第六話 パンを踏んだ娘
エミュと別れたアーテはふらつきながらも階段を上がり、二階の一番端の部屋に入った。居心地の悪いこの屋敷において、せめて隅っこにいたほうが落ち着くと思ったからだ。
部屋の中にはドアが他にも二つあって、家具も必要なものは揃っているようだった。けれど掃除がされていないのか、室内は埃っぽくてかび臭い。
(ここにも見慣れない物がたくさん置いてありますね……。後で人が来たら、使い方を教えてもらいましょう)
自然と共に育ったアーテに、異民族の生活様式はよくわからない。四苦八苦しながら窓の鍵を開ける。外の風はやはり故郷のそれとは何か違うように感じられた。
窓には鉄格子が取り付けられていて、外には出られないようになっている。下はこじんまりとした裏庭のようだ。花壇に花が咲いている。低木ならちらほらあるが、窓の近くに枝を伸ばすようなたくましい木はない。もしあれば飛び移って外に出られたので残念だ。
(この足じゃ逃げるのは難しそうです。しばらくここにいるしかなさそうですね。怪我した後はいつも、治るまではおとなしくしてろってロカもうるさかったですもん)
そのまま飛び降りるにしても、何か足場になるものがほしい。雨どいや別の部屋の窓枠を伝えばいけそうだ。アーテはツリーハウスで生まれ育ったので、この程度の高さは臆するようなものではなかった。問題は、どうやって鉄格子を外すかだが。
ベッドに寝そべってみるが、柔らかすぎて落ち着かない。枝を編んで作った堅くもしなやかな寝台に慣れていたからだ。仕方ないので掛け布団だけ剥ぎ取って、床の上で布団にくるまることにした。
しばらくまどろみの淵をさまよっていたアーテだが、近くで物音を感じて覚醒する。誰かが部屋に入ってきたらしい。
「うわっ。なんでこいつ床で寝てんのぉ?」
甲高い声。若い女性のようだ。目を開ける。窓の外はすっかり暗くなっていたが、部屋は真昼のようにまぶしい。
「あなたは?」
アーテは女性に声をかけた。エミュの召使いと同じ服を着ていて、同じ板を片耳にぶら下げている。彼女もトツヒトだろう。
女性はパンとグラスが載ったトレーを持っていた。一人分だ。女性はアーテを蔑んだ目で見下ろしている。
「あたしが今日からあんたの飼育係。モニータさんって呼ぶのよぉ?」
「はぁ」
間延びした耳障りな声に促されるように、アーテは眠い目をこすりながら起き上がった。掛け布団から出ると、小さなくしゃみが出る。夜風のせいで部屋はすっかり冷え込んでいた。
「別に世話なんてしてもらわなくて大丈夫です。自分のことは自分でできますから。わたし一人じゃ無理なことだけ手伝ってもらえれば、それで」
自分を馬鹿にする相手に、身の回りの世話なんてされたくない。ふつふつとこみ上げてくる怒りを抑えたくて、アーテはつとめて冷淡に振る舞おうとした。
「身の程わきまえてるじゃーん」
モニータはアーテのそばにトレーを置いた。けれど置き方が手荒だったせいでグラスがわずかに傾き、なみなみと注がれていた水が少しはねる。こぼれた水はパンにかかり、白く粉を吹いた堅そうな表皮にじわりと染みこんでいった。
「下種に仕えるなんてまっぴらだからぁ、ちょうどよかったぁ」
アーテは大きく深呼吸をする。感情が昂って泣き出してしまわないように。他人にこれ以上弱いところを見せたくない──怯えていると、嘆いていると、勘違いされたくない。
「その代わり、質問したいことがあります」
「それぐらいならいいよぉ」
モニータは鼻で笑いながら、近くの椅子にどさっと腰を下ろした。
(これ、わたしが食べていいんでしょうか)
空腹には抗えない。皿の上に二つ並んだ、握りこぶしほどの大きさのパンにおずおずと手を伸ばしてみる。モニータは何も言わなかった。それなら食べてもいいのだろう。かじりつく。丸いパンは慣れ親しんだどんぐりパンとは味が違ったが、あの謎団子よりはましだ。
(わたし、生きてる。……そうだ。わたしはまだ、生きていたいんです)
憎くて仕方ないマガツトが用意したであろう食事に飛びつく浅ましさに自己嫌悪が湧き上がるが、生への渇望がそれを上回った。食べ物を咀嚼して飲み下す、原始的なその行為で生を実感する。
(屈したわけじゃありません。受け入れたわけでもないです。ただ今を生き延びて、いつか自由になれる日を迎えるために食べるだけ)
悔し涙をパンとともに飲み込む。今はまだこれでいい。どんな大木も根をしっかり張っているから大きくなれた。今は耐え忍んで根を張る時だ。
「あなたも奴隷じゃないんですか?」
「確かに奴隷だけどぉ、あんたみたいな下種と一緒にしないでよぉ。あたしは賤民なんだからぁ」
「……?」
両者の違いがわからずに黙り込むアーテに、モニータは可哀想なものを見る目を向ける。
「国なしってほんとに何も知らないんだぁ。さすが未開の蛮族って感じぃ」
モニータは自分の片耳につけられた板に触れた。指で留め具を少しいじっただけで、それはあっけなく外れる。
「!」
さっそくアーテも真似してみるが、耳たぶが痛くなるだけで外れる気配は一向にない。
「無理無理。下種の奴隷の耳標には魔法がかかってるんだからぁ。主人の許可がなきゃ外せないってぇ。賤民の奴隷の耳標は自分の好きな時に外せるけどぉ」
「せんみん……賤民の耳標は、その色なんですか」
「そう。聖ドラクレイユ帝国の属国から徴用された人とぉ、借金を返すために自分で自分を売った人がぁ、この耳標をつけて奴隷になるのぉ。決められた労役期間が過ぎるかぁ、自分で自分を買い戻せるぐらいにお金を貯められれば自由になれるんだぁ」
モニータはまた耳標を付け直した。手際がいいことからして、彼女がその動作に慣れているのがわかる。
「じゃあ、わたしも自由になれるんですか?」
アーテは一縷の希望に縋る。けれど返ってきたのは冷笑だった。
「そんなわけないじゃん! 下種の奴隷に任期なんてないし、お給料ももらえないんだからぁ! 自分で自分を解放するために納めるお金もない下種を、自由にしてくれる主人がいると思う?」
「つまり、お金があればいいんですね」
「主人がそれを受け取ってぇ、奴隷の契約魔法を解消してくれればだけど。でもあんた、皇帝陛下の性処理係なんでしょ? あんたの解放金、きっと目が飛び出るぐらい高く設定されてるよぉ。だって皇帝陛下の所有物なんだから」
そう言いながらモニータはアーテの札を見ようと前のめりになり、「やっぱりぃ」と呟いた。何が面白いのか、モニータはげらげらと笑っている。
その笑い声があまりにも耳障りで、むっとしながらアーテはパンを大きくちぎろうとした。力任せに引っ張ったが、ぶちりとちぎれたのは親指と人差し指で挟める程度の小さな欠片だけだった。
「奴隷にかけていい解放金はぁ、主人の社会階級ごとに違うの。その金額の中から自由につけるらしいんだけど、一等市民が持ってる奴隷はみぃんな高額。下手に安値をつけたらぁ、『自分はその程度の価値しかない奴隷で十分ですぅ』って言ってるのと同じだもん。皇帝陛下の奴隷が高いのは当たり前だよねぇ」
「なら、お金以外でわたしが自由になる方法はないんですか?」
「陛下の意思で契約を解除してもらうかぁ、もっと解放金を安く設定してくれる人に下賜されることを祈ればいいんじゃなぁい? それまであんたがマトモでいられて、安くなった解放金を貯める手段があればだけど!」
小さなパンの欠片を口に含んだまま、アーテはモニータの話を黙って聞いていた。モニータはぺらぺらと喋り続けている。
「あっ、主人が死んだら契約魔法は解除されるけどぉ、陛下を暗殺しようなんて恐ろしいこと考えるだけ無駄だよぉ? 耳標についてる警報装置ですぐ無力化されるしぃ、そもそもドラクレイユ人に敵うわけないんだからぁ」
モニータの言い方はいちいち癪に障る。だが、アーテには彼女との対話を切り上げるつもりはまだなかった。
(この人はわたしのことを完全に下に見ています。侮っているからこそ、色々話してくれるんでしょう。……まずは知ることが一番大事だっていつも言っていましたよね、ロカ)
ロカはここにはいない。けれどその存在は、アーテの心の中に深く刻み込まれている。
「どんなに難しく思えることでも、知っていることを増やして一つずつ分析していけば、必ず答えが見つかるんだ」──それがロカの信条で、彼は口癖のようにそう言っていた。ロカの言葉が、異国の地でひとりぼっちになったアーテの心を奮わせる。だからアーテは諦めない。
「わたしは皇帝の奴隷で……寵姫……? だと聞きました。どうしてこの国には、そんな制度があるんですか」
唾液でふやけたパンの欠片をよく噛んで飲み込んでから尋ねる。するとモニータは、汚らわしいものを見るような目をした。
「あたしもよく知らないけどぉ、ドラクレイユ人の男の体質のせいなんだって。下種の女奴隷は基本娼婦になるの。あんたは皇帝の専属だから、まだマシなほうなんじゃなぁい?」
奴隷として扱われて、ましも何もないだろう。幸も不幸も自分で決める。胸の奥で噴き上がる激情を鎮めるように一呼吸置き、アーテはもう一度口を開いた。
「……さっきから言ってる、その、下種とか賤民とか、なんなんです? 一等市民っていうのもありましたよね」
「それがこの国の社会階級なのぉ。全部で五つに分かれてて、上から一等市民、二等市民、三等市民。それから賤民、その下が下種。正式に国民として認められてるのは三等市民まででぇ、人間扱いしてもらえるのは賤民までだからぁ、よく覚えておいてねぇ?」
社会階級。アーテには馴染みの薄い概念だ。けれど恐らく、族長や長老のようなリーダーと、それ以外の人々の区分のようなものだろう。その違いをもっと細かく明確に、そして厳重にしたものに違いない。族長や長老に敬意を払うのは当たり前のことなので、それと根本は同じはずだ。
「階級はどうやって決まるんですか?」
「出自かなぁ。ドラクレイユ人は一等市民か二等市民。一等市民は王侯貴族と聖職者でぇ、二等市民は平民……って言っても、上澄みの資産家とか地主の一族ばっかりだけどぉ。あとは将校とかぁ?」
「じゃあ、三等市民はマ……ド、ドラクレイユ人じゃないんですか?」
モニータはただでさえ間延びした話し方なのに、話が複雑で長いのでさらに時間がかかっていた。
だが、おかげで堅いパンをゆっくり食べることができる。そもそも聞きたいと言ったのはアーテだ。空腹を埋めるようにパンを一口ずつよく噛みながら、アーテはモニータの言葉も咀嚼していた。
「市民権を買った移民だねぇ。属国の有力者とかぁ。解放奴隷でもなれるよぉ。医者とか官僚とか、いわゆる知的労働者の人達もたくさんいるけどぉ、その辺を歩いてるフツーの人達が三等市民。三等市民もピンキリでさぁ。この国じゃ三等市民が一番多いから、いろんな人がいるんだよねぇ」
アーテはグラスの水をちびちびと飲んだ。水差しがないのでおかわりは望めないだろうと先ほどから大切に飲んでいたが、ぱさぱさのパンは容赦なく口の中の水分を奪っていく。パンはあと一つ残っているが、残り半分を切ったグラスの中身では少し心もとなかった。
「三等市民は毎年たくさん税金納めないといけないしぃ、親に市民権を買ってもらわないと子供は賤民になっちゃうからぁ、お金をいーっぱい稼がないといけないんだよねぇ。だから、市民権を買わないで賤民になる解放奴隷もいるよぉ。お金もったいないもん」
「ここはドラクレイユ人の国だから、なんでもドラクレイユ人を優遇するようにできてるんですね。三等市民より下の人達は、一等市民と二等市民を楽させるために生かされているというか」
アーテは小さく呟いた。マガツトに搾取される者という点では、三等市民と賤民もハフリトと変わらない。けれど、だからと言って相互の理解はできるのだろうか。
自分より下の立場の者を見て安心しているモニータがいい例だ。最下層の非人間、下種と呼ばれるハフリトの存在こそが国内のトツヒトの団結力と優越感を高めているとしたら、いくらマガツトへの不満があろうとこちらの声には耳を貸してくれない気もする。
「で、賤民っていうのはぁ、帝国に支配されてる属国の人達とかぁ、入国許可が下りてる旅人とか行商人とかぁ、市民権を持ってないけど存在は認められてる人達全般のことでぇ、下種っていうのが存在すら認められてない人達なんだよねぇ。ようするにぃ、あんたみたいな国なしとかぁ、帝国に服従してない敵国の人達ってこと」
(もしハフリトに仲間意識を持ってくれるトツヒトがいるとしたら、同じように下種扱いされてる人達が一番確実かもしれません)
奴隷としてマガツトに囚われて、これからどうしていけばいいのかわからない。けれどおぼろげながらも何かの輪郭が見えたような気がする。
「たくさん教えてくれてありがとうございました。これ、お礼です。またわからないことができたら教えてください」
アーテは残っていた丸いパンを二つに分け、大きいほうをモニータのほうに差し出す。
「あたしに施し? 国なしのくせに!」
だが、モニータは嫌悪を剥き出しにして立ち上がり、アーテの手を蹴りつけた。パンがぽとりと床に落ちる。
「バカにしないでよねぇ。あんたのエサを分けてもらうほど落ちぶれてないんだけどぉ?」
そのままモニータはパンを踏みつけた。堅いパンも人の重みには勝てず、表皮がぱりぱりと破れて薄茶の中身が顔を覗かせる。モニータはアーテの掛け布団で踏むように靴をぬぐった。彼女は勝ち誇った顔でアーテを見下ろし、「これからはエサも自分で用意してよねぇ」とだけ言って部屋を出ていく。
部屋を出る前にモニータが壁のどこかに触れたせいで、部屋は一瞬にして暗くなった。だが、月の氏族は夜目が利く。視界に問題はない。
「……やっぱり、仲良くなるのは難しそうですね」
蹴飛ばされた手をさする。アーテは踏まれて潰れたパンを拾い、埃を払ってかぶりついた。




