第十六話 執務室の問答
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(何故だ……? 何故、あのメスの言葉が頭から離れない?)
皇帝の執務室で、ヴァルデシウスは頭を抱えて唸っていた。傍に控える秘書官達が緊張した面持ちで彼を見守っている。
優秀な政務官達がいるため政務に滞りはなかったが、これまで寵姫に入れあげていた皇帝が皇宮に戻ってきたとなれば宮廷にはいい意味でも悪い意味でも緊張が走るものだ。
この一か月間は最低限で切り上げていた、議会や会食、謁見といった予定がヴァルデシウスを襲う。けれどヴァルデシウスがプリゼイル宮に赴かないのは、忙しさだけが理由ではなかった。
──この国では、これを愛と呼ぶんですか? まるで動物の発情期みたい。これじゃどっちがけだものかわかりませんね。
──わたしはあなたを愛してませんし、あなたに愛されることも望んでません。
二番目の寵姫アーテリンデ。戯れで迎えたじゃじゃ馬は、やっとおとなしくなったと思った瞬間またヴァルデシウスを蹴り上げた。
調教が意味を成さない駄馬なら早々に殺してしまえばいいものを、毛並みのよさからためらってしまう。実に扱いにくいが、だからこそ飼い馴らした時の歓びはひとしおだ。だからヴァルデシウスは彼女の無礼を許し、根気よく付き合ってやることにした。
(一体どうすればあのメスを飼い馴らすことができる? 生意気な口をふさぎ、快楽で蕩けさせるだけでは足りないのか?)
何故劣等民族たる尖り耳の、それも下種ごときにここまで悩まされなければいけないのか。けれどこの未知の不快感は、これまで何もかもを思い通りに動かしてきたヴァルデシウスにまったく新しい高揚をもたらしていた。
偉大なるドラクレイユを獣と呼ぶなんて間違っていたとわからせたい。寵姫になれるということがどれほど幸せなことなのかを知らしめたい。どうすればアーテリンデはヴァルデシウスに膝をつき、愛を認めてむせび泣くのか。考えるだけで心が躍る。問題は、解決策が一向に思い浮かばないことだが。
「おい。余の問いに答えろ、お前達」
「はっ! いかがされましたか、皇帝陛下」
ヴァルデシウスは秘書官達を睨んだ。秘書官達は背筋をさらに伸ばす。
「メ……いや、女に愛を伝える時、お前達はどうする?」
言い直したのは、まさか尖り耳の扱いに悩んでいるなんてドラクレイユ人の臣下に知られたくなかったからだ。
「やはり贈り物でしょう。南海に面した国からの献上品に、素晴らしい真珠がございましたよ。皇后陛下によくお似合いかと」
「ドレスも併せて贈られたらいかがです? 帝室御用達の仕立屋達に、最高級のドレスを作らせましょう」
秘書官達は安堵の表情を浮かべた。ヴァルデシウスの目論見通り、秘書官達は『女』を皇后ミルパメラと誤解したらしい。
自分の不在のせいでミルパメラが荒れていることはヴァルデシウスも知っている。ヴァルデシウスがミルパメラの機嫌を取ってくれるなら、ピリピリしていた宮廷に平和が戻ると秘書官達は思ったのだろう。残念ながら、ヴァルデシウスにその気はないが。
「なるほど。贈り物か」
確かに、それはいい考えかもしれない。一番目の寵姫エミュリエンヌも、何かねだっていたような気がする。適当に返事をしていたのでよく覚えていないし、特別何かをあげた記憶もないが。
ヴァルデシウスはエミュリエンヌのことを、自分の命のためならなんでもする下品で淫らな恥知らずだと思っていた。何かと理由をつけていたようだが、自分から帝国に身を売ったという事実に変わりはない。従順なぶん使い勝手はいいが、面白みのない女だ。まさかミルパメラを差し置いて、尖り耳のエミュリエンヌが自分の第一子を孕むことになるとは、さすがのヴァルデシウスも予想していなかったが。
(僻地暮らしでは見たこともないような素晴らしい物を贈れば、アーテリンデも驚いて帝国の威光を知るだろう。余の偉大さを理解させて、あの女を服従させてやる)
ヴァルデシウスは早速秘書官に帝室御用達の商人や職人達を呼ぶよう命じた。秘書官は揉み手をして応じる。アーテリンデへの贈り物は近日中に用意できそうだ。
「失礼いたします、皇帝陛下。次回の議会で議題に上がります移民政策案についての内奏にまいりました」
だが、すぐに仕事を切り上げて商人達の到着を待つわけにはいかなかった。執務室に分厚い内奏書を手にした法務長官ノイシンが現れたせいだ。
(仕方ない。しばらく付き合ってやるか)
決して日焼けをしない清らかな純白の肌と陽光を受け止める美しき漆黒の髪を持つドラクレイユ人ばかりの執務室の中で、ノイシンの象牙色の肌と藁色の髪が悪目立ちしている。
三等市民、すなわち非ドラクレイユ人でありながらノイシンが三十も半ばの若さにして法務長官の地位に上り詰めたのは、そのたぐいまれなる才覚と政治手腕のおかげだが、父帝の代から仕えているこの高級官僚をヴァルデシウスはどうにも好きになれないでいた。
それはきっと、やれその行動は帝室規範で禁じられているとか、やれその政策案をそのまま通せば帝国法第何条に抵触するとか、どうでもいいような細かいことにぐちぐちとうるさいからだ。
そして何より、口を裂くようににたりと笑う笑い方と、蛇を思わせる冷酷そうな三白眼のせいだった。眼鏡に隔てられたノイシンの双眸は意地悪く光り、常に注意深く周囲を見渡していた。まるで他人の弱みや欠点を見逃すまいとでも言うように。
事実、この男は三等市民でありながら下種の奴隷の中でも特に弱々しそうなモノを次から次へと買い漁っては自身の荘園に捕らえていたぶっているともっぱらの噂だ。
ドラクレイユ人であればその行為自体は珍しいものでもないが、身分が異なるとはいえ同族を好き好んで飼い馴らそうとする三等市民はあまりいない。尖り耳の中でも“国なし”とかいう一部の下種の奴隷に嫌悪を示す者ならいるが、だからこそわざわざ奴隷として手元に置こうとはしなかった。
三等市民が奴隷を持つとすれば、賤民の奴隷を安上がりな使用人として雇うのがせいぜいだ。そんな三等市民の基準では、確かにノイシンの行為は異質と言えた。
それに、彼が買う奴隷は老若男女を問わないという。三等市民の良識から逸脱した行動を繰り返す男が気味悪がられるのも無理はない。もっとも、その苛烈さこそがドラクレイユ人中心の社会に馴染めた一番の理由だろうが。
「陛下? 私の顔に何か?」
「……いや。なんでもない。内奏書には目を通しておく」
下がっていい、と言いかけたヴァルデシウスだったが、その口をはたとつぐむ。
(そういえばこの男の妻は、父上の元寵姫だったな。アーテリンデと同じ立場のメスだ。こんな男が愛のなんたるかを知っているとは思えないが、訊くだけ訊いてみるか)
五年前に病で早逝した父帝には十人以上の寵姫がいた。
魔力のある無垢腹を産んで狂い死んだ者、飽きられて捨てられた者、主人の死によってどこかに下げ渡された者と先代の寵姫達の末路は様々だ。まだ皇帝が存命の折、みじめにも彼に愛想を尽かされた寵姫を拾った男の一人がノイシンだった。
有力者の娘と結婚することでこれ以上ノイシンが力をつけることを嫌がった勢力の策謀、そして頭角を現す若き天才に少しでも瑕疵をつけたい勢力の嫌がらせ。
彼らのお膳立てにノイシンがあえて乗ったことで成立した婚姻は、彼らの不満を解消するためのものであると同時にノイシン自身の昏い悦びを満たすためのものなのだろう。下手に良家の令嬢を娶れば粗雑に扱うことはできなくなるが、尖り耳の中でも最下層のメスが相手であればどんな振る舞いも許されるのだから。
そのメスは幸運にも皇帝の子を孕めたようだが、子供は魔力を持たない尖り耳として産まれたので母親と一緒にノイシンに引き取られている。父帝の認知を受けなかったその子供が皇族として扱われることはないし、ヴァルデシウスもソレを異母弟と思ったことはなかった。
子供の行く末に対する興味もない。たとえ赤子が残虐な養父の玩具としてすでに消費されていようとも、それを裁く法はなかった。仮に高貴な血が流れていようとも、その血を認められなかった奴隷の子は奴隷になるさだめだからだ。
確かノイシンが結婚したのは十年ほど前のことで、それ以降再婚の話も出ていないということは、彼も彼でそのメスを妻の座に据えることをよしとしているのだろう。たとえ彼の荘園に幽閉されている妻がとうに死んでいたとしても、気づく者はいない。
「ノイシン。女に愛を伝える時、お前ならば何をする?」
「私にそれをお尋ねに?」
ノイシンは訝しげに尋ね返した。自分が陰でどう言われているかきちんと把握しているのだろう。秘書官達も「お言葉ですが、この男では参考にならないかと……」と控えめに耳打ちをしてくる。ヴァルデシウスだって嗜虐趣味を持つ変人の愛情表現など知りたくもない。本当に尋ねたいのはそこではなかった。
「お前の妻は、“国なし”とやらだろう? そのメスは何をすると喜ぶのか、お前は知っているか?」
秘書官達の困惑が嘲笑に変わった。もちろんヴァルデシウスに対してではない。法務長官として宮廷で華々しく活躍しておきながら、家畜を妻にさせられたノイシンに向けられたものだ。
世渡りの上手いこの男を敵と呼ぶ相手は少ないが、それでも台頭する非ドラクレイユ人を快く思わない者は多い。同じ数だけ彼の味方がいるので表立った争いをしていないだけだ。
ノイシンの変態的な嗜好と、表舞台に一切出てこない下賤な妻は、彼を貶める恰好のタネだった。話の途中で偶然やってきたノイシンを、ヴァルデシウスが嫌味を飛ばしてからかったのだろうと秘書官達は思ったに違いない。
急に話題を振られて、しかもその問いには答えられない。押しつけられた飾りの妻のことなどわからないのだから。しかし尋ねたのが皇帝ヴァルデシウスである以上、ノイシンは答えなければならないのだ。
「お言葉ですが、皇帝陛下。女性と一口に申されましても、一人として同じ女性はおりません。私と妻のことをお伝えするのは構いませんが、それでは陛下がお望みになるような結果はもたらせないかと」
だが、ノイシンは秘書官達の期待をあっさりと裏切った。涼しげな顔で質問の意図を読み取り、平然とそう言ってのける。
(まさかこの男、余が贈り物を渡す真の相手がアーテリンデだということまで見抜いてはいないだろうな?)
ヴァルデシウスは秀眉を不愉快げにひそめる。ノイシンは不気味な笑みを浮かべた。
「ですので、一般論からお答えさせていただきます。……可憐な花をこよなく愛する女性もいれば、絢爛な宝石に目がない女性もいます。ある少女は美しく着飾り外見を磨くことに余念がないですが、別の少女は知識を蓄えて知性を磨くことにしか興味がありません。他にも生き物、美食、芸術、あるいは武術など、何を好むかは人によって様々です」
「……」
「きらびやかなドレスを欲しがる娘に分厚い本を贈っても歓心は買えませんし、甘いケーキを食べたがる娘に大きな宝石を与えてなんになりましょう。趣味嗜好に優劣がないからこそ、押しつけるのではなく相手が本当に喜ぶ物を見極めなければ。陛下が愛するお方であれば、部外者である我々よりもよほど陛下のほうがその方にお詳しいのでは?」
そう言われてヴァルデシウスは気づいた──アーテリンデの好きなものなど、自分は何一つとして知らない。
(だが、それがどうしたというのだ? 余がわざわざ心を砕いてやったのであれば、泣いて喜ぶのが道理だろう? 何を贈るか頭を悩ませてやっただけで十分ではないか)
ヴァルデシウスの苛立ちを感じ取れないノイシンではないだろう。それでも彼はニタニタと笑いながら続ける。
「しかしそれでも一つだけ、すべての女性に受け取っていただけるものがございます。それが誠意です」
「誠意?」
「ええ。気遣いでも言葉でも、形はなんでも構いません。そこに真実が宿ってさえいれば──贈る側の自己満足でさえなければ、示した想いは理解していただけるものだと愚考する次第でございます」
蛇のように冷たく無機質な目がヴァルデシウスをじっと見つめている。まるで心の内を見透かされているかのようで居心地が悪い。
「お許しください。私としたことが、少々出しゃばりすぎました。私の仕事は政治を法に照らして糺すこと。法に関する内奏であればいくらでもいたしますが、男女の心の機微など私ごときが申し上げていい事柄ではございませんでしたね」
そう言ってノイシンは慇懃に一礼した。面倒になったヴァルデシウスは顔をしかめ、彼を手で追い払う。
(まあ、いい時間潰しにはなったか。秘書官達とは違って、大して役にも立たない助言だったが)
ヴァルデシウスはおもむろに立ち上がった。帝室御用達の商人達が拝謁を求めてくるのを別室で待つためだ。
自分が奴隷ごときにわざわざ贈り物をしてやること自体がすでに誠意なのだと、彼は信じて疑っていない。
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