鬼の刺青
短編になります。
不穏な空気が終始していますが、ホラーではありません。
「それはうさぎ?可愛いね」
小学四年生くらいだったと思う。
父の仕事の都合で、東京から転校してきた私は、新しい学校に馴染めなかった。
そんな中、家の近くの神社に、いつも木の棒で地面へとうさぎを書く女の子がいた。
私はなんとなくその日、話しかけたのだ。
「そうでしょ。可愛いでしょ」
茶色ががった、肩まである長い髪。
頭に赤いカチューシャをしたその子は、うさぎの絵を描くのが大好きなの、と言って妖しげに笑った。
彼女が着る真っ赤なワンピースが揺れていた。
彼女の名前は雛といった。
年は同じだったが、彼女は学校に行ってなかった。
「どうして学校に行かないの」というと「行きたくないから」と言う返事だった。
本人いわく、「自主不登校」らしい。
私はいとこのお兄さんが、自主不登校後なんとか就職し、不登校期間に書いた創作物を本にしたところ、それなりに売れている話を聞いたことがあった。
なので、雛が学校に行ってないことを責めたり疑問をぶつけたりすることはなかった。
彼女が書いているうさぎをみたり、そのうさぎの設定を聞いたり、彼女がしていることや言ったことを私が一方的に聞いている状況であったことも要因だろう。
ただ、つい「雛は学校に行かなくていいなあ」というと、「あなたも行かないと決めてみるのもいいんじゃない」と返されてしまうことは度々あった。
そういう時私は、へにゃっと困ったような笑いをするしかできなかった。
雛のお気に入りコーデは赤いワンピースに黒の靴という組み合わせで、
水色のTシャツで白いズボンで運動靴がお気に入りコーデの私とは、正反対だった。
趣味も好きなこともお互い聞いたことはないし、知らない。
彼女はどこか不思議で、まるで白い絹の衣を纏った天女のような、浮世離れした神聖な雰囲気があった。
だからなのか、雛は両親に学校へ行けと怒られてはいないようだった。
学校から帰ってきて、自分の家へ着く前に彼女がいる神社へ寄る度、いつも思っていたことがある。
何ヶ月たっても仲良くしてくれない同級生が嫌い。
父も母も仕事ばかりで、私の悩みは聞かず自分達の仕事の愚痴ばかり言って嫌い。
いっそ逃げ出して、雛の元にずっと居るのはどうだろう。
純白のような存在の雛の手をとって、学校からも家からも逃げ出したくなる衝動に駆られたのだ。
けれど、私はそれをしなかった。
彼女と長い時間いてしまえば、自分が元いた場所に戻れなくなる。
根拠もないが、そんな気がしたのだ。
暑い夏の日だったと思う。
私は相変わらず友達ができず、夕方に雛の所に行く以外は、ほぼ家にいた。
勉強もせずリビングのソファの上で寝転がっている私に、母が呆れていた。
「あんた、そんなとこにいたらせっかく結んだ三つ編みがほどけちゃうじゃない」
当時の私は髪が長く、三つ編みで一つにしていた。
最初はただ結っただけだったのだが、雛に「三つ編みにした方が、あなたの黒髪が映えるわ」と言われて以来、律儀に三つ編みにしていた。
苦言を呈されてもそのままでいる私に、母はため息をついた。そして、迷ったように手を頭に置いてから、私に聞いた。
「凪、あんた神代さん家の子と仲いいんだって?」
私が「うん」と返すと、「あそこの家、小さな神社の神主さんらしいんだけど、変な噂があるのよ。気をつけなさいね」と怪訝な顔で言った後、台所へと去ってしまった。
私は変な噂、とぽつりと呟きながら、通っている学校の子達にも言われたことを思い出した。
「神代家は代々儀式を行っている」
「生贄を探している」
「鬼を飼っている」
「実は鬼の生まれ変わり」
嘘か本当かわからない、けれど学校の皆は雛をどこか不気味がっているようだった。
中には執拗に雛から離れるように言う子、逆に雛のことを粘着質に知りたがる子もいた。
だが、私はそういった子達の言葉には耳を貸さなかったし、気にもしなかった。
なんとなく人ではない空気を持った雛と、私が一緒にいたいだけなのだから。
だからこそさらに学校になじめずにいたが、別に雛のせいだと思う事もなかった。
時に、雛と関わりがあるということで、あからさまな嫌がらせをする連中もいたが、雛がいつぞやにくれたちょっと怖い鬼の顔が書かれた札を見せると、何もしてこなくなった。
今思えば、雛のそばにいるのが自分しかいなかったこと、そばにいることで学校の子達からどこか畏怖されていることで、私自身が何か特別な存在になれた気がしていたのだと思う。
「黒いうさぎって見たことある?
目は赤くてね…白いうさぎは赤目でも怖くないのに、黒うさぎは赤目だと怖いと私は感じるの」
その日の雛は、いつも書くうさぎとは違い、ぐしゃぐしゃっとたくさんの線をひいて、黒く見たてたうさぎを書いた。
「怖い…?」と私は問いかける。
「そう、怖い」と雛は断言した。
書いた黒うさぎの下に「黒うさぎ」と文字を書く。
彼女の翡翠色の瞳が、らんらんと怪しく光る。
ずっとどこか遠い存在だと思っていた雛にも、怖いものがあるのかと理解した時、私は勝手に雛が身近な存在のように思えたのだ。
だからいつもは聞かないことを、つい聞いてしまった。
「ねぇ…雛の家って、神社なんだよね、その…変な噂があるって、お母さんから聞いて」
そう言葉を言い終えた瞬間、私はとんでもない事を言ったということを理解した。
ぼき、っと雛は持っていた枝を折ったのだ。
「知りたい?」
空気は張りつめ、雛の顔からは笑顔が消える。
翡翠色の瞳に映る私は、とても愚かな顔をしていた。
「え…」
戸惑う私の反応を無視し、雛は持っていた木の棒を思いっきり横に放り出した。
そして、驚く私の手を問答無用で引っ張って、神社近くのトイレに連れていかれた。
そのまま雛は服を脱ぎ始めた。
これから起きることが分からなくて、怖くなった私は泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と小さく叫び続けた。
そしてーーー私が見たものは、雛の背中。
雛の背中には、鬼の刺青が掘られていた。
以前雛からもらった鬼のお札とは比べ物にならない迫力だった。
背筋が凍るような凄みのある目は吊り上がり、牙は二本むき出して、髪は逆立ち、赤く熟れた顔をした、鬼。
短い悲鳴を上げる私に、雛は背中越しに告げる。
「この背中のことを誰かに言ったら、あなたの家族は呪われる」
「私とあなたの約束よ。破ったりしたら、私の背中の鬼が、来るよ」
「来るよ」
来るよ、の一言はその場に木霊した。
私は怖くなって、その場を逃げ出した。
家に着くと、心配した両親を無視して、私は自分の部屋の布団に潜り込んだ。
「来るよ」
あの時の雛の言葉が反響し、何度も何度も私の頭を巡る。
そしてその先に待っているのはあの背中の刺青の鬼で、恐ろしい目玉と牙をこちらに向け、私の心を逃さなかった。
自分の意思とは関係なく、何度も何度も思い出してしまい、私はその日眠れなかった。
それ以来、私は怖くて雛には近寄らなくなった。
そんな私には見向きもせず、雛はいつも通り地面にうさぎを描き続けていた。
両親は念のためと言った具合で、神代家の子と喧嘩でもしたのか、と聞いてきたが、雛の鬼の刺青のことも含めて、なにも言わなかった。
嘘だと思いつつも、約束を破ったら鬼が来てしまう、ということを本気にしていたのだ。
ひとまず考えたことは、早くこの土地を離れなければ、ということだった。
だが、簡単に引越しなんてできない。
子どもながら考えた結果、周囲に中学受験すると宣言し、両親に無理をいって塾に通わせてもらった。
しばらくは鬼の刺青と雛の言葉を隙あらば思い出し恐怖していたが、塾に行って勉強をしているうちに、恐怖は薄れていった。
そして私は無事合格したので、小学校卒業と同時にその土地を離れた。
中学からはそれなりに仲のいい友達もできたし、部活や勉強で忙しいながらも楽しかった。
けれど、ふと瞬間に雛の言葉と鬼の刺青を思い出す。
「この背中のことを誰かに言ったら、あなたの家族は呪われる」
「私とあなたの約束よ。破ったりしたら、私の背中の鬼が、来るよ」
「来るよ」
子供騙しのような一方的な約束だ。
そう思って、両親や友達に話してしまうのもいい気がしたときもあった。
だが、雛の言葉と約束は、いつまでもくびきとなり、私を離さなかった。
そうして大人になった私は、ある日SNSで雛が書いていたあのうさぎを見つけた。
これを境に、ずっと考えないようにしていた「雛のこと」について、調べてみようと思った。
SNSや小学生の時住んでいたあの地に行って調べてわかったことは、雛の家には風習があったらしい。
それは、神代家の長女には、鬼の刺青を掘るという風習。
鬼の刺青が子孫繁栄をもたらすとか、家内安全をもたらすとか…そういった昔からの風習を神代家は信じ、雛の代までやっていたそうだ。
雛の自主不登校は、そんな一族への子どもなりの抗議だったのだろう。
もしかしたら私に言ったことも、周囲への精一杯の反発だったのかもしれない。
そんな雛の現状はというと、何を言ったのか従姉妹を味方につけ、東京の大学に進学したらしい。
そのまま東京に住んで働いているとか。
近々、彼女が書いたうさぎをグッズ化したものを売るイベントがあるとわかり、私は行ってみることにした。
相手は私のことなんて覚えていないから今更行っても大丈夫だろう、という高を括った気持ちと、
子どもだったとはいえ、無神経に雛の触れてほしくないことを聞いてしまったことに、後ろめたさがあったからだ。
イベント開催当日、様々な不安と喜びが入り混じる中、なんとなく久しぶりに髪を三つ編みにした私は、ゆっくりと会場に入っていった。
出品者はユニークな格好をした人や、珍妙なものを売っている人などが会場に多くいた。
そんな中私は、雛が書いていたあのうさぎを頼りに、目的地へと歩き出した。
あちこち回ってやっと見つけたのは、くりくりした黒目に白い体の二頭身で、可愛く笑ううさぎ。
雛のうさぎだ!
うさぎを見つけると、私はまずは遠目で雛らしい人物を探した。
そしてーーー見つけた雛は、綺麗になっていた。
長い茶髪はそのままだったが、少し毛先がクルクルしている。
ナチュラルメイクだったが、目元だけは白いラメが入ったアイシャドウが塗られていて、あの翡翠色の瞳をきらびかな演出を施している。
そして、落ち着いた赤ワインの色合いの長いワンピースを着て、パイプ椅子に座っていた。
雛なのだが、まるで別人のようだった。
例えるなら、今まで天女のようなものだと思っていた人が、実は天女のコスプレをしていただけといった感じだ。
軽い落胆とともに、そういった勝手な思い込みと羨望で小学四年生の彼女を傷つけてしまったことを思い出す。
きっと雛は、私のことなど忘れてしまっているだろう。
けれど、あの時はごめんなさい、と伝えたかった。
なので、差し入れに謝罪の手紙を入れて持ってきた。
拒否されてしまうかもしれないと不安に思いながら、手渡しでうさぎグッズを販売している雛の売り場に向かう。
列に並んで、自分の順番になった頃、雛と目が合った。
「こ、これください」と私が机にある、うさぎのキーホルダーを一つ指さすと雛は私を一ファンとして扱かった。
「ありがとうございます。500円になります。」
私が500円玉を渡すと彼女はキーホルダーを丁寧に袋へ入れ、手渡してくれた。
差し入れと一緒に手紙を渡そうと焦りから、あっと小さな声が漏れ出た。
「どうしましたか?」
雛は、本当に私のことを覚えていないようで、まっすぐに翡翠色の瞳で私を見つめる。
その眼差しが眩しく、私は「これっ」と短く言うと、半ば押し付けた形で差し入れと手紙を彼女に渡した。
振り返ることなく、そのまま烈火のごとく私は会場から飛び出した。
荒く乱れた呼吸を整えるため、会場近くの公園のベンチに座った。
ばくばくした心臓を何度も深呼吸して、なだめる。
身体中熱かったが、達成感で満たされていた。
謝罪の手紙なんて、ただの私のエゴだ。
だけどあの時地面に書いていたうさぎをグッズ化できた雛に、敬意として商品を買うことはできた。
胸のつかえがとれた私は、さっそく買ったうさぎグッズを取り出す。
ラッピングされた袋を開け、中身を取り出した。
その時、買ったもの以外に何か入っていることに気づいた。
「なにこれ」
「鬼は来た?」と書かれたメモ。
紛れもない、雛の字だった。
不気味に思い、すぐさま雛に問いただそうかと思ったが、急に冷静になる自分がいた。
「そうだ、雛はこういう子だった」
私をいつも振り回し、妖しげな笑みで笑う。
意味深な言葉を言ったと思えば、次は投げやりな言葉になったり。
私は雛が入れた手紙のことを言うこともできたし、SNSで苦情を拡散することもできた。
けれど、私はそれをしなかった。
もしかしたら雛は、私に何かしてほしかったかもしれないけど。
ただあの手紙の後ろには、こう書いてあった。
「さよなら 凪」と。
「…さよなら 雛。」
私は幼き雛との思い出に向かって、別れを告げた。
それからというもの、私は雛のSNSを追わなくなった。
もちろん雛のうさぎグッズもあれ以来買ったり見たりしていない。
もう二度と私達は会わないだろう。
だが。
私があの刺青のことを誰にも言わないこと。
それがこれから先の雛と私の、たった一つ繋がりなのだ。
私はそんな繋がり馬鹿げていると思いながらも、大事に大事にしている自分に、へにゃっと困った苦笑いをした。
雛は子ども騙しに「鬼が来るよ」と言っただけで、本当に鬼は来ませんしいません。
大人になってからも言ったのは、タチの悪いからかいです。