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花散る夜に、偽りの愛にさよならを  作者: ほねのあるくらげ
第三章

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第三十二話 皇帝のしがらみ

* * *


 ほんの数時間前までこの腕の中にいたアーテリンデの温もりはすでにない。脳裏に焼きつく泣き顔だけがあの時間が夢ではなかったことを証明していたが、裏を返せばそれしか証拠はなかった。


 (いや、いっそのこと夢であればよかったのだろうか。力ずくでアーテリンデを手に入れたところで、この胸の穴は埋められないと言われているようなものなのだから) 


 途方もない渇きがヴァルデシウスを襲い、燃えるような衝動が身をいていく。ドラクレイユ人であれば本来味わうはずがない太陽のもう一つの側面が、ヴァルデシウスを苦しめていた。


 初めての恋は、自身を傷つけてしまうほど苛烈で切なく、けれど焦がれずにはいられない。うちに渦巻く熱に従うことでしかこの苦しみからは解放されないというのに、それでも蹂躙の後にはぬぐい切れない虚無感に襲われた。


 アーテリンデの泣き顔は確かに愛らしい。彼女の眼差しが自分だけに向けられるのであれば、それが憎悪や嫌悪に染まっていようと構わない。あの泣き濡れた蜜色の瞳の中には自分しかいないのだから、むしろ望むところですらあった。


 けれどたった一つだけ、どうしても我慢ならないことがある──組み敷かれたアーテリンデが時折うわごとのように繰り返す、“ロカ”とは一体どういう意味だ? 


 彼女に食べさせている灰豆団子の翻訳が働かないということは、該当する単語がドラクレイユ語にないか、あるいは固有名詞ということだ。

 その短い音の羅列が何を意味するのか、アーテリンデに直接問いただすのはたやすい。アーテリンデが拒んでも、いつものように少しおどせば口を割るだろう。だが、どうしてもそれができない。


 無意識下で縋るように繰り返すほど、アーテリンデの心に深く刻み込まれている言葉。

 それが彼女にとってどれだけ特別な意味があるのか、知ってしまうのが怖かったのだ。


 国なしの尖り耳共が信仰しているという、異教の蛮神の聖句なら構わない。だが、アーテリンデの前にいるのはヴァルデシウスだというのに、彼女はいつまでもヴァルデシウスを見ようとしない。燃える目に映していても、心の中には入れてくれないのだ。


 その理由が、あの祈りにも似た単語にあるとするのなら、いつまでもまとわりついてくる虚無感の原因も──


「陛下! 皇帝陛下!」


 財務大臣に呼びかけられて、ヴァルデシウスは我に返った。

 会議場にいる宮廷人達の視線がヴァルデシウスに集中している。机上に両肘を立てて両手を組んでいたヴァルデシウスは、気まずさをごまかすように手を口元に寄せて議席を見渡した。


 皇帝から放たれる静かな威圧感に、集まっていた視線がたちまち散らばる。

 それでもまだいくつかの目はしっかりとヴァルデシウスを見据えていた。帝国軍元帥ルンガルドもそのうちの一人だ。ルンガルドは厳かに咳払いをした。


「ミルパメラ皇后陛下の件、なにとぞお考え直しいただけませんか。せめて正式な司法の判断を……」

「ノイシン、皇帝ならびに次期皇位継承者を害した者の処罰はどうするべきだ?」

「大逆罪につきましては、帝室典範法第六条五項に定めがございます。下手人の罪は、その者の命によってのみあがなえる、と」


 ヴァルデシウスが問いかけると、皇帝のための法律書はよどみなく答えた。


「し、しかし皇帝陛下、今回の件の本当の断罪の理由は、陛下の第二寵姫にあると……」

「第六条六項、大逆罪に関する皇帝の判断は帝国におけるありとあらゆる法を超越できるものとする。何をもって大逆罪とみなすか、その定義すらも陛下の御心のままに。玉音を覆すことは、何人なんびとにも不可能です」


 この国の絶対的な支配者が誰なのかを知らしめ、法務長官ノイシンは蛇のように冷酷な笑みを浮かべる。

 ノイシンの隣に座る司法大臣は、重々しく口を閉ざしたままだった。皇帝に歯向かう意思はないと示しているかのようだ。はしごを外されたルンガルドは鼻白むが、誰も彼を援護しようとはしない。


「そういうことだ。二度は言わせるな、ルンガルド。それとも、お前もミルパメラとさかずきみ交わすか?」

「そ、それは……」


 ルンガルドは脂汗をぬぐう。百戦錬磨の戦士もこうなってしまえば形無しだ。もごもごと謝罪の言葉を口にする彼を、ヴァルデシウスは鼻で笑った。


「さて、本題に移りましょう。陛下、お世継ぎ候補がフレドラーク皇子殿下お一人しかいないというのはいささか心配でございます。先のことを考えて、新たなきさきをお迎えしてはいかがでしょうか」


 そう提案する老宰相スティンモレーの真意は見え透いている。ミルパメラが失脚したのをいいことに、自分の息のかかった娘をお飾りの皇后に据えて実権を握りたいのだ。虎視眈々とそれを狙う者は、スティンモレー以外にもいるのだろう。


(くだらん。次の后など必要ないというのに。そんなものを据えて、またアーテリンデへの嫌がらせが繰り返されたらどうする。思い上がった女の悋気にはもう付き合いきれんぞ)


 ヴァルデシウスの不興を買いたくないからか、あるいは苛烈な性格のミルパメラは大なり小なり宮廷の反感を買っていたのか。彼女が皇后の座を追われるが早いか、スティンモレーのように手のひらを返す者が多く出た。助命を嘆願するルンガルドのような宮廷人は少数派だ。

 スティンモレー達にとって、もはやミルパメラは敬うべき相手ではない。皇后という冠も皇帝の庇護も失った女に、彼らは価値など見出さないのだ。そんな彼らが後釜として用意する女達も、ヴァルデシウスにとってはなんの価値もなかったが。


(いや、待てよ。いっそアーテリンデを正式な后として迎え入れてしまえばいいのではないか?)


 それはとても素晴らしい思いつきだ。奴隷を皇后とすることへの反発にさえ目をつぶれば、だが。


 アーテリンデ自身を皇后にしてしまえば、お飾りの妻に煩わされることはない。

 皇后の椅子に縛りつけられれば、いくらアーテリンデでもきっと諦めるだろう。奴隷の身では考えられない栄誉を与えれば、ヴァルデシウスの本気を彼女も理解してくれるはずだ。


「そうだな。お前の言う通りだ、スティンモレー」

「おお! では陛下、早速ふさわしい娘を見繕ってまいります」

「いや、その必要はない。新たな皇后はすでに決めている。我が寵姫アーテリンデだ」


 その瞬間、会議場の空気が凍りついた。


「何をおっしゃるのです!? ソレは下種ではありませんか!」

「いっ、いくら皇帝陛下であろうと、そのようなことは許されませんぞ!?」


 一瞬の沈黙の後、ドラクレイユ人の大臣や高級官僚達が喚き出す。この会議への出席を許されている数少ない非ドラクレイユ人の議員達ですら唖然としていた。


「奴隷が皇后になるだなんて聞いたこともない! 陛下、なにとぞお考え直しを! そのような無茶を通せば、貴方の御名は帝国始まって以来の愚帝として後世に残りかねません!」

「ドラクレイユ人と非ドラクレイユ人の正式な婚姻は、帝国法四百一条で禁じられています。強行なさるというのなら、大掛かりな法改正が必要ですねぇ。下種はもちろん、賤民にも人権を与えなければ。ひとまず奴隷法の撤廃から着手しましょうか? 改正案ならすでに何度も議会に提出されていますから、あとは通すだけですよ」

「ふざけるな! そのようなことがあってはならない!」


 青い顔の司法大臣が唾を飛ばす横で、ノイシンがアーテリンデを皇后にするための道筋を淡々と組み立てる。それを一喝するのは宰相スティンモレーだ。


「ヴァルデシウス皇帝陛下、恐れながら申し上げます。言うに事欠いて家畜と結婚したいとは、気でも狂われましたかな? 貴方様は天舞う太陽竜の王。世界を統べる偉大なる方でございます。その貴方様が家畜ごときを后に迎え入れるなど、民に示しがつきません」


 スティンモレーの強い言葉は、彼が父帝どころか祖父帝の代を知るからこそのものだろう。

 ヴァルデシウスの幼い頃には教師役として仕えていた老賢者は、おもねるのではなく諫言を選んだ。かつての師が権力でも保身でもなく忠義を取るというのなら、さすがのヴァルデシウスも耳を貸さざるを得ない。何より、彼らのこの反応は予想できていたものだ。


「魔力を持たない下種に惹かれる気持ちはわかります。それは我々の本能のようなもの。我が身の分身そのものと言える、混ざりけのない魔力を残すには下種のメスが一番です。ですがそれは、いっときの欲が見せるまやかしにすぎませんぞ」

(やはりそううまくはいかないか。后に迎えるというのは、ペットを溺愛することとはわけが違う。尖り耳を正式に人間と認めたようなものなのだから。老害どもに許容できる範疇を超えるのも仕方ないだろう)

「卑しき下等種に惑わされるなど貴方様らしくもない。尖り耳は神が我々に似せて造った家畜ですぞ? 愛玩するのは結構ですが、決して人間の伴侶にはなりえません。どうか偽りの愛に溺れずに、正しき心を取り戻してくださいませ」


 スティンモレーの言い分はもっともだ。ドラクレイユ人の重鎮達は深く頷いている。家畜の下等種と断じられたも同然の、三等市民達は複雑そうな表情でそれを聞いていたが。


(皇帝という立場もままならぬものだな。外聞に左右されずに心のままアーテリンデを愛するには、余の身分が邪魔をする……)


 こうなることは予想できていたが、思い通りにならないのは腹立だしい。「冗談だ」と場を強引に収める屈辱を、ヴァルデシウスは紅茶とともに飲み込んだ。


*


 翌日、前皇后ミルパメラの死刑は滞りなく執行された。


 皇宮の大広間で一等市民達に見守られながら、ミルパメラは執行人から毒杯を受け取る。常と変わらない、自信に満ちた優美な立ち振る舞いはミルパメラの最期の意地なのだろう。


「ヴァルデシウス」


 ヴァルデシウスを見つめ、ミルパメラは壮絶に嗤う。


「いずれそなたは己の過ちに気づくじゃろう。しかしわらわを捨てたこと、決して後悔するでないぞ。その程度の男にわらわの命をくれてやったつもりはないゆえな」


 憎悪で爛々と輝く瞳が次に映したのは、ヴァルデシウスの隣に立たせたアーテリンデだ。


「目をそらすことは許さぬぞ、小娘。わらわを廃して勝ったつもりやもしれぬが、次はそなたがここに立つ番じゃ」

「……」

「こんなことになるのなら、尖り耳など早々に滅ぼしてしまえばよかった。ああ、我らが偉大なる王を堕落させた毒婦が天に裁かれるさまを見届けられぬのが残念で仕方ないのう!」


 ドラクレイユに栄光あれ。そう叫び、高笑いと共にミルパメラは毒杯を呷る。傲岸不遜な元后はそのまま床に崩れ落ちた。


 執行人がその死を確認し、淡々と事後処理に移る。ヴァルデシウスはアーテリンデを抱き寄せ、早々に背を向けた。


「気にすることはない。死にゆく敗者にありがちな、ただの負け惜しみだ」

「……あなたの奥さんだった人なのに。どうしてそんな態度でいられるんですか」

「しょせんは政略で迎えた后だからな。あの女はそれをわきまえずに増長していただけだ」


 これまでもこれからも、最愛はアーテリンデ一人だけだ。他の女など愛したこともない。

 そう伝えたくて、ヴァルデシウスはわざとミルパメラに対して突き放した物言いをした。ヴァルデシウスの誤算は、アーテリンデはそれで喜ぶようなたちではなかったことだ。


 アーテリンデは無言のままちらりと振り返った。つられてヴァルデシウスも後ろを見る。

 死刑を見届けて一等市民達が大広間を立ち去る中、元帥ルンガルドだけがその場に立ち尽くしていた。彼の視線の先にあるのは、執行人によって運ばれていくミルパメラの亡骸だろうか。だが、その光景はヴァルデシウスの興味を特別引くようなものではなかった。


「どうかしたのか、アーテリンデ。プリゼイル宮に戻るぞ。それともこのまま皇宮に滞在するか?」

「ばかなこと言わないでください。わたしが歓迎されてないってことぐらいわかります。こんなところで暮らすぐらいならプリゼイル宮にいたほうがマシです」


 そっけなく答えると、アーテリンデはヴァルデシウスの手を振り払うようにしてさっさと歩き出した。つれない態度に微苦笑を浮かべ、ヴァルデシウスは彼女の後を追う。


「そういえば、宮廷の人が色々贈り物をくれたんです。どうすればいいのかあなたに聞きたくて。勝手にもらっちゃったら、どうせあなたは怒るでしょう? 服とかアクセサリーとかもありましたもん」


 隣に並んだヴァルデシウスの顔を見ないまま、アーテリンデは淡々と口を開く。


「わかってきたではないか。お前を着飾らせていいのは余だけだ。贈り主には余がねぎらっておくから、品物は捨てておけ」

「……はぁい」

(今日はやけに聞き分けがいいな。目の前で人が死んだのがこたえたのか?)


 公的な結婚が許されない以上、花嫁衣装だけでも贈って秘密の誓いを交わそうと思ったのだが……さすがに何日か空けて様子を見たほうがよさそうだ。せっかくの門出を死人の呪詛に邪魔されてはたまらない。


(なに、時間はある。たとえ正式に結ばれることが許されずとも、こうしてアーテリンデは余の元にいるのだ。いずれ“ロカ”とやらも余が上書きして、その言葉を忘れさせてやろう)


 許されざる禁断の恋。周囲に認められないからこそその想いはさらに燃え上がる。もはや誰にも止められない。


 ヴァルデシウスはアーテリンデを熱っぽく見つめる。彼女を自分に繋ぎ止める何かを、ヴァルデシウスは無意識のうちに探し求めていた。秘密の結婚はまさにうってつけのくびきだ──けれどそこに、花嫁の意思は宿っていない。


* * *

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