第三十七話 二人きりの婚礼
身も心も傷ついた奴隷達を連れたロカがメイジン邸からデーネンに帰りつくまで、数日間を要していた。
ロカが帰路についている間、アーテは皇帝ヴァルデシウスによって、皇宮の敷地のはずれにある古びた教会に連れてこられていた。
(ここがマガツトの神様に祈りを捧げる場所ですか。なんだか少しかび臭いけど)
アーテはきょろきょろと周囲を見渡す。
この建物は長らく放置されていたようで、ところどころが朽ちていた。
穴の開いた天井から差し込む陽の光が、巨牙獣の牙を彫って作られた彫像や、石本来の模様と彩りだけで描かれた貴石壁画を照らしている。
どれも昔は驕り高ぶる帝国の威容を表す悪趣味な芸術品だったのかもしれないが、人々に忘れられて打ち捨てられた今はもはやかつての輝きなど見る影もない。埃と虫の巣にまみれたそれは、過去の栄華をただ虚しく反芻しているだけの置物だった。
「この旧教会なら邪魔は入らないだろう」
「誰もお祈りに来ないんですか?」
「父が在位中に新しい教会を建てたからな。以来ここは使われていないのだ」
「ふぅん。そっちにはああいうの、持って行かなかったんですね」
アーテが置き去りの美術品を指さすと、ヴァルデシウスは心底不思議そうな顔をした。
「何故使い古しをわざわざ運ばせる必要がある? 新築の教会に合わせたものをしつらえればいいだけのことだ。価値ある芸術品を集めることなど造作もないからな」
「……そうですか」
価値。ドラクレイユ人にとって価値のあるものなどあるのだろうか。アーテはいぶかしんだ。彼らは物どころか人の命すら、平気で代わりを立てるのに。
「さすがにそろそろ立て壊す話も出ていたが、最後に役目を与えられてよかった。何が幸いするかわからないものだ」
「?」
ヴァルデシウスは浮かれているようだ。寒気がする、とアーテは両腕をさすった。
「ここは近々建て替える。アーテリンデ、お前のためだけの離宮にしてやろう。プリゼイル宮はしょせん寵姫のための屋敷だからな」
「はぁ」
心の底からどうでもよかった。アーテの気のない返事にも構わず、ヴァルデシウスはアーテの手を引いてずんずんと奥の小部屋に向かう。
そこには、場違いなほどにまばゆく輝く白いドレスが豪奢なトルソーに飾られていた。
傍にある壊れかけた棚の上には、小綺麗な箱にしまい込まれた新品のヴェールが置いてある。
「誰にも見られぬように、この余が手ずから運び込んでやったのだ」
「あなたが? 自分で?」
アーテの懐疑的な眼差しに、ヴァルデシウスは気まずげに頬を掻いた。
「ドレスを魔法でここに転移させるぐらいどうということはない」
咳払いをしたヴァルデシウスは、ニヤニヤとアーテの肩に触れる。
「余が着替えさせてやろう」
今日は珍しく室内着のままでいることを許されたと思ったら、ここで着替えさせるためだったらしい。
「ばかにしないでください。服ぐらい一人で着られます」
ヴァルデシウスの手をアーテはすげなく払いのけた。
「だからさっさと出てってください」
「今さら何を恥じ入ることがある。日ごろもっと扇情的な姿を余に見せているのを忘れたのか?」
「気持ち悪っ」
変態に蹴りを入れて追い出そうとする。罰の痛みに耐えかねてその場にうずくまったアーテを、ヴァルデシウスは熱を孕んだ目で見つめていた。
相変わらず、アーテの必死の抵抗も可愛いじゃれ合いとしか思っていないようだ。本当に腹立たしい。
「助けがほしければいつでも呼ぶのだぞ」
そう言い残し、ヴァルデシウスは部屋を出ていった。
痛みが引いてから、アーテはふらふらと立ち上がる。
(あの男からの贈り物じゃなかったら、素直に見惚れられたんですけど)
純白のドレスにそっと触れ、アーテは深いため息をついた。機織りの名手だからこそわかる。このドレスがどれだけ素晴らしい織物で仕立てられたのか。
これまで贈られたドレスの中でも、この純白のドレスは群を抜いていた。けれど贈り主の顔がちらつくせいで、感激も興奮も湧き上がってこない。
アーテは義務的にドレスへ袖を通した。豪奢なドレスへの着替えを手伝ってくれるモニータがいないので、いつもよりだいぶ不格好だが、それでもなんとか形にはなっただろう。
最後の仕上げに、氷の花で飾られたヴェールを頭上に乗せる。この氷の花はきっと、ヴァルデシウスが魔法で作ったものに違いない。
「着ましたよ。これで満足ですか?」
長いドレスの裾を踏んづけてしまわないように持ち上げながら、アーテは部屋の外に出た。
律儀にドアの前で待っていたヴァルデシウスは、険しい顔でアーテを見下ろす。
「……」
彼の顔は怒っているかのように真っ赤だ。最高級のドレスを雑に着られたことが気に食わないのだろうか。
「言いたいことがあるなら言えばいいじゃないですか」
「……」
睨みつけると、やっとヴァルデシウスは口をぱくぱくと動かした。けれど結局言葉は出てこないらしい。
「もういいです。気が済んだなら着替えていいですか?」
「まっ、待て!」
部屋に引き返そうとしたアーテの腕を、ヴァルデシウスはすかさず掴む。痛い。
「そ、その……き、き、き」
「はい?」
「き…………だ」
「なんなんですか」
「きっ、綺麗だと言っている! 何度も言わせるな!」
ヴァルデシウスはそう怒鳴り、アーテを横抱きに抱え上げた。
「きゃっ!? おっ、降ろしてください!」
予期せぬ浮遊感にアーテの身体は硬直してしまった。その隙をついて強引に押え込まれる。
「降ろすものか! お前はいつだって余の腕の中にいればいいのだ!」
顔を真っ赤にしたヴァルデシウスはアーテを軽々と抱き上げたまま、礼拝堂へと戻っていった。
「見ろ、アーテリンデ。この彫刻は我らが神の像だ」
礼拝堂の中心にあるひときわ大きな牙彫像の前でやっとヴァルデシウスは足を止めた。
その彫像は周囲の置物と同様に置き去りにされていて、なんの手入れもされていない。神の像だというが、扱いは他の置物と変わらないらしい。ハフリトでは考えられないことだ。
「アーテリンデ、あまねく世界を照らす神の名のもとに誓え。余の妻になると」
「いっ、いやですよ!? わたしはあなたの奥さんになんてなりませんから!」
いきなりの命令に驚きながらも、アーテはきっぱりと拒絶した。するとヴァルデシウスは珍しく傷ついたような顔をする。
「なんでそんなことしなきゃいけないんですか!?」
「余がお前を世界の誰より愛しているからだ」
「わたしはあなたのこと嫌いです。ずっとそう言ってるじゃないですか。結婚は愛し合ってる二人がするんですよ。でもわたし達は違います!」
これまでもこれからも、アーテが結婚したいのはロカだけだ。
アーテはふざけたブーケを取って床に叩きつける。落下の痛みをためらっている余裕はないと、アーテは転がり落ちるようにしてヴァルデシウスの腕から逃れ、その場から走り去ろうとした。
「どこへ行く、アーテリンデ!」
「!」
しかしその逃走は数歩と進めずに失敗する。長い裾を貫く杭のせいだ。ヴァルデシウスが射出した魔法の杭はアーテのドレスを床へと縫い留め、拒むことを許さない。
アーテの身体すれすれを通って壁に突き刺さっていった杭や、アーテの四肢を絡め取るようにして動きを封じるために床に刺さった杭もある。せっかくのドレスはところどころが破れてしまい、柔肌ににじむ赤い線がひりひりした痛みを訴えていた。
「お前が否と言おうとも、余の心はすでに決まっている。余から逃げられると思うなよ」
「……っ」
低い声で囁かれながら、顎をくいと持ち上げられた。
闇より黒い目がアーテを囚える。心臓が破裂しそうだった。アーテの目に涙がにじむのは、握りしめた手が震えてしまうのは、怒りと悔しさだけが理由ではない。その事実が余計に許せなかった。
「そ……そもそも、奴隷のわたしはあなたの奥さんになんてなれないんじゃないですか?」
「ああ。腹立たしいが、お前を后にするのは難しい。だが、余は皇帝ではなく一人の男としてお前と添い遂げたいのだ。アーテリンデ、世界でただ一人、お前だけを生涯愛し抜こう。だからどうか余の想いを受け取ってくれ」
「……この状況で、それを拒める女の子がいると思います?」
憎しみを込めてそう吐き捨てることだけが、今のアーテにできる精一杯の抵抗だ。だって力の差は歴然だ。逆らえば何をされるかわからない。
「そう、その目だ。いかなる時でも損なわれないお前の気高さと美しさは、まさに太陽と呼ぶにふさわしい。太陽竜の王たるこの余ですら、お前の魂の輝きの前には目をくらませる他ないのだ」
(なんで? なんで、なんで、なんで!? わたしがもっと器用で、自分にも嘘をつき続けられたなら、こんな怖い思いをしなくて済んだの? 最初からこいつにニコニコできてたら、こいつはわたしに興味なんて持たなかったんじゃないですか? わたし、初めから全部間違えてたってこと?)
目の前が真っ暗になる。どこへも行けないよう杭で支えられているのに、足場がぐらぐらと揺らいでいる気がした。
「お前が望むのであれば、余は皇帝の座を捨ててしまっても構わない。お前を手に入れられないのであれば、皇帝の地位など何の意味もないのだ」
「……わたしがここにいるのは、あなたが皇帝で、わたしが奴隷だからです。本当にわたしを一人の人間として見てくれるなら、あなたはなんでも勝手に決めないはずです。口ではなんとでも言えるでしょうけど、あなたはどうあっても“皇帝”であることを捨てられないと思いますよ」
砕けそうになる心を必死に押さえ込む。
これまでの努力は無駄だったのかもしれない。
もっと上手に、もっと狡猾に、傷つかずに済む生き方ができたかもしれない。
──だけど、すっかり傷ついてぼろぼろになった自分に、他ならない自分がこれ以上追い打ちをかけたくなかった。
「どうすれば余の愛が真実だと信じてくれる? 余の心を満たせるのは、アーテリンデ、お前だけなのだぞ。お前のいない人生など考えられぬ。お前は奴隷の身でありながら、皇帝たる余に恋を教え、愛することを教えてしまった。その責任は取ってもらわねばならぬ」
それでもヴァルデシウスはしつこくアーテに縋りつく。彼の声音は懇願じみてはいるが、それでも根底にある拒絶を許さない冷酷さがにじんでいた。
「太陽なくして生きられる生命はない。それと同じだ。余も、もはやお前なしでは生きられぬ。これほどまでに愛しているというのに、どうしてお前は余の愛を理解しようとせぬのだ?」
「わかったけど、わかりません。わたしとあなたの気持ちは違うから。あなたはわたしに無理強いしてるだけ。そんな風に迫られても怖いだけです。ちっとも嬉しくなんてありません」
涙目で、声も震えていた。それでもアーテはヴァルデシウスを気丈に睨む。
「わたしはあなたの思い通りになりたくなかった。あなたはそんなわたしが気に食わなかった。だから、わたしに目をつけたんでしょう? 自分がどれだけ偉くてすごいか、あなたはわたしに思い知らせたかったんだ。そうすれば、やっとわたしを思い通りにできるから」
ヴァルデシウスは何も言わない。ただ目を見開き、愕然とした表情でアーテを見つめていた。




