第三十一話 “先生”
もう一度ロンメロの人と話せる約束の時間が来るまで、アーテは─ロンメロの人いわく─『皇帝の最愛の寵姫へのご機嫌取りの品々』をメグリムと一緒に見てみることにした。
服飾品以外にも、調度品やら日用品やらたんまりある。どれも高価そうで、何かが書かれたカードが添えられていた。
メグリムに聞いたところ、贈り主の名前が書かれているのではないかということだったが、ドラクレイユの言葉で書かれたその名前はどれもアーテには読めなかった。灰豆団子は読み書きまではフォローしてくれない。
メグリムも文字はわからないらしい。そもそも異国から来た家事奴隷や労働奴隷が言葉を学ぶことは推奨されていないそうだ。
贈り主達だってプリゼイル宮にドラクレイユ語が読める人がいないことは知っているだろう。アーテの周りでドラクレイユ語の文字が読めるのはたった一人、皇帝ヴァルデシウスだけだ。
(へんなの。本当にわたし宛てのつもりなら、わたしに名前が伝わってなかったら意味がないのに)
この贈り主達は誰を喜ばせたくて、誰に名前を覚えてもらいたかったのか。少なくともその本当の相手はアーテではないのだろう。
(あの男に媚を売りたいのなら、いちいちわたしを巻き込まないでほしいです)
自ら個人の特定を避け、アーテにだけわかるようにアーテ宛ての贈り物を忍ばせたロンメロの人のほうがよほどましだ。
「仕分けるのもお礼を言うのも、全部あの男に丸投げしません? これをくれた人達も、きっとそのためにプレゼントを用意したんでしょうし」
「それもそうだねぇ。ドレスやらアクセサリーやらはカードからしてどこぞのご婦人がたからみたいだけど、陛下の嫉妬心にどこで火が付くかわからないし」
アーテがぼやくと、メグリムも神妙な顔で頷いた。
自分が魔法で作った花を毎日身につけるように強要する男が、自分の知らないものを身につけているアーテを見て怒り出さないとも限らない。何をするにも主人の許可が必要な奴隷の不自由さに苛立ちが募る。
エミュの代わりに庭園の花に水をやって雑草を抜き、やっと日暮れが迫ってきた。
一人で部屋に戻ったアーテは緊張しながらカードと時計を交互に見つめる。ゆっくりと回る時計の針がただもどかしい。焦れながらその時を待っていると、ついにカードが小刻みに動き出す。うっすらと上がる白い煙は見間違いではない。
「ロンメロさん?」
「きちんと繋がったようですね。結構です。それでは答えを聞かせていただきましょうか」
「はい。考える時間なんてなくても、答えは決まってたんです──わたしは皇后になんてなりたくありません」
すっとする。自分の意思をはっきり告げることの、なんと心地いいことか!
「……ハフリトの貴方が皇后の座に就くことで、この国を変えられるとしても? 私がありとあらゆる手を使って貴方を支えます。貴方が皇后になれば多くの奴隷が救えるのです。それでも貴方の答えは変わりませんか?」
「はい。もちろん、誰かを助けられるなら助けたいって思います。わたしにできることならなんだってしたいです。……でも、わたし、国中のハフリトの命なんて背負えませんよ。それは、わたしにはできません」
どれだけ背伸びをしたって、アーテに救えるのはこの手の届くところまでだ。
どこか遠くで実を結ぶことを願って綿毛のように小さな善行を飛ばすだけならともかく、自分を犠牲にしてまで顔も名前も知らない無数の人々をまるごと無償の愛で包み込むなんて絶対に無理。
それがどれだけ孤独で恐ろしいことなのかは、エミュの末路を見れば明らかだ。自分にその器も覚悟もないことは、アーテが一番よく知っていた。
「だって……だってわたし、普通の女の子なんですよ? わたしだって助けてもらいたいのに。皇后になって奴隷になったハフリトをみんな助けられたとして、そのあとわたしはどうしたらいいんですか」
己の醜さと無力さを噛みしめながら、それでもアーテは選んだ。数多の人々の救世主として栄光に向かう道ではなく、たった一つの愛を信じる道を。
だって大衆のために皇后になんてなろうものなら、きっともうロカに会えなくなってしまうのだから。
自分を犠牲にして同胞を救うのは尊い美談かもしれない。だが、相談もなしに勝手なことをしたとロカが怒るのは火を見るよりも明らかだ。
ヴァルデシウスに心変わりしたとか、助けに来るまで待ってくれなかったとか、約束したのに裏切ったとか。そう思われて憎まれてしまう可能性だってある。ロカに会うことを諦めたわけではないのに。
ロカを悲しませたくなかったし、嫌われたくなかった。
アーテが何かを選んだ結果たくさんの人が幸せになろうとも、その幸せになれた人々の中にアーテ自身が入っていない時点で、それはアーテにとって最良の選択肢ではない。
それどころかアーテの大事な人を傷つけて不幸にするのなら、それはきっと選んではいけない選択なのだ。
「改革には犠牲がつきものです」
ロンメロの人はため息をつく。
「ですがこの言葉は、犠牲を出す側が言い放っていいものではない。贄を捧げることの免罪符ではないのですから。善意に付け込んで滅私奉公を強いるなどもってのほかでしょう」
(やっぱり、この人は……)
「アーテさん、貴方の気持ちはわかりました。至極まっとうな意見だと思います。心配せずとも避妊薬は毎月差し入れますから、とりあえず今はどうにかそれでしのいでください」
「待ってください!」
アーテは慌てて呼びかけた。このままでは会話を打ち切られてしまうかもしれない。せっかく舞い込んできた自由への糸口を失うわけにはいかない。
「どうしました?」
「あなたはわたしに、三つの選択肢をくれましたね。皇后になることと、ならないことと、それからあなたに二度とかかわってほしくないってこと」
「それが何か?」
「この国に連れてこられてから、あなたが初めてなんです。わたしのしたいことを選ばせてくれる、奴隷じゃない人。わたしがあなたの言う通りにしなくても、あなたは怒らなかった。受け入れてくれました」
同じ奴隷の立場、ではない。彼は三等市民のトツヒトだ。それなのに、彼はアーテを無理やり従わせなかった。アーテの意思を尊重してくれた。
「それがどれだけ嬉しいことか、わかりますか? あなたはわたしを、ちゃんと人間として見てくれてるんです。家畜だとかペットだとか、ずっとそう言われてきたのに。そんなこと言う人達に、どれだけ嫌がっても言いなりになるしかなかったんですよ。でも、あなたは違います。それにあなたは一度も、わたしのことを国なしって呼びませんでした」
「……」
「あなたなら、わたしを対等に見てくれる。わたし、あなたに教えてもらいたいことがたくさんあります。気が向いたらでいいので、話し相手になってくれませんか。あなたにとっては迷惑かもしれませんけど」
「……まあ、そうですね。私に利点はありません。貴方が私の理想に協力してくれるならともかく、ただの雑談に付き合わされた結果嫉妬に狂った陛下に殺されるのはごめんです」
ですが、と男は諦めたように笑う。
「こちらから声をかけたというのに、期待外れだから切り捨てるというのは非情が過ぎる。すぐにその檻から助けることはさすがに難しいですが、その檻から抜け出す方法が見つかるまでの気晴らしぐらいなら付き合いますよ。陛下に感づかれない範囲で、ですが」
「本当ですか!」
「これも償いです。……五年ほど前にね、なんとか隙を見つけてエミュリエンヌさんと接触したんですよ。取り付く島もありませんでしたが」
「エミュ様と……」
「あの時、彼女はすでに男という生き物を憎悪していた。ドラクレイユの国母になってハフリトを救うという願望にも取り憑かれていた。トツヒトの男など、彼女にとっては信じるに値しなかったのでしょう。……無垢腹なんて産んだところで意味がないとどれだけ説明しても、彼女は聞く耳を持たなかった」
「エミュ様に皇后になってもらえばよかったんじゃないですか?」
「すでに皇子がいる今とは状況が違います。皇帝陛下は彼女にほとんど関心を持っていませんでしたし。そもそも、必要なのは皇帝陛下を骨抜きにできる強かな傾国の姫であって、無垢腹の次期皇帝を産む未来の国母ではないんです」
さらっと荷の重いことを言われた。大嫌いなあの男を籠絡して国を傾けるなんてもっと耐えられないに決まっている。今だって気持ち悪くて仕方ないのに。
「ともあれ、私はエミュリエンヌさんを味方に引き込むことを諦めました。……それから二年経って、私に娘が生まれましてね。幸い、身分としては三等市民ではありますが、何事にも絶対はない。なにせあの子の母親は、貴方やエミュリエンヌさんと同じ立場だったんです。もしあの子が将来、かつての妻と……貴方達と同じような目に遭うようなことがあれば……」
その声音には、深い悲しみと憎しみがこもっていた。
奴隷というのは、自分の娘に降りかかる最悪の未来の可能性なのだろう。その立場に堕ちたアーテを気にかけてくれるのは、彼にとっては娘を守っているのと同じなのかもしれない。エミュが心を壊してしまった今、償いという言葉はより重く聞こえた。
「あなたの奥さんって」
咳払いが聞こえてくる。
「少し話しすぎました。情報の取り扱いは慎重に。これからも私と付き合っていきたいのなら、それ以上の詮索はなしですよ」
「はぁい、“先生”」
「先生?」
「あなたの新しい呼び方。これからはそう呼ぶことにします。ここにいるだけじゃわからないこと、色々教えてもらいたいから」
生まれも育ちも聖ドラクレイユ帝国の三等市民。隔離されたこのプリゼイル宮に秘密の贈り物を紛れ込ませられるぐらいには宮廷に近いところにいるのに、この国を傾けることを考えている人。
ロンメロの人改め“先生”は、アーテの知らない常識の中で生きている。視点が違うのだ。アーテでは一生かかっても思いつかないことでも、彼ならあっさり助言をくれるかもしれない。
「わたしは“決して腐らぬ高貴な樹”です。太くて丈夫な根を張って、いろんなところから栄養を吸収して大きくなるんですよ。マガツトなんかに負けないようにするために」
「なるほど。知識というのも立派な力です。暴力では勝てない相手に対抗する手段として、貴方は知識を選ぶんですね」
先生が笑う。顔は見えないが、温かい目をしている気がした。
合理的で冷たそうに見えて、結局は優しい。どことなくロカを思い出す。先生と話しているとなんとなく安心するのはそのせいかもしれない。
(まずは、マガツトの文字の読み書きができるようになりましょう。宮廷の人達がわたしのことを見てないうちに。知らないふりをしてるけど実は知ってるっていうのは、きっとすごい武器になります。相手はこっちをわかってないのに、わたしは相手のことがわかるんですから)
わからないことは怖い。独善的で自己中心的なドラクレイユ人の話は意味がわからないし、魔法の原理もわからない。
だから、怖い思いをしなくてもいいように、わからないことを一つずつでも消していく。
教材は歴史の本がいい。ロカの好きなことだから。ロカと一緒に学んでいると思えばやる気が出てくる。
ロカに会えたら、ロカもまだ知らないドラクレイユの歴史の話をしてあげよう。
ロカがこれまで話してくれたたくさんのことが心の支えになっていたと、彼に証明するために。




