第二話 日常の終わり
「……」
「もう、アーテったら。ロカ君がいなくて寂しいのはわかるけど、ちょっと気が抜けすぎじゃない? お昼ごはん、ちっとも進んでないじゃない」
「……」
「だめだなぁ。俺達の声なんて聞こえてないみたいだぞ、お母さん」
ロカの加わったキャラバンが里を出てから二週間が経った。一日が一年に感じられるぐらい長い。初めてのキスの甘い記憶にひたるには十分な体感速度だったが、周囲から見ればそういうわけにもいかなかった。始終ぼーっとしていると思えば突然にまにまと思い出し笑いをして、かと思えば急に奇声を上げて転げ回るのだから生温かい眼差しが集まるのは当然のことと言えるだろう。
「そろそろキャラバンが最初のセキトク鳥を飛ばした頃合いじゃないか? アーテ、お昼を食べたら神殿の止まり木を見に行ってきたらどうだ」
「セキトク鳥……!」
ようやく自分の世界から帰ってきたアーテは勢い良く立ち上がる。昼食のきのこソテーとサラダをたまごスープで一気に流し込んで、大好きなフィーの実を掴む。甘くて皮も種も丸かじりできるこの白い果実はアーテの大好物だ。
「ごちそうさまですっ! いってきます、お父さん、お母さん!」
「もう。本当におてんばなんだから」
「急ぎすぎて転んだり、階段から落ちないようにな」
フィーの実にかじりつきながら、アーテは家を飛び出した。ツリーハウスの枝階段を跳ねるようにして飛び下り、一目散に神殿へと向かう。ここ最近のアーテの奇行の理由はすっかり筒抜けのようで、通りすがりの里の人々も動じることなくアーテを見送った。
セキトク鳥はハフリトが使う伝統的な連絡手段だ。里を離れる時に神殿が飼育するセキトク鳥を何羽か連れて行き、伝えたいメッセージがあれば内容に応じて決められた色のリボンを肢に巻く。色さえ合っていれば、リボンに直接文字を書いても構わない。
放したセキトク鳥は帰巣本能に従って、故郷の里がある神殿へと飛んでいく。セキトク鳥は一方通行で数にも限りはあるが、迅速かつ確実な伝令係だった。
「キャラバンからのセキトク鳥はまだ来てな……あれ、ちょうど何か飛んできたな。他にセキトク鳥は貸してないから、キャラバンからのもので間違いなさそうだね」
「本当ですか!」
飼育担当の神官にそう言われ、アーテは小躍りしながらセキトク鳥の到着を待つ。けれどリボンの色が視認できるぐらいの距離に来た時、じわりと焦燥がにじんできた。ほどなくしてセキトク鳥は止まり木に留まる。結ばれたリボンの色は、危険を意味する黒だった。
神官がすばやくリボンをほどく。額にじっとりと汗が浮かぶのを感じながら、アーテもそれを覗き込んだ。『イマスグニゲロ マガツトガクル』──走り書きの悪筆。普段とはまったく異なる筆跡だったが、それでもロカの書いたもののように見えた。
「たっ、大変だ! 早く里のみんなに知らせないと!」
「わたし行ってきます!」
「ありがとう! 私は近くの里にセキトク鳥を飛ばして危険を知らせておくよ!」
緊急事態だ。いちいち枝階段を使っていられない。アーテは木々の枝から枝へと俊敏に飛び移り、里中に聞こえる声で叫んだ。
「マガツトが! マガツトが来ます! 今すぐ避難の準備をしてください!」
「どうして急にマガツトが来るんだい? このネイカ大森林からマガツトの国まではうんと離れているし、間にはたくさんの国やカンナビがあるんだよ」
「近くの里からも、そういった警報は届いてないけどなぁ」
「でも、ロカ達からセキトク鳥が来たんですよ!」
近頃ふぬけていたアーテが一転して必死に叫ぶので、最初は悠長に構えていた里の人々も次第に深刻さに気づく。危機の存在を認識して恐れてはいても、『自分は大丈夫だろう』という思い込みは必ずどこかに潜んでいるものだ。そのせいで初動が遅れた人々も、顔を見合わせながら慌てて避難と迎撃の準備を始めた。緊急事態を意味する鐘の音が響く。
「戦えない者は早く避難樹洞へ! 戦える者は里を守るぞ!」
「大丈夫よ子供達。怖がらないで、みんなで一緒に逃げましょうね」
「ばあちゃん、俺が背負って連れてってやっから! おーい! 他に逃げ遅れてる奴はいねぇよな!?」
のどかな日常が跡形もなく崩れ去り、緊迫感が世界を包む。アーテも避難誘導を手伝いながら家へと戻った。両親はすでに荷物をまとめていて、心配そうな顔でアーテの帰りを待っていた。
「お父さんは門を守りに行ってくる。アーテはお母さんと一緒に、避難樹洞に行っていなさい」
「う、うん。気をつけてくださいね、お父さん」
「……行きましょう、アーテ」
アーテはどうしても手放せない大切な宝物を背負い袋に詰めた。母に手を引かれながら、アーテは何度も振り返る。弓矢で武装した父は、里の入り口のほうに走っていった。父の背中はすぐに見えなくなってしまう。
(マガツトは色々な魔法を使えます。そんな相手に、弓矢で敵うものなのでしょうか)
ハフリトの製鉄技術は、マガツトにもトツヒトにも大きく劣る。どの氏族のカンナビでも鉄鉱石がほとんど取れないからだ。武器も日用品も、石や木、あるいは動物の素材で作られていた。
けれどマガツトは違う。魔法という不可思議な力に加え、ぴかぴかの鎧で武装するのだと、実際にマガツトを見たことのある長老は言っていた。ロカもそういう話をしていた。魔法が使えないトツヒトだって、鉄でできた剣や槍を持っているのだ。アーテはマガツトを実際に目にしたことがないのでそれがどういうことなのかは正確に想像できなかったが、普段の狩猟とは勝手が大きく異なることぐらいはわかった。
(お母さんもそれをわかっているから、こんな風にわたしを急かすんじゃないですか? ううん、お母さんだけじゃない。お父さんも、戦いに行った他の男の人達も、本当は勝てないってわかってて……わたし達が逃げる時間を稼ぐために……)
アーテの頬を涙が伝う。これが未来のために生きるということなら、そのために必要な犠牲だというのなら、そんなもの嬉しくもなんともなかった。やっぱり、一緒に生きていてほしい。後を託すのではなくて、一緒に先へと向かっていってほしかった。
不意に世界が大きく揺れた。体勢が崩れ、母とアーテはその場に倒れ込む。爆ぜる音。何かが燃える臭い。生まれ育った森が壊されていく。マガツトの侵攻が始まったのだ。
「いっ、急ぎましょう、おかあ──」
慌てて立ち上がったアーテだが、違和感に気づく。母が倒れ伏したまま動かない。そばに散らばる破片は、母が背負っていた土器の鍋だったものだ。料理上手な母がいつも大事にしていた鍋なのに。
(どうしてお母さんの背中に、長い棒が生えているんですか?)
鍋を貫き壊した鋭い棒。素朴な生成りの服を染める鮮烈な赤。あの服、あんな染料で染められていただろうか。
「Yhe! Esatg hcitetö hctni! Bewiich lsqufelleh!」
「Gezz,Gezrehiunv,Omadenmurk! udningbä eigam……」
「Unu.a dseni eins noch」
茂みから見慣れない人型の何かがぞろぞろと現れた。派手な太陽と怪物の意匠がついた旗を掲げている。何かを話しているようだが、言葉の意味はわからない。聞いたことのない言語だった。
「Uean ircig,Bewiich gunj rbaus」
銀色にきらきら光ってがしゃがしゃうるさい硬そうな服。ところどころが赤黒く染まっていた。知らない服を着て知らない言葉を話す、ハフリトではない者達。彼らこそがマガツトに違いない。
(こんな一瞬で……里に侵入された……?)
彼らは頭にも何か被っている。その隙間から感じる舐めるような視線に嫌悪感を覚える余裕もない。全身が総毛立った。
これが魔法の力か。あっという間に現れて、あっという間に蹂躙していく。勝てるわけがない。生き物としての差がありすぎる。どうやって立ち向かえばいいのだろう。
「Naterw!」
歯の根を鳴らし、目に絶望を浮かべながら、それでもアーテは全速力で走ることを選んだ。ただし向かう先は避難樹洞ではない。てんででたらめな方角だ。
(自分が残される側になった時は、あんなに嫌だったのに。お父さん達もこんな気持ちで戦ったのでしょうか)
アーテは軽く振り返って追っ手の様子を確認した。大丈夫、彼らの注意は自分に向いている。このまま避難樹洞の場所さえ知られなければ──
「あ"っ……!」
突然足に激痛が走り、世界が傾く。アーテは勢いよく地面に叩きつけられた。立ち上がれない。
嫌な予感がする。アーテは必死に上体をよじり、下半身の様子を確認した。太ももに棒が突き刺さっている。母を貫いたものと同じだ。痛みで思考が塗り潰される。わめくアーテは動転したまま棒を引き抜こうとした。そうしているうちに、いつの間にかアーテはマガツト達に囲まれていた。
「Ru toheniw ed Heivs,gstäil hciRwi hcnem」
背負い袋が落ちて、背中にのしかかられる。首を襲った圧迫感。その言葉を最後に、アーテの意識は闇に飲まれた。




