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花散る夜に、偽りの愛にさよならを  作者: ほねのあるくらげ
第一章

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第十二話 宵闇を告げる一番星

 酒瓶が割れる音と、酔っ払い達のわめき声。甘い声で誘う売春婦の安い香水の匂い。どこか危うげな喧噪であふれる夜の街を、フードを目深に被った旅人が騎獣と共に通り過ぎようとしていた。


「そこの坊主。そんなに急いでどこに行くのかね」

「……」


 街門のそばの路地裏に座り込む物乞いの老人が声をかける。老人の顔にはいくつもの傷痕があった。

 旅の少年はフードの下のすさんだ赤い瞳を彼に向けると、革袋から取り出した硬貨を一枚指で弾いた。そのまま立ち去ろうとする少年を、老人は慌てて呼び止める。


「待て、待て。この辺りは夜盗が出る。近くに安い宿があるから、今晩はそこで休んでいくといい。街の外に出るのは日が出てからにしなさい」

「忠告どうも。悪いけど、僕には休んでる暇なんてないんだ。一日でも早く峨翳がえい山脈を越えないと……」


 ロカは早口でぶつぶつと呟く。里の人々を埋葬した後、ロカはネイカ大森林から旅立った。木の根をかじって雨水をすすり、一か月歩き通しでなんとかこの街まで来たが、マガツトの国の入口とも言える峨翳山脈までの旅路はまだ三分の二も残っている。とはいえ、道中で採った川魚や薬草を売って貯めたなけなしの金でやっと騎獣を買えたので、あともう一か月あればきっと山脈に辿り着くはずだ。


「若いくせに生き急ぐとろくなことにならん。盗賊に襲われれば、その荷物も騎獣も失うぞ。むろんお前さん自身の命もな」

「……それは困るな」


 買ったばかりの騎獣の背を撫でる。騎獣は小さく鳴いた。騎獣にくくりつけた積荷は山越えのための装備だけではない。里で拾い集めたアーテの宝物もだ。一つとして欠けずにアーテに返さないといけないのだから、盗賊ごときに奪われるわけにはいかない。


「お前さん、ハフリトじゃろう。生まれは月の氏族かの。カンナビを出て何をしている?」


 老人が急にハフリトの言葉を使ったので、ロカは驚いて目を丸くした。この国はハフリトへの差別意識が強く、周囲にカンナビもない。だから、まさかハフリトがいると思わなかったのだ。


「なんで気づいた?」

「年寄りを侮るでない。それぐらいはわかるとも。こう見えて、儂は風の氏族の神官でな。儂はマートン。お前さんは?」

「……月の氏族のロカ。生まれはネイカ大森林」

「ネイカ? そういえばネイカは、一か月前に……。いやはや、あの森からよくここまで来たものじゃ。長い道のりじゃったろうに」

「神官がどうしてトツヒトの街に? 貴方も故郷を失ったのか?」

「ああ。儂が帰る里はもうない。同胞を求めて別のカンナビに行ったとて、そこに儂の幸せはないのじゃ。そもそも生き直す資格があるのかどうか。だったらいっそ、地獄にい続けるべきかと思ってな」


 そこでロカは、マートンと名乗った老人の右目が白く濁っていることに気づいた。だらりと垂れさがった左腕の服の袖も妙にへこんでいる。そこにあるべき腕がないのだ。


「お前さん、峨翳山脈を目指していると言ったな。儂の知る限り、あの山を越えて生きて戻ってきたハフリトはたった一人しかおらん。悪いことは言わん、旅はここで終わりにしておけ。あの山の向こうに、儂らの神はおらんのじゃ」

「それは貴方の主観の話だろ。貴方が観測できた範囲だけが世界じゃない。第一僕は、神様に会うために旅をしてるわけじゃないから。神様がいようがいまいが関係ないんだよ」


 ぶっきらぼうに言い返し、ロカは進む道を変えた。夜目が利くので夜道は問題ないが、この辺りを根城にする盗賊に襲われるのは面倒だ。暗闇に乗じて相手を撒こうにも、旅人のロカと違って向こうには土地勘がある。残念なことに、地元の荒くれどもと正面から渡り合うだけの武力は持ち合わせていない。


 マートンの忠告通り安宿で休み、朝告げ鳥が鳴くと同時に出発する。街門のそばで野ざらしになっているボロ布が目に留まった。

 ……違う。人だ。ロカが布の塊だと思ったのはマートンだった。夜中のうちに、ハフリト嫌いの酔っぱらいかごろつきにでも絡まれたのだろう。

 門の両脇に立つ門兵は素知らぬ顔をしている。きっとマートンがハフリトだと、彼らは知っているのだろう。ロカは舌打ちをしてマートンに近づいた。


 ひどい怪我をしている。老体に酷なことをするものだ。味わった苦渋の数だけ深いしわの刻まれた顔はすっかり青白くなり、まぶたも固く閉ざされていた。だが、まだ息はあるようだ。

 ロカは騎獣から降りて、荷物の中から応急箱を取り出した。ネイカ大森林に自生しているよく効く薬草と清潔な布で患部の手当てをしていると、マートンがゆっくりと目を開けた。


「……おお、昨日の坊主か」


 マートンは手当てをされていることに気づいたらしい。震えながら小さく息を吐く。


「お前さんの旅路はまだ長いじゃろう。儂のような老いぼれのために貴重な物資を使うものではないぞ。儂に構わず行くといい。……どうかこのまま死なせてくれ。儂はもう、長く生きすぎたのじゃ」

「僕の物をどう使うかは僕が決めるし、貴方の願いを聞き届ける筋合いもない」


 老人のうわごとを軽くあしらい、ロカは手際よく治療を済ませた。幸い見た目ほど重傷ではなさそうだが、マートンの年齢を考えると手当てもせずに放置していれば命にかかわっていただろう。

 幼い時から無鉄砲でおてんばなアーテのそばにいたので、ロカは傷の手当てに慣れている。医学書もたくさん読んだ。アーテが木から落ちようが、鋭い枝に柔肌を引っかけようが、傷痕一つ残さず完治できたのはロカの知識と森の薬草の効能あってのものだ。


「僕には大切な人がいる。山を越えるのはあいつに会うためなんだ。……目の前で死にそうになってる人がいたら、あいつは絶対に素通りなんてしない」


 突き放したような物言いだけでは明らかに納得していない様子のマートンに、そっけなく付け足す。マートンを見殺しにしなかった本当の理由は、どんな時でもアーテに恥じない自分でありたかったからだ。


(怪我人を放置して行ったって、アーテは喜んでくれない。それどころかすごく怒るに決まってる。そういう奴なんだ、あいつは。……そういうところが好きなんだけど)


 会いたい。早くアーテの無事を確かめて、いつもと変わらない朗らかな笑顔が見たかった。あのきらきら輝く純粋な眼差しが、花の蜜を凝縮したような山吹色の瞳が恋しい。

 けれど自分は、彼女に対して大きな間違いを犯していた。ありえもしない馬鹿げた理想を自信満々に語り、現実を知って主張を変えた。そのせいで、アーテに失望されてしまうかもしれない。だからこれ以上、アーテに幻滅されるようなことをするわけにはいかない。


「じゃあ、僕は行くから。……僕みたいな若造が言うのもなんだけど、生き方、見つめ直したほうがいいんじゃない? 命に長いも短いもないんだから」

「……待て。お前さんも、地獄を見たんじゃな。そういう目をしとる。どこまでも昏い、されど覚悟を決めた者の目じゃ」


 ロカのマントの裾にしがみつき、マートンはふらふらと立ち上がった。


「じゃが、悲劇が自分の専売特許と思うなよ。儂も若い頃、妻と子供達を山の向こうに奪われてな。血気にはやって取り返しに行った。その末路がこれじゃ」


 不自由な身体を抱えながら一人でみじめに路地裏にうずくまっていた老人は自嘲気味に笑う。山の向こう……マガツトの国で、彼の決意をへし折る何かがあったのだろう。


「儂は無様に失敗した。みじめに捕まって、大切なものを助けるどころか目の前で喪ったんじゃ。儂はお前さんよりもずっと世界を知っとるし、永遠に悲劇に囚われておる。お前さんまでこの苦しみを味わう必要はない」

「まさか、僕にアーテを諦めろって言ってるのか? さらわれたアーテを見捨てて、切り替えて生きろって? ふざけるな、そっちのほうがよっぽど苦しいんだよ!」


 アーテが苦しんでいるかもしれないのに、自分だけのうのうと生きるなんてできない。思わず声を荒げる。門兵の迷惑そうな視線に気づき、ロカは奥歯を噛みしめた。もしここでハフリトへの私刑に発展してしまえばそれこそ時間の無駄だ。朝まで待った意味もない。


「生きてさえいれば何度でも立ち上がれる。たとえ何年かかっても僕は絶対に諦めない。できなかったならそこから学ぶ。すべての過去は未来の礎になれるんだ──だから、貴方の挑戦も無駄にしない」


 マートンは、悲願を果たせなかった未来の自分だ。アーテを取り戻すことができずに心がぽっきり折れた時、きっと自分はこうなるのだろう。それをわかっているからこそ、ロカはまっすぐに老人を見つめた。


「貴方がこれまで味わってきた悲劇が、ただ自分を苦しめるだけの無価値なものだったなんて最悪すぎるじゃないか。だから、僕がそれに意味を見出してやる。二度と失敗なんて言葉で片付けられないように。貴方が最初に道をひらいてくれたからここまで辿り着くことができたんだって言ってやるよ。勝手に礎にしたんだから、それぐらいの責任は果たすさ」

「……」

「僕はマガツトに奪われたものを取り返す。だけどマガツトがいる限り、同じ悲劇がどこかで必ず起きるだろう。だからそうならないように、太陽を沈めて竜を討つ」


 未来への希望と自信にあふれた力強いその宣言に、濁っていたマートンの目に光が灯る。


「そうか。そこまで言うのであれば、お前さんが築く未来を儂にも見せてくれ。マガツトの鼻を明かすことができれば、儂の家族も浮かばれるじゃろう」


 おごった若者の大口だと一笑に付すことはたやすい。けれどその強さは、過ぎ去った己の夢をもう一度奮い立たせるのに十分だった。


「一人で世界は変えられんが、変革の一歩となるうねりを先導することはできる。仮にお前さん一代では届かずとも、その輝きをしるべにして次の世代が歩き出せるなら十分じゃ」


 そう言いながら、マートンはロカの騎獣に触れた。ロカは呆れがちにため息をつく。


「まさかついてくる気? そんなボロボロの身体で?」

「生かされた恩は返さんとなぁ。なに、頭のほうはまだ冴えとるよ。ほんの三年前まで儂はマガツトの国……聖ドラクレイユ帝国におった。かれこれ三十年もな。儂こそ山を越えてなお生きて戻ってきた唯一のハフリトじゃ、案内人として十分だと思うがのう」

「……わかったよ。ただし、必要以上の配慮はしないから。僕は急いでるんだ」


 すでに挫折を味わった者と、これから世界に挑む者。二人を乗せても騎獣は問題なく駆け出す。大陸を横断する険しい山脈に向かう小さな行軍が始まった。

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