第三十五話 二百年前の真実
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「ど、く、の……何? 風? で、た、た、か、う、人……ってことは、戦士? かな? 毒の風で、戦士が……」
辞書と教本を見比べながら、アーテはたどたどしく音読していく。
「戦士が、倒れて……苦しい? 涙……それで、えっと、立てない、草……生える……死ぬ?」
翻訳は難航していた。解読が思うように進まず、アーテは不思議がって首をひねる。
「おかしいなぁ。星流しのこと、ちっとも書いてないじゃないですか」
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「誰だ!?」
「っ!」
警備隊長の酔いは一瞬にして冷めたらしい。魔法の刃が飛んできてロカを襲う。
上体を必死でそらすことでその一撃は何とかかわしたが、アーテから託された守り袋を切り裂かれてしまった。
「あっ……!」
ずっと首から下げていた、彼女の祖父母の星魂花。床へと落ちていく綿毛がついた花の種に手を伸ばすが、その手は空を切るばかりだ。
(まずい、早く体勢を立て直さないと! 次は避けられないぞ!?)
動揺のあまり腹筋に力が入らず起き上がれない。宙返りで華麗な着地をしようにも、そもそもロカには宙返りができなかった。
だが、このまま逆さ吊りの間抜けな姿勢でいれば魔法の格好の餌食だ。なんとか受け身を取って着地しようと身構えるロカだったが、何故か追撃は来なかった。
その疑問はすぐに氷解する。警備隊長が苦悶の声を上げてのたうち回っていたからだ。
「一体何が……」
罠かもしれないと思ったが、身体が限界だったので諦めて床に飛び降りる。
痒いだのなんだのと喚きながら、男は肌をかきむしっていた。まるで肌の上をはいずり回る虫を取り除こうとしているかのようだったが、そんなものはどこにもいない。
彼の目は真っ赤に充血し、涙がぼろぼろとあふれている。もはやロカのことなど気にする余裕もないようだ。
やがて男の声がかすれて小さくなってくる。喉に手をやっているのは、呼吸がうまくできないからだろうか。
かひゅっ、かひゅっと時折聞こえる荒い息。神経毒に見舞われたようにも見えるが、どのタイミングで服毒したのかわからない。
ロカは男を注意深く観察する。違和感があった。先ほどまでとは明らかに様子が違う。
(肌の下がさっきからボコボコって膨らんで……血管の中を何かがうごめいてる? 本当に虫でもいるのか? ……それに……男の口の奥のほうに、何か緑色のものが……)
やがて男がかきむしっていた肌から何かが突き出てくる。男の口から何かが飛び出してくる。
──泣きながら息絶えたその男には、無数の花が咲いていた。
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ハフリトの戦士とドラクレイユ人の軍人が戦っている挿絵。ネイカ大森林で見たような、輝くがちゃがちゃの服は誰も着ていない。
「は、な……花……花!? ようやく見つけました! ええっと、花の……おばけ? びょ、う、き……うつる、から、あきらめ……逃げた? あれ? これだけ?」
アーテは何度もその章を読み返したが、星流しの美しさに感動したとか、大自然の神秘を前にして戦うことが馬鹿馬鹿しくなったとか、そういったことは何も書かれていなかった。
「じゃあ、星流しのおかげでマガツトが戦うのをやめてくれたっていうのはハフリトの勘違いで、ほんとの理由は全然関係ないことだったってことですか? なぁんだ……」
アーテは本を投げ出して寝台の上に倒れ込む。がっかりだ。人種を越えてわかり合うことができた事例だったと信じていたのに。
(このことを知ったら、ロカもきっとがっかりしますね。また星流しを見せても、マガツトは改心してくれないってことですから)
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(星魂花の花が咲くのに百年かかるのは、それだけの時間をかけて栄養を蓄えないといけないからだ)
男の亡骸に根を張って美しく咲くその花を見て、ロカは茫然と立ち尽くす。
(大地の養分、太陽の養分、水の養分。咲くのに必要な分だけの力を自然の恵みから分けてもらうのに、かなり長い時間がかかる。じゃあ、もし一瞬で必要な力を与えられたなら……本来の周期を無視して、短時間で咲けるんじゃないのか?)
ロカは膝をつき、その白い花びらにそっと触れた。
七年前、九歳の時に一度だけ見た伝説の花。先祖の魂を宿すと言われるその花が、こうしてロカの目の前で咲いている。
(きっと、アーテのお守りからこぼれた花の種がこの男の身体の中に入ったんだ。ドラクレイユ人の魔力は、星魂花が必要としてる莫大な養分をあっという間に賄えた。だから体内で発芽して、花まで咲かせたんだ。この国の様子からして、魔力は植物の万能の栄養剤じゃない。だけど少なくとも、星魂花にとっては……)
生きた土壌から生気を吸って妖しく輝く白い花。ハフリトの前では一度たりとも見せたことのないその姿はあまりにも畏ろしく。けれど同時に、旧き神が遺した信徒への希望でもあった。
「二百年前の星流しの日も、綿毛のついた種がドラクレイユ人に落ちていった。異物を取り込んだ拒絶反応と、どんどん花が芽吹いていく恐怖にさいなまれながら、連中は次々に死んでいったんだ。だから、ドラクレイユ人は戦うのをやめざるを得なかった……」
乾いた笑い声がこぼれる。神秘的な光景に感動し、自然の美しさに共鳴する心を、マガツトなんかが持ち合わせているわけがなかったのだ。
当時トツヒトによるハフリト弾圧が苛烈だった東側の国々では、多くのハフリトの土地が焼き払われていて星魂花もほとんど咲いていなかった。
トツヒトの言葉でカンナビを表す“灰色の棄て地”とはそもそも、彼らが生んだ焼け野原を指してのことだ。草木も枯れ果てた、何もない土地。トツヒトに切り捨てられて生命を失ったその地に、なおもしがみつくハフリト達を嘲笑うための呼称。焼き討ち被害の少なかった西側にも広まるほど、その呼称は一般化されていった。
同じ民族間での対立。無駄な争い。そのせいで外敵に対する自然の防波堤は機能せず、東側における度重なる暴虐を許してしまった。東側の国々の多くがドラクレイユ人の支配下に置かれるようになったのはそのせいだったのだ。
けれどドラクレイユ人が山を越え、西側に広がるトリス平原に侵攻した時に、ドラクレイユ人は星流しに遭遇して大敗を喫した。
二百年前のドラクレイユ人は事情を理解できないまま撤退を余儀なくされ、ハフリト相手に和平条約まで結んだ。
そして甲冑──防護服で全身を鎧い、改めて西側の国に攻め入った。
星魂花の恐ろしさを、ドラクレイユ人は今も覚えているのだろうか。
いいや。きっともう、忘れてしまっているのだろう。
侵略された国々が荒らされるのは常のことだ。星魂花の群生地だけが執拗に狙われたという話は聞かない。ネイカ大森林でもそうだった。破壊されたのは集落だけで、禁足地としてひとけのなかった星魂花の花畑は無事だった。
西側に国境を拡張しない理由として、巨大な峨翳山脈が言い訳にできる。
西側では元々百年に一度しか咲けない花なのだから、時期さえ揃わなければあの屈辱的な敗北が繰り返されることはない。甲冑の慣習だけは残ったものの、天敵の根絶はされないまま今に至ったのだ。
「約束したよな、アーテ。また星流しを一緒に見ようって」
綿毛となって飛び散ってしまう前に、ロカは咲き誇る星魂花を摘んでいく。
「だから、マガツトの魔法で咲かせてもらおう」
この力があればきっと、ドラクレイユ人の時代を終わらせられる。
それはとても美しい終焉だ。これまで多くの命を踏みにじってきたドラクレイユ人にはきっと似合いの末路だろう。
「それで、国中のマガツトに星流しを見せるんだ──きっとみんな驚くぞ」
その夢のような景色を思い浮かべ、ロカはぞくぞくと身を震わせる。皎い花は月光を受けて神々しくきらめいていた。




