第十一話 理想に背を向けて
頭上から地響きが轟くたびに、土壁からぱらぱらと砂が落ちてくる。
どれだけここにいただろう。何日も経ったような気がするし、ほんの数十分の間の出来事だったかもしれない。
やっと何も聞こえなくなって、ロカは慎重に外に出ることにした。
地上から立ち昇るいくつもの黒煙が、昼下がりの空の青さを濁らせている。けれどうららかな春の日差しは憎らしいほど変わっていない。
「ひどすぎる……」
空から降り注いだ攻撃魔法によって街並みは破壊され、あちこちに略奪の跡がうかがえた。
自分達以外の文明を認めず、一切の躊躇なく蹂躙できる。そんなマガツトの傲慢さが凝縮したその光景に、ロカはただ呆然とするしかなかった。
ロカ達の荷車もその対象になっている。売上金どころか売れ残っていた商品まで何もない。輓獣すら消えていた。今にも殺されるか拉致されるかの瀬戸際に立たされている状況でトツヒトが盗むとは思えないから、これもマガツトの仕業だろう。
建物の残骸に力なくもたれる者、誰かの名前を呼びながら必死で瓦礫の山をかきわける者……マガツトの襲撃からかろうじて生き延びた人々は、みな一様に絶望を浮かべている。活気はとうに失われ、少し前までは確かにそこにあったはずの平穏な日常は跡形もなく崩れ去っていた。
「……父さん……母さん……」
それでも人々はわずかな希望に縋り、どこかに残されているかもしれない幸福の欠片を探し続ける。ロカもその中の一人だ。
けれど、現実は非情だった。
征服の証かのように立てられたマガツトの国の国旗。まばゆく輝く太陽に向かって吠える竜が、屍の山の頂ではためいている。ロカの両親も、傲慢な竜が戯れに築いた塚の一部に成り果てていた。
それからどうやって街を出たのかよく覚えていない。気づいた時にはロカの里があるカンナビ、ネイカ大森林にいた。
輓獣を奪われて荷車も壊されてしまったし、唯一持っているのが手つかずのまま残っていた木彫り細工の売上金だけだったから、ここまで歩いてきたことだけはわかる。あの首都からネイカ大森林までまっすぐ徒歩で向かうと六日ほどかかるはずだが、その間の記憶がすっぽり抜けていた。
ロカは眠ることも食べることも忘れてふらふらの状態で深い森の中をさまよう。木々は見るも無残に焼き払われ、動物達も姿を見せない。聞こえるのは悲しげな葉擦れの音と、腐肉を求める肉食虫の羽音だけだ。
どの里もすっかり荒らされていて、ほんのわずかな生き残りが肩を寄せ合って震えている。マガツトが残した爪痕はあまりにも大きかった。
それは、ロカが生まれ育った西ノ三ノ里も例外ではない。最期まで戦い抜いた勇敢な戦士達の亡骸が、弔いもされずに転がっている。その中にはアーテの父親もいた。この里に、彼らを埋葬できる者はもういないのだ。
「アーテ……どこ行ったんだよ、アーテぇ……!」
森と暮らしの匂いは腐臭に上書きされ、あちこちに血と煤がこびりついていた。
避難樹洞の入り口は乱暴に壊され、血の跡が大量に残っている。抵抗した者は見せしめに殺されて、抵抗できなかった者は奴隷として連れていかれたのだろう。苦しみもがいた末のような体勢で転がる真っ黒に焦げた亡骸は、マガツトの非道さの証明のように思えた。
アーテを探している途中、あられもない格好で倒れている妊婦の亡骸を見つけた。近所に住んでいた、去年結婚したばかりの女性だ。びりびりに裂かれた服の残骸がまとわりついている。傷み始めていてわかりづらいが、恐怖で歪んだ彼女の顔には涙の痕があった。
(本で読んだことがある。どうしてマガツトが、ハフリトやトツヒトを奴隷として集めるのか)
誇張された風説だと思っていた。「古代の邪教の徒であるハフリトは人間を食べる」とか、「祭りのたびに生贄を捧げる儀式を執り行っている」とか、トツヒトが勝手に吹聴しているそんな偏見と同じようなものなのだと。
けれど違う。目の前に広がる地獄を見て、その噂は真実に違いないともう一人の自分が訴える。だってこんなひどいことができる奴らが同じ人間だと思えなかったし、そんな連中ならどんなけだものじみた欲求を持っていたとしてもおかしくないのだから。
(マガツトは体内で、魔法を使うための力……魔力を生み出してる。僕達とは身体のつくりからして違うんだ。魔力がマガツトの思考に影響を与えるせいで、マガツトの女は弱い相手をいたぶりたがって、男は自分の魔力をそのまま受け継いだ子孫を作りたがるっていう衝動に、定期的に駆られるらしい)
それが、体内に渦巻く膨大な力とうまく付き合うために必要なことだという。
マガツトの女は、乱れた情緒を安定させて心身の健康を保つために。彼女達はストレスで昂ると、暴力的な手段で感情を発散させたくて仕方なくなってしまうそうだ。
マガツトの男は、自分の魔力を後世につなげることで強い男であることを証明するために。優れた魔力を持つ同族同士で交わることでより良い魔力を持つ子供を生むことが社会的には求められるが、それはそれとして魔力を持たない母胎を使って自分の分身を作ることも当たり前のこととみなされている、とかなんとか。
そんなマガツトの本能的な欲求をぶつけるのにちょうどいいのが、魔力を持たないハフリトとトツヒトだ。だから奴隷としてマガツトに囚われる。昨日まで一生懸命生きていた人々が欲望のはけ口として消費され、指先一つで生死すら決められる。ただ弱いからという理由だけで。そんな世界は絶対におかしい。
森の小道で息絶えていたアーテの母親を見つけてしまった後、ロカは茂みの向こうにぽつんと残された背負い袋と、その周囲に散らばる小物に気づいた。まるで誰かが乱暴に袋をひっくり返して中を漁ったかのようだ。
大事に使い込まれた裁縫箱に、綺麗な鳥の羽で作ったしおり。ふわふわの耳長獣のぬいぐるみ。それから月神の聖典。どれも見覚えがある。アーテが大切にしていた宝物だ。
「……ここまで逃げてきたんだな、アーテ」
その一つ一つを丁寧に拾い上げては土をぬぐい、背負い袋の中に戻していく。
そのさなか、ロカはふとその動きを止めた。視線の先にあるリマリスアの花の髪留めは、ロカがアーテの誕生日に贈ったものだ。
両手のひらの上にマジェステを乗せ、ロカはその場に膝をついて慟哭した。抑えていた怒りと悲しみがとうとう決壊し、大きな感情の渦が空に向かって猛り狂う。
アーテの綺麗なあの長い亜麻色の髪にふさわしくあれるよう、丹精込めて作った最高傑作。モチーフにリマリスアを選んだのは、それがアーテの好きな花だからだが、実はもう一つ理由がある。リマリスアは、ロカから見たアーテそのものだったからだ。人を惹きつける、可憐で愛らしい大輪の花。花茎をまっすぐ伸ばして咲く気高い姿も、彼女が持つ芯の強さと重なって見えた。
持っている技術のすべてをつぎ込んだプレゼントをアーテは気に入ってくれた。アーテの喜ぶ顔を一目見ただけで、何日も徹夜したかいがあったというものだ。それが今、こうしてぽつんと残されている。
「僕が生きて帰れても、そこにお前がいてくれなきゃ何の意味もないじゃないか……!」
もし行商についていかずに里に残っていたら、彼女を守れたかもしれないのに。
弱いくせに何ができる。結局理由をつけて逃げ出していたんじゃないのか。英雄願望に溺れて無駄死にできればいいほうだ。どのみち間抜けな末路だが。
嗤う声が響く。賢しい自分と皮肉屋の自分が頭の中で睨み合っていた──けれどお互い一つだけ、同意できることがある。
「……アーテ。僕が間違ってたよ──マガツトと和解するのは無理なんだ」
平和を愛し、理想を謳っていた少年は、青い夢を手放して敗北を認める。
(そういえば昔、アーテは僕の赤い目を夕焼けみたいで綺麗だって言ってくれたっけ)
ロカは静かに目を閉じた。幸せだった日々がぶわりと広がる。けれどもう、あの頃には戻れない。失ったものが多すぎるからだ。
だが、まだ取り返せるものがある。たった一つだけ、残された希望が。
「朝と夜は交互にやってくるものだ。太陽が永遠に昇り続けて、世界の支配者面をしてるなんておかしいよな」
最愛の少女の亡骸はどこにも見当たらない──だからまだ、アーテは生きているはずだ。
「待っててくれ、アーテ──僕が必ず太陽を沈めて、安息の夜を連れてくるから」




