を踏み固めて自身の名を刻み込んでいってる。




 気がつくと同時にエリーゼの顔が歪んだ。




 ――お兄様はもう伯爵で、お父様の後を立派に継いでいるのに……。




 ロイはエリーゼのほうを振り向くと一度だけニヤリ、と口元を上げた。


 まるでいたずらを共有している者同士のように。


 そしてすぐ真顔に戻り、更に何かを書き続けた。


 今度は二人の家名であるワーグルナーのスペルを雪に刻む。


 しばらくして最後の一文字を刻み終えると、ロイは、腕を組み、そうしてようやく再びエリーゼのほうに顔をむけた。その表情は、




 ――どうだい、なかなか上手いだろう。




 とでも言っているかのようだった。




 その顔が、小さな男の子のように見えて、何故だかエリーゼは笑いたくなった。


 そのままロイのもとへ駆け寄った。




 夜明け前の、雪の庭に、二人。


 その雪の上に名を刻んで。


 お互いに顔を見合わせて、小さく笑う。


 何も言わずに。


 そうしてふと、何かに気が付いたようにロイは空を見上げた。




「……ああ、また雪が降ってきたな」




 何かを確かめるかのようにそう呟いた。




「……消えてしまいますわね」




 何が消えるのか、はっきり言わないまま、同じようにエリーゼも呟きをもらした。




「ああそうだな。このまま雪が降り続けば。いや、降らなくても、朝日が昇れば雪は解けてしまうものだろう?」




 少し残念な気もするが、とロイは続けた。




「そう、よね……」




 残念そうにエリーゼも呟く。


 二人のその名を踏み固めた地面に眼を落として。




 ふと、ロイは真剣な面持ちで、こう切り出した。


「エリーゼ。右の手を、貸してくれ」


「え、何?」


「いいから。ほら、右手」




 意図がわからず、エリーゼは首を傾げる。


 しかし、反発するのでもなく、素直に自身の右手を差し出した。




 そうしてロイは、妹の右手と自身の右の手の、その小指と小指を絡め、こうささやいた。




「……秘密、だよ」




 世界中の誰もが、何ものもが、こんな些細なことに気が付かずとも。私もお前もきっと雪の日にはこれを思い出すだろう? それでいいじゃないか。だから、これは消えてしまってもかまわないんだよ。秘密だからね。君と、私の、二人だけのね。




 そう言い、絡めた指を解いた。




 エリーゼは大きな琥珀色の瞳をさらに見開き、次いでもう解かれてしまった自身の右手の小指を見て、それからようやく顔をロイに向けた。




 いつか、きっと。




 自分は誰かの元に嫁ぎ、兄は誰かを妻として迎え入れる。




 貴族というものは、そういうものだ。




 貴族でなくとも、兄と妹。一生一緒に居ることはない。




 だけど。


 その日までは。


 その日を迎えた後でも。




「子どもっぽすぎるから、誰にも言わないわ。お兄様とわたしだけの秘密……ね」




 口調はあきれた、という風を装っているが、しかしてエリーゼのその顔は、口調とはまったく正反対だった。




「さて、体も冷えたな。茶でも淹れて温まろう」


「こんな時間じゃ侍女を起こすのも可哀想よね。いいわ、わたしが淹れてあげる」


「エリーゼが?」


「あら、お兄様よりは上手に淹れられるわよ」




 そう言って二人で屋敷の中に戻った。……今度は手と手をつないで。





 これがある雪の日の思い出。


 




 つらい時も、悲しい時も。……もう、出会うことなどできなくなった今の時も。


 


 決して忘れることはない。


 胸に刻まれた黎明の記憶。


 






終わり

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