第一話 約束
──ほんの二か月前までは、アーテは確かに幸せだった。
「アーテ、月神様にお供えをしてきてくれる?」
「はぁい、お母さん!」
母に託された平籠には、庭で採れた野菜がどっさりだ。アーテは鼻歌を歌いながら神殿へと向かった。
すれ違う里の人達に挨拶しながら、さわやかな春の空気を全身で味わう。葉擦れの音に共鳴する鳥の鳴き声。朝露に濡れた野花を少し摘んで籠に入れてから、またすぐに歩き出す。通り過ぎた家からかすかに香る、きのこスープと焼きたてのどんぐりパンの匂い。森と共存するように暮らす月の氏族の生活のすべてをアーテは愛していた。
「おーい!」
神殿がある大樹の下で声を張り上げる。里で一番高いところにあるツリーハウスから、神官がひょっこり顔を出した。アーテに向かって大きく手を振っている。アーテも手を振り返して枝階段に飛び乗った。
文明人の世界から離れて生きる大神の氏族には独自の知恵と文化がある。月の氏族にも、自然を傷つけずに暮らすための独特の技術や習慣が根づいていた。里を形成するツリーハウスも、すべてその特別な工法で作られている。
「おはようございますっ」
「おはようアーテ。今日も元気だねぇ」
神官達に挨拶しながら、アーテは月神の像のもとに向かった。他の家からのお供えがぽつぽつと置かれている。もう少し日が高くなれば、お供えの数はもっと増えていることだろう。
「月神様、月神様。昨日はわたし達を守ってくれてありがとうございました。今日もわたし達をお守りください」
籠をその場に置いてお祈りを捧げる。いつもと同じ定型句だが、今日はもう一つ追加でお願いしたいことがあった。
「それから、ロカのばかがまた里の外に出るって言うんです。あいつが今回も無事に帰ってこれるよう、どうか月神様の力をお貸しください」
外の世界にはたくさんの危険がある。だから、特別な許可を得た一部の人間しかカンナビの外に行ってはいけない。どの氏族にも伝わる共通の掟だ。それなのにロカは許可を取ってしまっているから、好きな時に外の世界へ旅立てる。アーテを置き去りにして。
「おやじさん達と一緒に恒例の行商に行くだけなんだから、そんなに心配しなくてもいいんじゃないか? もう何回も行ってるんだし、いつもみたいにセキトク鳥も来るだろう?」
「アーテは本当にロカのことが好きねぇ」
クスクスと笑う神官達の声に、アーテは顔を真っ赤にして頭を上げた。
「べっ、別に好きじゃありませんから!」
「はいはい。そういうことにしてあげるよ」
「でも、ロカも今日の奉納に来た時、似たようなことをお願いしてたねぇ。僕がいない間もアーテが元気でいてくれますように、って」
「!」
赤い顔がもっと熱くなる。耐えきれなくなって、アーテはその場から一目散に逃げだした。
「真っ赤になって否定するところもそっくりだ。あの二人、早く結婚すればいいのに」
「なぁに、豊穣祭の頃には一緒になってるさ。二人とも今年で十六歳なんだから」
残された大人達は温かい目で笑い合う。これまで自分達が享受し続けた幸福な時間が、幼い時から見守ってきた子供達にも変わらず受け継がれていくと信じて。
神殿を飛び出したアーテは、ほてった頬を鎮めるために泉に向かった。周囲に人の姿はない。澄んだ冷たい水は邪念を清めてくれる。ばしゃばしゃと顔を洗ってやっと人心地つき、アーテはほとりに寝そべった。
(わたしがロカを好きだなんて、そんなこと……ある……!!)
やっぱりまだ冷静になれなかった。顔を覆いながら奇声を上げて転がる。柔らかい草がアーテのしなやかな四肢を撫でたが、くすぐったさを感じる余裕もなかった。
「何してるんだよ。泉に落ちるぞ」
「ロカ!?」
ばっと上体を起こす。釣竿を携えたロカがそこに立っていた。ロカはアーテの隣に座ると、彼女の長い亜麻色の髪に絡まった葉っぱを取る。何気ないそのしぐさにも心臓が破裂しそうなほど痛くなって、ロカの顔をまっすぐ見られない。
「……僕が行商について行って、またしばらく里を空けることになるから怒ってるのか?」
赤い顔でそっぽを向くアーテを見て、ロカは渋い顔で咳払いした。気まずげに視線をさまよわせ、ロカはもごもごと弁明を口にする。
「勘違いしないでほしいんだけど、僕は別にここが嫌いだとかトツヒトの世界で暮らしたいとか、そういうことを思ってるわけじゃないから。ただ、外にはカンナビにないものがたくさんある。そういうものを勉強したいだけなんだ」
「それってそんなに大事なことですか? ここでみんなと一緒に暮らすより?」
「大事。僕達ハフリトが平和に暮らしていくためには、もっとトツヒトのこと……それからマガツトのことも知らないと」
そう言うロカの目に迷いはもうなかった。こうなったロカは何を言っても聞く耳を持たないと、アーテは経験則で知っている。幼馴染みとしてずっと一緒に過ごしていた時間は伊達ではない。
「たとえ今がよかったとしても、未来がどうなるかわからない。悪い未来が来ないようにするには、今から働きかけるしかないんだ。それは人任せにしていいことじゃない。自分にできることを、一人一人が積み重ねていかないと」
「ロカにできることが、外の世界の勉強?」
ロカは昔からそうだ。里で唯一トツヒトの街にも赴く行商人の家系で育った彼は、トツヒトの言葉と数字の読み書きができるし、トツヒト流の計算法や暦の読み方も知っている。単位の換算だってお手の物だ。そんな彼の知的好奇心はトツヒトだけにとどまらず、マガツトにも向いていた。
この里で一番賢くて、外の世界についても詳しいのはきっとロカだ。里に伝わるハフリトの書物を読み漁るだけでは飽きたらず、トツヒトやマガツトのこともたくさん勉強して彼らの言葉すら喋れるのだから。アーテのその意見には、里の大人達も賛同していた。
「何も向こうの全部を取り入れて真似をするわけじゃない。言葉がわかれば対話ができるし、文化がわかればそれを尊重できるだろ。外の世界について学ぶのは、ハフリトがどう生きてるかを伝えて、理解してもらうために必要なことなんだ」
遠い昔、この大陸にはとても大きな国が一つしかなかった。そこに住む人間はみな同じ宗教を崇め、同じ言葉を話していた。
けれどある時、新しい宗教が生まれた。新しい宗教は人々の心を掴み、多くの人間が改宗してしまった。改宗者達によって国は細かく分裂して独立し、他国と差をつけようとしたのか競うように新しい文化が生まれ、言語が派生していき、特色が生まれていった。
こうして、たった一つの大きな国は崩壊した。かつて大きな国だったものは、その国土を分割して生まれたいくつもの国々と、改宗しなかった者達が暮らし続ける狭間の土地に変わった。
大陸をすっかり掌握した新しい神に対して、いつまでも旧い神々に固執する人々が住まう土地は、国家として認められなかった。
旧い宗教を守り続ける者は誇りを持って自らのことを“神に仕える民”、領土を“神のおわす地”と呼び続けた。
だが、そうでない者……トツヒト達はハフリトのことを“国なし”と呼び、カンナビもとい“灰色の棄て地”を不当に占拠する邪教の徒だと言って差別していた。新しい宗教に乗り換えたトツヒトにとっては、自分達こそが正統派だったからだ。
──そんな大陸の情勢図は、二百年前のマガツト侵攻で一新される。
ハフリトともトツヒトとも違う神を崇め、知らない言葉を話す者達。
別の大陸から遠征してきたその異民族は、彼らにだけ使える魔法という不思議な力でもってたちまちこの大陸の覇権を握った。彼らは峨翳山脈の東側にあった国々から領土を奪い、自分達の帝国を作ってしまったのだ。
この世でもっとも高貴な存在だと自称する彼らを、ハフリト達は恐れと敵意を込めて災いの民と呼んだ。彼らは先住民であるハフリトとトツヒトを虐殺し、略奪し、蹂躙し、支配したからだ。
東側のトツヒトの国々が和平条約を結んで仮初の安寧を得ようとする中、国家と認められていないハフリトにはその逃げ道も与えられない。元々東側は特にハフリトの弾圧が苛烈な地域だったので、東側で暮らしていたハフリトは少なかったが、その少数のハフリトもついに東側のカンナビを棄てて西側に逃げ延びた。
西側のトツヒトの国々の多くはマガツトに対して静観や敵対を選んだが、東側に倣って迎合する国もあった。そういう国は自国が搾取の対象にならないように、他国やハフリトをマガツトへの贄にすることで彼らの機嫌を取っていた。だから、西側も決して安全だというわけではない。
(これ以上マガツトに怯えないで、トツヒトとも仲良くなれたなら、きっと他の人達も喜びますよね)
トツヒト、そしてマガツトに滅ぼされたせいで、かつては十六あったハフリトの氏族はいまや月と砂と風の三つしか残っていない。
今も時折、マガツトは山を越えて西側の国々に攻め入っているという。アーテ達が暮らすカンナビはまだ無事だが、別のカンナビは何度も襲撃を受けているとか。この里もいつ標的にされるかわからなかった。
「たとえば里の入り口に急にトツヒトやマガツトがやってきても、言葉が通じればそいつが敵なのか、それともただの迷子なのかわかるだろ。突然意味のわからない行動を取られても、それが向こうなりの挨拶だと知ってれば怖くない」
日頃の暗くて無気力ささえ感じさせるような態度とは打って変わって、ロカはきらきらした目で語る。
「向こうにとっても同じだ。ハフリト側は友好的に接してるってことを、トツヒトやマガツトに知ってもらえば誤解は生まれないし、対立も深まらないんだよ。これが平和のための第一歩なのさ」
壮大な夢を追って美しい理想を信じるロカの世界に、果たして自分はいるのだろうか。それを不安に思うことは何度もあった。今だってそうだ。けれどアーテは、大きな目標を掲げて真剣にそれを目指すロカのことが好きだった。
「今を生きる人間は、未来をよりよくするために精一杯考えなきゃいけない。少なくとも、僕はそういう風に生きていきたいんだ」
「言いたいことはわかりました。でもロカ、未来のことばかり考えて今をおろそかにするのはよくないですよ。たとえ未来がよくなったって、そこにロカがいなかったら意味がないじゃないですか」
そう言いながら、アーテは首にかけていた巾着袋のペンダントを取った。巾着袋の中には、七年前の星流しの翌日に庭で拾った星魂花の種と綿毛が入っている。星流しの後、もしも自分の家がある木の周囲に綿毛が落ちていたら、それは遠くに旅立つのではなく若い子孫を傍で見守ることにした先祖の意思によるものだと言われていた。だから拾ってお守りにするのだ。
「これ、わたしのおじいちゃんとおばあちゃんの魂です。ロカが里の外にいる間、わたしの代わりにロカのことを見張っててもらいますから。これで無茶なことはできませんよ!」
ペンダントをロカの首にかける。ロカは戸惑いながらもそれを受け入れた。
「そんな大事なもの、僕が預かってていいのか?」
「ロカだからいいんです。ロカだから」
「そっか。アーテ、ありがとう」
巾着袋に手を添えて、ロカは柔らかく微笑んだ。夕焼け空を思わせる美しい赤の瞳はとても優しい。その輝きに照らされて、アーテの心も温まる。普段は無愛想なのに、たまにこういう顔をするからロカは卑怯だ。
「もし友好的なマガツトに会えたら、魔法をもっと平和なことに使ってもらえるよう頼んでみるよ。たとえば、この花を魔法で咲かせてもらうとか。で、他のマガツトに星流しを見せるんだ」
「早速無茶なことをしようとしてません?」
「しないって。僕は別に無駄死にしたいわけじゃない。過去を学んで世界を知って、未来につなげるために生きるんだよ」
アーテはじとっとした目でロカを睨みつける。けれどすぐに噴き出した。
「いってらっしゃい、ロカ」
「いってきます、アーテ。……二か月後の豊穣祭までには帰ってくる予定だから。帰ってきたら言いたいことがあるんだ。だから、その、それまで待っててくれないか」
「今じゃだめなんですか?」
「言ったらもう行けなくなる。そうなるぐらいだったら、絶対帰らないといけない理由にしたほうがいい」
「ふぅん?」
一体ロカは何を言いたいのか。期待に胸が高まる。アーテはにやけそうになるのを必死にこらえたが、その表情が逆にロカを挑発してしまったらしい。「あー!」と唸って朽葉色の髪を掻きむしるロカは耳まで真っ赤になっていた。
「悪いけど、お守りのお返しに渡せるような物が何もない。だから目、閉じて」
「こうですか」
素直に従う。その瞬間、ぐいっと抱き寄せられて唇に何か柔らかいものが触れた。首筋に添えられているのは、きっとロカの細くてしなやかな手だ。
(勉強ばっかりのひ弱なヤツだと思っていましたが……こっ、こんなの反則です……!)
少し触れ合っただけなのに、男女の力と体格の差を思い知らされる。すっかりたじたじになって蕩けそうになりながら、アーテはロカに身をゆだねた。
「これ、証拠。先に預けておくから」
羞恥心に打ち勝って、ロカはアーテをまっすぐ見つめた。
ハフリトの貞操観念は厳しい。恋愛対象とのキスなんて、結婚を誓った恋人か、あるいは永遠を添い遂げる夫婦でなければやってはいけないことだ。この行為が意味することを理解して、アーテは夕焼けよりも真っ赤な顔で何度も頷いた。




