19,しにがみの帰り道
紫陽花の季節がやってきた。
今年も順調に咲き、花壇を埋め尽くしてくれた。紫陽花の性根逞しい結果だろう。
この公園の植物管理をして何年経っただろうか、もう数えていない。
花園苗、戦後まもなくに生まれた苗は、苗字にちなんで花の園の中心で苗のように暖かく若く輝いて欲しいと命名された。
今年で75になるかならないか、自分の歳なんてここまでくればどうでも良かった。
そんなことより紫陽花の手入れをしよう。親からつけられた名前のおかげでかすぐに花を好きになったのだから。
春には菜の花が、秋にはコスモスが咲くこの公園は老後の楽しみなのだ。その甲斐あって心配されているボケはきていない、と思っている。自分では分からないことなので証明できないが。花のことを忘れていなければそれでいい。
雨が降り始める、家を出る前にラジオを聴いていて良かった。準備していたカッパを着る。
家庭という長い監獄が終わりやっと自由にこうして好きな花と向き合えるのだ、雨のちょっとやそっとどうってことはない。
時代が時代だ、今の子は羨ましいと思う、恋愛結婚が大半なのだから。親に勝手に縁談を薦められ知らぬ男と結婚。夫が決して悪いわけではない、ただあの時代らしい亭主関白であった。そんな夫は先に旅立った。
毎日、家族のためにご飯を作り、家族のために掃除をし、家族のために買い物から献立を考え準備、家族のために早めに寝る。自分の時間なんてさっぱりなかった。
自分が少女の時に夢見た花と暮らす順風満帆な結婚生活、実際は灰色そのものだった。
庭のない都内の中心に住んでいたことが何より残念だった。夫の職場に近くに住むという理由で仕方のないことだが、憩いの場なく行き詰った生活だった。
息子たちも悪いわけではない。すくすくと育ち立派にひとり立ちし優雅に暮らしていることだろう。今でも何かとサポートしてくれると言っているが断った。
自分はひとりでゆっくりと暮らしたいのだ。出来なかった夢、花と共存する生活を好きな時に自由にやりたい。それが今夫がいなくなり子供が大きくなったから出来ることなのだ。だからこの公園の近くに小さなアパートを借りて住んでいる。
紫陽花は今日の雨でも健気に咲いている。紫陽花のように何にも染まらずに自分の色でいられたらと思っている時点でもう自分は汚れてしまっている。
せめてこうして花の前ではくらいと純粋になりたいのだが、積み重ねた歳は色々なことを考えてしまって駄目だ。中学生くらいのあの時に戻れたら。
今日の雨は随分と暗い、自分の気持ちのせいもあるだろうか。空はゴロゴロと鳴っている。
紫陽花はそれでも変わらず咲いている。雨の露すらも糧にして美しく見える。
生まれ変われたら今度は自由に自分の進みたい道を歩みたい。好きになった人と恋愛をし、好きなお花に関する職業で、若いころのように活き活きとした身体で動かしたい。
だが人生は一度きり、すでにそれはもうできないことなのだ。
紫陽花が揺れる、風が強くなってきた。肌を擦る風は冷たく、まるで人生と同じだ。
明日はもっと気分よく紫陽花を眺めることができるだろか、そんなことを思って立ち上がった時だった。
髪が逆立と思えばすぐに体に衝撃が走る。目の前が一瞬でホワイトアウトし凄まじい音が耳を搔き立てられる。
何が起こったのだと考えようとした時、体に力が入らなくなる。激痛が支配してきた。
それから長い間眠りにつくように意識が消え、次に起きた時雷にうたれたのだと気づき、そして別世界に転生したのだと気づいた。
光先はいつものように打ち上がった薬莢を噛みながら、片付けを始める。
苗さんは転生後、異世界の花屋さんの娘として転生し人生をやり直す。本来やりたかった自分の夢を異世界で追っていく。
もちろんタダで夢は叶わない。異世界なので当然魔物や異世界ならではの問題も迫ってくる。しかしそれを生前の知識と花が好きというスキルパワーを使ってどうにかしていくのだ。そして夢中になれる異性と出会う。
(夢中になれる人)
恋とは、結婚とは何なのか。自分にはさっぱりこれっぽちも分からない。そもそも同性の友達すらまだいないのだから。
いつか自分にもそういう人が現れるのだろか、考えてもしょうがないことだ。
(紫陽花、ちゃんと見たかったな)
公園に雷が直撃したことで近隣の住民がぞろぞろと集まってくる、そしてそこで横たわっている苗さんを発見するだろう。そんなところをいくら透明人間だからといって気にせずに紫陽花を近くで観察できるほど自分は無神経ではない。ここからすぐに帰るのが無難だろう。
(苗さん、幸せに)
きっと周りは苗さんが即死したことに悲しむだろうが、彼女の魂はすでに異世界に飛ばされ第二の人生を始めているはずだ。光先はそっちの世界で幸せに夢が叶うことを小さく祈る。
帰りは特に急ぐ必要もないので歩いて帰宅する。雨は以前暗く激しく降っている。
少し歩いて大通りに出ればこんな大雨でも人がいる。傘をさして急いで帰る自転車、ルール違反だろうがお構いなく水しぶきをあげながら全速力でこいでいる。向こうは女子高生だろうか、キャーキャー言いながらなんだか楽しそうに傘をささずにふざけ合っている。
雨の日をこうしてゆっくりと歩くことはそうそうない。そのため新鮮で面白かった。
自分は雨に濡れても無敵で、透明人間のままなので周りから羨ましいと思われることもない。スナイパーライフルが入っているバックを背負いながら歩く。
(寄り道でもしようかな)
大通りからひとつ路地裏に入る。流石に人は全然いないが思わぬものがそこに咲いていた。
先ほど遠くからみた紫陽花、それが通りに面した庭に咲いていた。さっきと雰囲気が違い、ピンク色の紫陽花もあり多種多様になっていた。
またとないチャンス、駆け足で紫陽花のところにいく。
(こんな感じなんだ)
無数の小さな花が集まってそれが一つの塊の大きな花になっていた。遠く見た時には気づかなった。葉っぱは色が濃い緑色でなんだか毒がありそう。
(綺麗)
雨に濡れているからだろうか、艶がありそれがより綺麗に見える。
ただ花を観るだけ、というのにどうして心がやすらぎ落ち着きいくらでも観察することができるのだろう。自分でもわからないけど、この紫陽花をずっと眺められる自信があった。
雨は少しずつ止み、気づけば晴れ間が見え始めていた。
夕陽に映えた紫陽花に、お色直しされる。
(凄い)
思わずスマホの写真でおさめるくらいには感動していた。
花の魔力、苗さんはきっとこれに惹かれて生きてきたのか、なんとなく若い光先でも少しだけだが分かった気がした。