第二十五話 屈辱の契約
(ロカになら急に抱きしめられてキスされてもすごく嬉しいのに、この男が相手だと気持ち悪い。多分他のことも、ロカだったら許しちゃいます。痛いことは嫌ですけど……そもそもロカは暴力なんて振るいませんし)
ロカはアーテの嫌がることをしたことがない。歴史の話を始めると周りが見えなくなることがあるぐらいだ。
放っておかれてうんざりするけれど、嫌じゃなかった。そんなところも可愛い。好きだった。頭がよくてすかした幼馴染みの、たまに見せる子供っぽい一面だからだ。
(ロカだったら平気なのは、わたしがロカを好きだからで、この男のことは好きじゃないからです。そんな男に好きって言われても困ります)
ロカから「愛してる」と直接言われたことはないが、それでもアーテは彼が好きだし、彼に好かれていると信じている。
一方で、ヴァルデシウスの「愛してる」は信じるに値しない。彼の寵姫としてプリゼイル宮に囚われてからのすべてが、ヴァルデシウスへの信頼を大きく損なわせていた。
「第一、わたしとエミュ様に対して本気で悪いと思ってるなら、こんな風に抱きしめるなんてできないんじゃないですか? ……あなたはただ、わたしを都合よく扱ってるだけですよ」
アーテ、エミュ、それからミルパメラも。女達の人生をめちゃめちゃにしておいて、それでもなお色に溺れる恥知らずな男をアーテは睨みつけた。ヴァルデシウスは口ごもり、憂うように目を伏せる。
「……すまない、アーテリンデ」
それでも彼はアーテを離してくれない。
「本当にわたしのことが好きだって言うなら、今すぐ奴隷の契約を破棄してわたしを家に帰してください」
「それはできない。お前を失いたくないのだ。お前は余の陽光なのだから」
なおもヴァルデシウスはアーテに縋る。アーテがそれを受け入れて当然だとでも言うように。
彼は謝ってはいるが、アーテに許しを求めてはいなかった。そんなもの必要ないのだ。
「お前はもう余のものだ。誰にも渡さぬ。どこにも行かせぬ。余のそばで、余だけを照らしていればいい」
「……そうですか。じゃあやっぱり、あなたの愛はニセモノですよ」
アーテは首を大きくひねり、その反動でヴァルデシウスの顎に頭突きを食らわせる。ヴァルデシウスは驚いて、アーテを抱きしめる力が弱まった。
即座に下される罰の痛みに耐えきれず、アーテはソファに倒れ込む。ぶつけられた顎を手で押さえながら、ヴァルデシウスは情欲に目をぎらつかせてアーテを見下ろした。
「どこまでも余を拒むか。しかしその傲慢さは、余の愛を他ならぬお前自身が理解しているからではないのか? 余に愛されている自分であれば、余に殺されはしないと思っているのだろう。その気になればお前ごとき、余はいつでもひねり潰せるというのに」
空気が一気に冷たくなる。血も凍りつきそうな寒さの中で、それでもアーテの心臓は燃えていた。
「ほ……ほら、またそうやって、おどすじゃないですか……。あなたに……愛されてるから……安心してる……? ばかなこと……言わないでください……」
すっかり青紫色になった唇が吐くのは白い息だけではない。命を賭して紡ぐその言葉こそがアーテの覚悟の表れで、ヴァルデシウスが見初めてしまった輝きだった。
「そもそもわたし達には、力の差がありすぎるんですよ……。わたしがあなたに媚を売ろうが、逆らおうが……あなたの気分一つで、未来を決められるのは……変わりません……。どっちを選んでも……同じだから……せめて自分の……自分のしたいように、やってるだけで……」
同胞のために帝国に降ったエミュの覚悟は踏みにじられた。五年もの間辛酸を舐め続け、一人で敵地に囚われていた彼女が報われることはついぞない。
最後まで皇帝に従順だった結果、彼女は心さえ壊された。無力なふりをして陰ながら権力者達を操ることだってできない。従おうが逆らおうが奴隷に救いなどないというのなら、アーテは叛逆の道を選び続けていたかった。自分自身の誇りのために。
「そこまで意固地になるのなら余にも考えがある。お前の言う通り、余はお前を無理やり従わせることしかできないからな」
アーテを組み敷き、ヴァルデシウスは不敵に笑った。
「エミュリエンヌが産んだのは皇子だ。フレドラークと名を与えた。余の嫡子にふさわしい、良い魔力を持っている。順当に育てば、フレドラークを皇太子に据えることになるだろう」
「……エミュ様の最後の希望と引き換えに、わたしに何を要求する気ですか」
「違う、違う。フレドラークは余にとっても大事な世継ぎだ。話は最後まで聞け」
開き直ったヴァルデシウスは瞳に昏い欲望を宿して舌なめずりをする。
「重要なのはフレドラーク一人きり。役目を果たしたエミュリエンヌは必要ない。アレはもはや搾りかすも同然で、二人目の無垢腹は望めないのだから。すでに寵姫の位を解くよう手配をしている」
「……」
「寵姫でなくなったメスがどうなるか教えてやろう。寵姫の館から追い出されて後見を持たぬまま野垂れ死ぬか、下賜を望む臣下に下げ渡されて新たな主人の玩具になるかだ。幸運にもアレは好き者どもから人気が高いようだから、引き取り手はいるだろう。搾りかすでも慰み者ぐらいにはなれるからな」
ヴァルデシウスはアーテを煽るためにわざと下卑た言葉を使う。ヴァルデシウスの罠にまんまと引っかかったアーテは怒りでぶるぶると身体を震わせた。組み伏せられていなかったらきっと手が出ていただろう。
「あんなになったエミュ様を、これ以上苦しめる気ですか?」
「すべてはお前の選択次第だ、アーテリンデ。今だけでいい。余を愛していると言い、淫らに媚びて余を満足させてみせろ。そうすれば、エミュリエンヌはどこにも行かせない。寵姫ではなく、お前の召使いとしてこの屋敷に留めておいてやろう。アレの主人をお前に変更してやるから、誰ももうアレに手出しはできん」
だが、とヴァルデシウスは言葉を区切る。
「どうしても余に頭を下げるのが嫌だと言うのなら、希望者の中から一番劣悪な環境の男の元に下げ渡す。それとも貧民街の売春窟がいいか? すでに正気を失ったメスだ、どのように扱われても文句は言わないだろう」
「最っ低……!」
アーテがヴァルデシウスの言うことを聞いたって、約束が守られる保障はない。けれど言う通りにしなければ、ヴァルデシウスは確実にエミュを今以上の地獄に落とすだろう。
「なんとでも言え。こうでもしないと、余はお前に愛を乞うてもらえないのだ」
わななくアーテにのしかかり、ヴァルデシウスは彼女の柔らかな頬に触れた。はりぼての翅はとうに毟られている。
「どうする、アーテリンデ。余はどちらでも構わないぞ」
アーテはぎゅっと目をつむる。脳裏に思い描くのは、ここにはいない最愛の恋人の姿だ。
「…………ぁ……あ、あ…………あいし……て……ます……」
長い沈黙の後、とうとうアーテはその言葉を紡いだ。
まぶたでふさいでいても、まなじりには涙がにじむ。嘘だとわかっていてもロカへの裏切りに心が耐えきれなくて、けれどエミュを見捨てることなんてどうしてもできない。
「……すき……すき、だからぁ……。エミュ様にこれ以上、ひどいことしないで……」
「いじらしいが、まだ足りないな」
たどたどしくて悲痛なその声音に、ヴァルデシウスは嗜虐的に口元を歪める。
「さあ、余の太陽、余の光! お前が愛している男の名を呼んでみろ! 天舞う竜の王、この余の名を!」
「……ァ……ゥ……さま……。ヴァゥ……シ……」
アーテはしゃくりあげ、かすれた小さな声で男の名を繰り返し呟こうとする。
(嫌だなぁ……。こうやって、結局言うこと聞かされちゃうの……。頑張っても頑張っても、最後の最後で何かと理由をつけて逆らいきれないんだ……。本当、自分が情けない……)
寒さと屈辱で震える口は音の羅列を正しく揃えられず、憎い男の名はいつまでも完成しない。しかしそのつたなさが、男の何かを刺激していた。
「今日はそれで許そう。いずれ余の名を正しく呼べるようになればいい。……だが、余はまだ満ち足りてはいないのだ。次はどうすればいいかわかるな?」
(たすけて、ロカ──!)
流れる無垢な涙を、ヴァルデシウスは長い舌で掬い取った。




