第二十一話 皇后ミルパメラ
ヴァルデシウスはアーテを抱き上げたまま、庭園の一角にあるガゼボにやってきた。つやつやに磨かれた石のテーブルに使用人達がお茶とおやつの用意をしていて、ヴァルデシウスに気づくとさっと姿を消していく。
「念のため言っておくが、逃げようなどと考えるだけ無駄だぞ。狩猟ごっこで余を楽しませたいというならやぶさかではないが」
「……逃げませんよ」
遠くから人を貫く魔法の存在は身をもって経験済みだ。傷はすっかり癒えたが、あの時のことを思うとまた足が痛んでくる気がする。
ガゼボに着いてやっと下ろしてもらえたが、すぐさまヴァルデシウスに手を引かれて膝の上に座らされた。なんとなくそんな気はしていたが、このお茶会はアーテに同席させるつもりで用意させたらしい。
「あなたはなんで、いつもわたしをここに座らせたがるんですか。座るところならたくさんあるのに……」
アーテはかすれた声でぼやきながら、テーブルの周りをぐるりと囲うベンチを指す。膝の上に乗せられそうになった時にさんざん暴れたせいで下った罰が、アーテからこれ以上の抵抗をする気力を奪っていた。身体にまだ残っている痛みと痺れがじくじくとアーテをさいなみ、ヴァルデシウスの腕の中にすっぽり収まることを余儀なくさせる。
(こんな風に扱われてると、自分が本当に何もできない存在になったみたいに感じます。こうやってわたしをはずかしめて、また人形に戻そうっていう魂胆なんでしょう。その手には乗りませんからね)
身体はぐったりしていて力が入らないが、目だけはらんらんと輝いている。心だけでも強く持っていたかった。
「お前がふとした弾みに逃げ出さぬようにな。せっかくだ、余に寄り添うことを許そう」
だが、精一杯前のめりになって密着を避けるアーテを嘲笑うように、ヴァルデシウスはあっさりアーテを抱き寄せた。
「まったく。余にひっかき傷の一つでもつければどうなるか、理解していないわけではないだろう? それなのに何故毎回手間取らせるのだ」
「……わかってますよ。でも、やれるときにやらなきゃいけないんです」
アーテはか細い声を絞り出した。
耳標が下す罰は痛くて苦しいし、受けずに済むならそれに越したことはない。ヴァルデシウスの身勝手な振る舞いさえ我慢すれば、こんな痛い思いを何度もしなくても済む。けれどアーテには、どうしてもそれができなかった。
(だって、わたしは弱いから。この男が本気を出せば、わたしには何もできません。……だからって最初から最後まで好きにされるのは嫌なんです)
悩ましげに目を伏せたアーテに、ヴァルデシウスは一体何を思ったのだろう。彼はアーテに顔を寄せ、アーテの香りを胸いっぱいに吸い込む。悪寒がぞわぞわ走った。
(きっ、気持ち悪い……!)
涙目になったアーテは恐怖で声も出せずにぎゅっと目をつぶる。こういう風に身体が硬直してしまうから、抵抗できるうちにしておきたいのに。本当に無理だと思ったら、逆に拒絶することが難しくなってしまう。羞恥のあまり身体が熱を帯び、肌がかぁっと赤くなっていくのがわかった。
(この男、いつもいつもなんでヘンなことするんですか! ロッ、ロカにだってさせたことないのに!)
肌をかすめるヴァルデシウスの鼻先がくすぐったい。アーテが嫌がっているのを愉しんでいるのか、抑えた小さな笑い声が聞こえた。
「唇が荒れているな。また噛んだのか。次は保湿力の高い蜜蝋でも贈るとしよう」
怖くて身動きが取れないのをいいことに、彼の手がアーテの華奢な体躯をまさぐってくる。
「政務は側近に丸投げして、自分は奴隷と白昼堂々戯れるか。いいご身分じゃのう、ヴァルデシウス」
凍てついた女性の声に貫かれたように、ヴァルデシウスの手が止まった。アーテはおずおずと目を開ける。
美しい顔を怒りに歪めた女性がガゼボの外に立っていた。女性はアーテを視線だけで殺せそうなほど睨んでいる。救世主にはとても見えない。女性は多くの女官や貴婦人を引き連れていたが、彼女達もみな非難がましい目でアーテを見ていた。
「……ぁ」
あられもない恰好でヴァルデシウスにもたれかり、彼に身体を触らせながら目元を潤ませて頬を紅潮させている──今の自分が客観的にどう見えるかに気づき、アーテの目から大粒の涙が静かに零れ落ちた。
真実も、アーテがどう思っていたかもどうでもいい。目に見えた結果だけがすべてで、この状況はアーテが全部悪いのだと、憤怒に満ちた女性の形相が強く主張している。彼女の取り巻き達もそうだ。ひそひそ交わされる蔑みの声がその証明だった。
(この人……そうだ、皇后! この男の本当の奥さんです!)
夫が自分以外の女の肌に馴れ馴れしく触っている。そんな現場を目撃したら怒るのは当然だろう。第三者だって夫と浮気相手を軽蔑するに決まっていた。
これは主人の命令だから仕方なかったとか、できる限り抵抗はしたとか、そんな言い訳を考えるより前にアーテはヴァルデシウスの膝から滑り落ちるように彼から離れようとした。けれどヴァルデシウスがそれを許さない。
「危ないだろう、アーテリンデ。テーブルに頭をぶつけたらどうする」
アーテを難なく受け止めたヴァルデシウスは、幼子に言い聞かせるように優しくそう言った。それがヴァルデシウスの常の態度ではないことは、頬をぴくぴくとひくつかせる皇后ミルパメラの様子からして明らかだ。
「はっ、離してください! 奥さんの前で、こんなこと……!」
「奴隷の分際で余に指図をするな。お前が気にすることではない」
しっかりと両腕でアーテを絡めとり、ヴァルデシウスは悪戯っぽく笑う。そしてミルパメラに見せつけるかのように、アーテの唇をねっとりと奪った。もうミルパメラの顔を見られない。
「余は忙しいのだ。邪魔をするな、ミルパメラ」
「ふん。そのようじゃな」
夫婦の間をバチバチと火花が飛び散っている。けれどその中心にいるのはアーテだ。
(わたしを巻き込まないでください……)
うつむいて震えるアーテを、ミルパメラは値踏みするように見下ろす。
「ヴァルデシウス、わらわのドレスとアクセサリーを知らぬか? そのメスは分不相応な物を身につけているようじゃが、わらわから盗んだのではないかのう」
「何を言う。アーテリンデがプリゼイル宮の外に出たのは今日が初めてだぞ。お前から物など盗めるものか」
ヴァルデシウスはミルパメラの訴えを鼻で笑った。しかしミルパメラも負けていない。
「わらわのものになるはずだった品々をそのメスが身につけておるのじゃ。ならばそのメスが盗っ人と考えるのが自然じゃろう」
ミルパメラはヒールをかつかつと鳴らしてアーテ達に近づく。ヴァルデシウスの制止の声にも耳を貸さず、ミルパメラはアーテがつけていた細いチェーンのペンダントを乱暴に引っ張った。
「っ……!」
「何をする、ミルパメラ!」
チェーンがちぎれてペンダントがアーテから離れる。ペンダントトップの黒い宝石をもてあそびながら、ミルパメラはヴァルデシウスに冷ややかな目を向けた。
「そなた、最近多くの商人達を招いたそうじゃな。なんでも女に贈り物をするとか。廷臣達もそう話しておったぞ。しかしわらわは何ももらってはおらぬ」
ミルパメラはペンダントから手を離した。アーテが身につけた宝石になど価値はないとでも言うように。石畳の上に落ちたペンダントを、彼女はそのまま踏みつける。
「わらわに贈ろうとした物を、その卑しいメスがかすめ取った。そうじゃな?」
(だから、わたしじゃなくて本当の奥さんに贈るよう言ったのに……!)
アーテは内心で頭を抱えた。口を開きたいのはやまやまだが、きっと何を言ったところでミルパメラは聞く耳を持たないだろう。下種ごときが口を挟むなと蔑んだ目で言い放たれる様子がありありと浮かんだ。それぐらい、ミルパメラはアーテのことを見ていない。
「ここにお前の物など何一つない。下がれ、ミルパメラ」
ヴァルデシウスもまた凍てついた目をしていた。アーテリンデを守るように抱き寄せて凄む彼に、さすがのミルパメラもひるんだようだ。
「余はアーテリンデに贈り物をするために商人達を呼んだのだ。お前のためなどではない」
「きっ、気でも狂ったのか、ヴァルデシウス!」
「これは余の愛しいペットだぞ。皇帝の供をするにふさわしいよう飾り立てて何が悪い」
「そ、それは……。じゃが、何事にも限度があるのではないかえ?」
ミルパメラの額に脂汗が浮かんでいる。ヴァルデシウスの放つ、静かながらも禍々しい威圧感のせいだろう。間近でそれにあてられているアーテも気絶しそうだった。耐えているのはただの意地だ。
(ええと……この男は、わたしに物をくれる時に何かとうんちくを垂れてましたし……本当は奴隷にはふさわしくないような物なのは間違いなくて……うーん、やっぱりこの男がわたしに贈り物なんてしなければ、こんなことにはなってなかったんじゃ?)
たった今壊されたペンダントについても、具体的に何を言っていたかは全然思い出せない。同じ長いうんちくでも、ロカの話なら─少なくとも最初の一回目は─真面目に聞けるのに。
細かいうんちくの内容はさておくとしても、皇后ミルパメラにこそふさわしい品々だというのは間違いないだろう。だから彼女はアーテがもらった事実を認めず、ヴァルデシウスに訂正されても信じられないような顔をしているのだ。
「──余に意見するというのか?」
だが、ミルパメラの不満をヴァルデシウスはたった一言で握りつぶした。ミルパメラの顔色がどんどん悪くなっていく。それをごまかすように、ミルパメラは目をそらして顔を扇子で覆い隠した。
「売女の次はそのあばずれ。誇り高き太陽の竜の御子が、まさか地にうごめく尖り耳ごときに惑わされるとはの。……わらわは機会をくれてやった。それを無下にしたのはそなたじゃ。後悔してももう遅いぞ」
そう吐き捨てて、ミルパメラは取り巻き達を連れて去っていった。ちらちら振り返る取り巻き達は、好奇心と嘲笑が混ざった目を最後までアーテに向けている。
ヴァルデシウスに矛先が向かないのは、曲がりなりにも彼が畏怖すべき絶対的な存在だからだろう。ヴァルデシウスが悪意に晒されない分、弾かれた泥はアーテにすべてかけられた。
「アーテリンデ、チーズケーキを食べるだろう? それともまずはプディングのほうがいいか?」
それに気づいているのかいないのか、ヴァルデシウスはもうミルパメラ達のことなど忘れてしまったかのようにカトラリーに手を伸ばしている。ヴァルデシウスが用意させたお茶会より、メグリムとエミュと一緒のお茶会のほうがよっぽどアーテは好きだった。




