第三十話 ロンメロの人
昼食の後、倉庫からろうそくと燭台、それとマッチを持ち出したアーテは、どきどきしながら部屋に戻った。謎の贈り主の指示通り、カードをろうそくの揺れる炎にかざしてみる。
(一体何をさせるつもりなんでしょうか)
しばらくそのまま待っていると、燃えてもいないのにカードから突然白い煙が上がった。
「きゃっ!?」
慌てて手を放す。カードはテーブルの上にはらりと落ちた。
「思ったより早く……おや? 驚かせてしまいましたか?」
「誰!?」
誰もいないのに男性の声がする。急いで周囲を見渡すが、人の姿などどこにもなかった。
知らない声だが、彼が話しているのはハフリトの言語だ。灰豆団子による翻訳が働いていたとしてもわかる。脳に直接意味を反映させているのではなく、きちんと音として理解できるのだから。
「落ち着いてください。そのカードを通して私の声を貴方に届けているだけです。そのカードは、そういう魔動器なんですよ」
「え……」
おずおずとカードを見ると、確かに声はそこから聞こえる……ような気がする。白い煙は滞留したままだ。
「魔法はマガツトの力なのに」
「魔法ではなく魔動器です。ドラクレイユ人が大地に刻んだ魔力回路と彼ら自身が排出する魔力の残滓の影響で、帝国内の大気や大地には微量ながら魔力が含まれています。そのおかげで魔法の使えない我々でも、魔動器の恩恵なら受けられるんですよ。貴方だって普段から灰豆団子を食べているでしょうし、魔灯や給湯管を使っているでしょう?」
確かに。ハフリトの暮らしにはなかった便利すぎる道具の数々は不気味だが、それがないとこの国では生活が成り立たない程度には人々は道具に依存していた。
いくら苦手に思っていても、使いこなせなければ何もできないほどあらゆる利器が普及している。カンナビで暮らしていたころのような、文明の利器に頼らない生活というものはこの国の基準から外れているし、その不便な暮らしを支えるだけの知恵や技術がないのだ。そんなありさまではアーテだって里での暮らしを強引に再現するわけにもいかなかった。
「あ、あなたがロンメロの実をくれた人ですか?」
「ええ。お口に合えばいいのですが。帝国の土壌のせいかカンナビで育てるほど美味しくなってくれないと、私の知り合いのハフリト達からはどうにも評判がよくなくて。それでも彼らは改良を重ねながら丹精込めて育ててくれましたし、その中から用意できる最高の物を選んだつもりです」
「……そうですね。少し小ぶりだったし、ちょっとだけ固かったけど……でも、ちゃんと美味しかったです。ありがとうございました」
誰だかわからない相手でも、礼儀としてお礼は言っておく。食後のデザートとして美味しくいただいたのは本当だ。
「あれはカンナビから盗んだり、ハフリトから知識と労働力を搾取して作ったりしたものでもないんですね?」
「ご安心を。ちゃんと正当な手段で栽培して収穫したものですよ。育てた者達には、釣り合うだけの対価をきちんと与えています」
煙の向こうで男性が笑った気配がする。つかえが一つ取れて、アーテはほっと胸を撫でおろした。
「あなたはハフリトなんですか?」
「いいえ。生まれも育ちもドラクレイユの、三等市民のエルファース人です。貴方達の言葉で言うところのトツヒトですね」
(エルファース……ロカから聞いたことがあります。大きな一つの国の本当の名前でしたっけ。トツヒト達は自分の生まれた国の名前で自分達を区別するし、ハフリトはハフリトですから、もう自分のことをそう呼ぶ人はいないって聞きましたけど)
「貴方達の言葉と文化は、あるハフリトの女性から学びました。ですがいまだに勉強中の身ですから、つたないところや失礼な振る舞いがあるかもしれません。先に謝っておきましょう」
「い、いえ。すごく綺麗な発音だと思います。語彙もたくさんあって」
教師役の教え方がうまかったのか、彼自身が努力を重ねたのか。あるいはその両方なのかもしれない。
エミュの心が壊れてしまった今、まさかまたこうして灰豆団子を介さなくても自然に会話できる相手が見つかるとは思っていなかった。自然と涙がにじみ、アーテはそっと目元を押さえる。
「ならよかった。そうだ、貴方の本当のお名前をうかがっても? アーテリンデという名は、ハフリトにしては長すぎるでしょう?」
「……アーテ。アーテです。月の氏族のアーテ」
「アーテさん。“決して腐らぬ高貴な樹”ですか。いいお名前ですね。のびのびと健やかに育つように願われたご両親の愛を感じます」
さらりと名前の由来を言い当てられて、照れくさくなったアーテはもごもごとお礼を言う。ハフリトの名付け方にも通じているなんて、この男性はかなり博識なようだ。
「あなたは誰なんですか? あなたの名前も教えてください」
「残念ですがそれはできません。皇帝陛下の寵姫とこっそり話しているだなんて知られれば、翌日には私の一族はみな首を刎ねられてしまいますからね。皇帝陛下はそれをしかねないほど貴方に執着なさっているんですよ」
彼の話は誇張ではないのだろう。自分の妻を……それもこの大国の妃をそう簡単に処刑するなどという無茶を押し通したヴァルデシウスが、たかが三等市民の処刑をためらうとは思えない。ヴァルデシウスの情念なんてアーテにとっては迷惑でしかないが。
「ただでさえ危ない橋を渡っているのですから、情報漏洩の危険は少しでも下げたいのです。私のことは、どうぞお好きなようにお呼びください」
「じゃあロンメロの人って呼びますよ」
「ええ、それでも構いません」
こっちのことは一方的に知っているくせに。秘密主義にいい気はしないが、彼が言いたいこともわかる。
(だってエミュ様やメグリムさんを盾にして皇帝におどされたら、わたしはきっとこの人の名前を言っちゃいます。言ったらこの人に迷惑がかかるってわかってても。だったら最初から知らないほうが、わたしとしても気が楽です)
アーテは小さく唇を噛む。決意をすぐに台無しにしてくる皇帝ヴァルデシウスも、されるがままの弱い自分も嫌いだ。
「で、その危ない橋を渡ってまでロンメロさんは何がしたいんですか? まさかわたしにロンメロの実を食べさせたかっただけじゃないですよね?」
ロンメロの人はまた笑った。案外笑い上戸なのかもしれない。
「皇帝陛下の最愛の寵姫様に覚えをよくしてもらうためのお裾分け、ということにしていただいても構いませんよ? 貴方の機嫌を取りたい廷臣達から贈られた有象無象の贈り物の一つです。食べ物でしたら後腐れがないですし、故郷で馴染みの味なら外れはないと思いまして」
「確かに食べ物は粗末にできないから、美味しくいただきますよ。ロンメロの実は嬉しかったです。でも、知らない人から高そうな物をもらってもあんまり嬉しくないですね」
「ははっ、そうおっしゃらずに。貴方の歓心を買おうと躍起になってくれる者達がいるおかげで、私もこうして話紙を紛れ込ませられましたんですから」
話紙というのはきっとこのカードの名前なのだろう。メグリムやモニータがこんなものを使っているのは見たことがないから、もしかしたら貴重なものかもしれない。少なくとも賎民には手の届かない代物の可能性が高い。
「おっと。申し訳ありませんが、これからちょっとした用事がありまして。あまり長話ができないのです。最後に二つだけ、大事なことを貴方に伝えますから、夕方……そうですね、十六時頃にこちらから連絡しますので、詳しい話はその時にさせていただきたいのですが」
「わかりました。一人で待ってればいいんですか? このカードのこと、他の人に知られるとだめなんですよね?」
「ええ。カードが小さく動き出すので、話す用意が整っていればそのまま触れていてください。白い煙が出れば会話ができるようになりますから。話せる状況にない時は、無視してくださって結構です。その場合は貴方の都合のいい時に、先ほどのように火にかざしてください」
「はい」
「それでは一つ目の大事なことです。ロンメロの実と一緒にお渡しした組み紐をほどいてみてください」
言われた通り、アーテは組み紐を分解してみた。すると紐の隙間に薄い紙切れのようなものがいくつも収まっているのがわかる。どうやらこの組み紐は、紙切れを挟んでから結わえたものらしい。
「これはなんですか? 紙みたいなものがたくさん混じってますけど」
「風の氏族の薬師の女性が調合した、特製の秘薬です。私にハフリトのことを教えてくれたのも彼女でしてね」
ロンメロの人の声がほんのわずかに弾む。彼はその女性に対して好意的な感情を持っているようだ。東側の国の生まれのトツヒトながら、ハフリトへの差別意識は強くないらしい。メグリムのように個人を見てくれているからなのか、それとも聖ドラクレイユ帝国という特殊な環境のせいなのだろうか。
「皇帝陛下の御子を絶対に宿したくないと思うのなら、あの方と褥を共にした後……そうですね、遅くとも一日以内にそれを一枚口に含みなさい。舌の上に乗せていれば勝手に溶けていくはずです」
「!」
「エルファース人とドラクレイユ人では妊娠の可能性は限りなく低いですが、それでも起きる時は起きてしまいます。その最悪の事態を防ぐ手段はあったほうがいい」
アーテは少し迷ったが、おずおずとその薬を口に入れた。
ロンメロの人の話はすべて嘘で本当は毒薬かもしれないが、どうせドラクレイユ人の息のかかった者達が用意した食材を毎日食べている身だ。毒を盛られることを警戒するなら、この薬以外にも危険なものはたくさんある。今さらだろう。
それに何より、ヴァルデシウスとの子供なんて絶対に身ごもりたくなかった。エミュのように心を失ってしまえば、ロカと会えた時に「おかえり」の一言さえも言えなくなってしまうのだから。
(わたしは弱いし、汚れちゃったけど……それでもロカに会えた時、ちゃんとロカの目をまっすぐ見たいから。ロカに嫌われちゃうなんて思いたくないですけど、ロカの優しさを言い訳にしたくないし……)
ずっと考えないようにしていた不安がどろりとこぼれだす。結婚の約束をしておきながら皇帝の寵姫になっていた自分を、果たしてロカは受け入れてくれるのか。
穢らわしい淫売だと、蔑んだ目で見るロカの姿は想像できない。三白眼の彼の目つきは普段からじとっとしているが、それは生来のものでロカに悪意があるわけではなかった。
でも、だからこそ。ロカの険しい視線がアーテの知らない嫌悪と軽蔑の色に染まった時、とても耐えきれそうにない。
優しい彼ならそんな黒い感情も飲み込んで、表立ってはアーテを責めずに受け入れてくれるのかもしれないが、その優しさを今のうちから期待してずるずると皇帝の言いなりに甘んじるのは絶対に違う。
(わたしは、弱いままでいたくない。だから多分、皇帝の目を盗んでまでわたしに話しかけてきたロンメロの人に、期待してるんです。そこまでしてくれるこの人と話していれば、わたし自身を変えられるようなきっかけが掴めるんじゃないかって)
エルファース人を自称する、三等市民のトツヒトの男性。しかもハフリトのことをよく知っていて、奴隷ではないのに話もちゃんと通じる。メグリムともエミュとも違う境遇のロンメロの人からなら、何か新しい学びを得られるような気がした。
そんな彼の話を信じて薬を飲むのは、一種の賭けであると同時に通過儀礼でもあったのだ。危険を冒してまで接触したロンメロの人に、アーテの覚悟を示すための儀式。ロンメロの人は、そこまで考えていないのかも知れないが。
ロンメロの人の言った通り、薬はすぐに溶けて消えていった。変な味がわずかに残ったが、痺れや痛みなどは特に感じない。
「二つ目の大事なこととして、貴方にある質問をします。じっくり考えてください。答えは後ほど聞かせていただければ結構です。ただ、答えるまでもなく二度と私と話したくないと思ったなら、このカードは破って捨てて、すべて忘れることです。その場合は私からはもう貴方に連絡いたしませんので、ご安心を」
「はい。それで、あなたは一体何を訊きたいんです?」
「──新たな皇后に、なってみる気はないですか?」
次の瞬間、煙は跡形もなく消えていく。ロンメロの人との会話はまるで白昼夢のようで、一人残されたアーテは呆然と虚空を見つめるしかなかった。




