第二十七話 デーネンの女主人
長い跳ね橋を渡るとまた門扉があった。その木製の扉の前で待っていた、別の兵士が大きく手を振っている。
「これで全員ですね。じゃあ、奥方様のところに案内するので、はぐれないでついてきてください。怖がらなくて大丈夫ですよ」
城門の前に立っていた兵士と年はそう変わらないようだが、彼のほうが柔和そうだ。形ばかりの武装はしているが、奴隷達に対して何の警戒も抱いていない。
(隙を見て列から離れて、荘園の様子を探ろう)
無防備なことに、先導する兵士は彼一人しかいない。最後尾のロカとマートンなら、いつでも抜け出せるだろう。
──そのつもり、だったのだが。
「これは一体どういうことなんじゃ?」
「聞いてた話と違いすぎるんだけど……」
門扉をくぐった先に広がっていたのは、予想だにしない光景だった。
よく手入れのされた畑を女達が生き生きと世話をしているそばで、子供達が楽しげに遊んでいる。
農奴にしては身なりがよく、普通の小作人……もっと言えば、豊かな村の自由農民に見えた。農作業そっちのけで遊んでいる子供達も、最初は三等市民のトツヒトかと思ったが、聞こえてくるのはハフリトの言葉だ。
荘園は、地主が所有する城館に付随する広大な土地に農奴を住まわせ、彼らを働かせて金や作物も納めさせることで成り立っている。だから、その土地の中で農奴達の生活が完結できるように作られていた。
しかしデーネンの場合は、平均水準以上に住居が整備されて環境も完璧に整えられている。劣悪な掘っ立て小屋など一つもなく、トツヒトが支配する農村には不要のはずの、旧き大いなる神々の神殿のようなものまで見えるのだ。まさに小さな箱庭の楽園だった。
ロカとマートンが、そして連れられてきた奴隷達が驚愕の表情で周囲を見回すのも無理はない。ここがあの伝え聞いていた通りの地獄なら、木陰で午睡を楽しむ老人や明るく笑い合っている子供が果たしているだろうか。
困惑する新参者達は先導の兵士に連れられて農村部を抜ける。辿り着いた二階建ての城館は質素で飾り気がなく、館の主の堅実さを表しているかのようだ。
中から悲鳴が聞こえるということはもちろんない。兵士に付き従って歩く奴隷達の足取りもいつの間にか軽くなっていて、恐怖と緊張を忘れてしまったようだった。
あっけにとられているうちに離脱のタイミングを失い、ロカ達は広間に通される。三十代半ばぐらいの、凛とした雰囲気の女性が待っていた。
(仕方ない。ここまで来たからには、城主の真意を確かめてやる)
ロカは油断なく女性を見つめる。着ているドレスはトツヒトの文化によるものだが、風神への信仰を表す紋章が刺繍されていた。彼女はトツヒトではなく風の氏族のようだ。
「お待ちしていました。デーネンにようこそ、同胞達。貴方達の中には、生まれた国や信じる神が違う方もいるでしょうが、あえてこの表現を使わせていただきます」
威厳に満ちた張りのある声が広間に響く。その堂々たる佇まいは、彼女こそがこの土地の女主人であることに疑問を抱かせない。
「何故なら我々はみな尖った耳の血族。一なる国エルファースの末裔なのですから」
(エルファース。かつてこの大陸を統べていた、大きな一つの国の名だ。もう地図のどこにも残っていない名前を、まさかこんなところで聞くなんてな)
厳かに、けれど慈悲深い眼差しで、女性は奴隷達を見回した。
「わたくしはヘラ・イード。貴方達を買った男の妻ですわ。夫が不在の間、この荘園を取り仕切っていますの」
ヘラと名乗った女性が手を叩くと、奴隷達は口々にうめき声をあげる。それと同時に、床を叩く軽やかな音が幾重にも重なって響いた。外れないはずの、鉄の耳標が落ちたのだ。
「今、貴方達を縛る契約魔法を解除しました。これで貴方達は解放奴隷、下種ではなく賤民ということになりますわ。これから相応のお金を国に納めれば三等市民になれますが……金銭的な負担が継続的にかかりますから、おすすめはしませんわね」
突然自由を与えられて歓喜の声を上げる奴隷達の喧騒にまぎれるように、ロカとマートンもさりげなく耳標を外す。二人のイヤリングは偽物なので、何の魔法もかかっていない。他の元奴隷達のように、勝手に外れて落ちるということはなかった。
「静粛に。貴方達に一つ、おうかがいしたいことがございます。……この中に、帰ることができる場所がある方はいらっしゃいますか?」
ヘラのその問いかけに、広間は水を打ったように静まり返った。
(帰りたい場所でも、帰るべき場所でもない。帰ることができる場所、ね。……正直、それがある人は少数派だろうな)
峨翳山脈は高く険しい。山を越えてドラクレイユ帝国から故郷に帰還するには、相応の体力と装備、そして時間が必要だ。
仮に故郷に辿り着けても、そこに広がるのは蹂躙されて人の消えた土地だけだろう。それでも帰りたいと願ってしまうのが人情というものだが、現実的な問題が儚い希望に水を差す。
元奴隷達は口をつぐみ、互いに顔を見合わせていた。痩せ細って弱っている彼らに、変わり果てた故郷へと臨む長い旅に耐えられる胆力があるようには思えない。彼らも理想と現実を天秤にかけて葛藤しているのだろう。
「帰ることのできる場所がないのであれば、わたくしから一つ提案をさせてくださいな。このデーネンを、新たな故郷になさいませんか?」
ヘラは優しげに目元をやわらげて元奴隷達に語りかける。厳しくも温かい母親といった言葉がよく似合う女性だった。
「デーネンで生活するためのルールは二つ。一つは、デーネンでの暮らしを口外しないこと。そしてもう一つは、ハフリトとトツヒトの垣根をなくし、同じエルファース人として手を取り合っていくことです」
(この人は、ハフリトとトツヒトの宗教分裂がなかった平和な時代を取り戻そうとでもしてるのか?)
ハフリトとトツヒトの間にある断絶は根深い。迫害の歴史は長すぎた。
しかしお互いに、マガツトほど理解不能な相手ではないはずだ。これまでロカが両親と回ってきたような、ハフリトを黙認してくれるトツヒトの街もある。この狭い共同体の中で小さな意識改革を行う程度なら、夢物語とは言い切れない。
「この二つを守っていただけるなら、デーネンは貴方達を歓迎します。物質的に豊かとは言えませんが、健康で文化的かつ安全な暮らしをお約束いたしましょう」
「あの……どうしてそこまでしていただけるのですか?」
一人の老婆がおずおずと尋ねた。するとヘラは柔らかく微笑む。
「いたずらに人を傷つける者がいるのですから、いたずらに人を助ける者がいてもいいのではありませんこと?」
*
結局、元奴隷達は全員デーネンへの移住を選んだ。解放奴隷で構成された共同体の様子を、先住者達が案内しながら教えてくれる。
ここが健全に経営されている荘園だということを確認し、ロカとマートンは輪から離れて別行動を取ることにした。アーテを探すためだ。しかし彼女の姿はどこにもなく、住民に尋ねても目撃談は一つもない。デーネンにはいないのだろうか。
日が暮れると、農村の広場のほうから賑やかな声が聞こえてくる。どうやら新しい住人達を歓迎する宴会が開かれるらしい。
「いやはや、人の噂もあてにならんものじゃな。まさかデーネンがこんな場所じゃったとは」
「驚いたけど、かえってよかったかもしれない。ここに来て正解だった」
宴会に興味はないが、ロカは賑やかなほうを目指して歩き出した。そこにヘラがいるかもしれない。
「何故じゃ? ここにお前さんの捜し人はおらんかったというのに」
マートンは不思議そうな顔でついてくる。ロカは口角を吊り上げた。
「だって、僕達には拠点と仲間が必要なんだろ?」
しばらく歩いていると、案の定ヘラが見つかった。 炊き出しを行っている婦人達に交じり、城主夫人も自ら大鍋をかき混ぜて人々に温かいポタージュを振る舞っている。
そばで手伝っている三人の子供達はヘラとどことなく顔立ちや雰囲気が似ているから、もしかしたら彼女の子供達かもしれない。十歳前後の長男と、五、六歳ぐらいの次男、それから末妹は三歳ぐらいだろうか。小さな手で一生懸命母親の真似をする幼児の姿に、人々はすっかり顔を緩ませて骨抜きになっている。
「あら? 貴方達は確か、今日ここに来た……」
「ロカです。彼はマートン。少々お時間をいただいてもよろしいですか?」
「……いいでしょう。こちらへどうぞ。ディア、ここをお願い」
「はぁい、母さん」
ロカの真剣な表情に何かを感じたのだろう。ヘラは一番年上の息子に、鍋の番と弟妹の相手を任せて持ち場を外れた。
宴会場から離れたところにある静かなベンチに着席を勧められたが、ロカはそれを辞退した。マートンとヘラにだけ座ってもらい、ヘラの前に跪く。
「人を探しています。名前はアーテ。僕と同い年の綺麗な女の子で、亜麻色の髪と山吹色の目をしています。ここ三か月ぐらいの間に、そんな子は来ませんでしたか?」
「きっと貴方の大切な人なのでしょうね。でも、ごめんなさい。夫が助けてきた人には必ず顔を合わせるようにしているけれど、アーテという子に心当たりはございませんわね」
「そうですか……」
やはりここにアーテはいないのだ。落胆に襲われそうになるが、ロカはそれを振り切った。すでに荘園内を探した後だったので、ヘラの回答は予想できたものだったからだ。
(一回失敗したぐらいでなんだ。また違う場所を探せばいいだけじゃないか)
この問いはあくまでも確認に過ぎない。わざわざヘラに声をかけた本当の目的は別にあった。
「実は僕とマートンさんは、奴隷じゃないんです」
ロカがデーネンを知った経緯をかいつまんで説明すると、ヘラは小さく驚きの表情を浮かべた。
彼女によれば、偶然近くの街でセキトク鳥を売っているのを見かけた子供達が、こっそり買ってきて飛ばしてしまったらしい。
そのセキトク鳥がメッセージリボンを運んできたというわけだ。デーネンの掟に反することではあるが、自分の無事を大切な人達に伝えたくて一縷の望みをかけた幼い子供達を強く責めることもできない。その情報を悪用するような人間にリボンの存在を知られなくてよかったと、ヘラは安堵するように呟いた。
「僕達は奴隷のふりをして密入国し、このデーネンにも忍び込みました。ドラクレイユ人に奪われた僕の大切な人、アーテを取り戻して……そして、奴らの時代を終わらせるために」
「!」
ヘラは息を呑んで目を見開く。ほんの一瞬のことではあったが、彼女の瞳の中からロカが消えた。
ヘラの視界を駆け巡ったのは遠い過去の幻影だろう。きっと彼女も、マガツトにつらい目に遭わされたことがあるに違いない。
「どうか貴女の……デーネンの力を、僕に貸してくださいませんか。この大地は元々エルファース人のものだった。ハフリトとトツヒトと名前は変わってしまったけれど、僕達がエルファース人の末裔であることは変わりません。僕達を灼き続ける偽りの太陽なんて、この大地には必要ないんだ」
ロカは真摯に訴えかける。するとヘラは憂うように目を伏せた。




