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花散る夜に、偽りの愛にさよならを  作者: ほねのあるくらげ
第一章

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第九話 めざめ

 翌日からヴァルデシウスは毎晩のようにアーテの元に通いつめた。日ごとに早く来るようになり、それに応じて滞在時間も長くなる。ヴァルデシウスがアーテに入れ込んでいるのは明白だった。


 この様子では近いうちに一日中プリゼイル宮で過ごすことになるだろうと廷臣達は囁いているが、それについては誰も問題視はしていない。それがドラクレイユ人の男の本能・・だからだ。気に入った相手さえいれば誰しもそうなる・・・・可能性を秘めているし、満足すれば自然と離れる。そういうものだ。

 それに、ヴァルデシウスがここまで夢中になる相手などこれまで誰もいなかった。やっと気に入った奴隷が見つかって悦に入っている皇帝の逆鱗に触れたくないというのが宮廷人達の本音だ。皇帝を肉欲に溺れさせる寵姫の存在に不快感を覚えるのは、皇后ミルパメラ一人だけだった。


 ヴァルデシウスがアーテのもとに通うほど、アーテの目からは光が消えていく。もう彼女はベッドと浴室を往復することしかできなくなっていた。

 本当はその短い移動ですら億劫だったのだが、汚された身体を洗うのをモニータに頼みたくなかったのだ。かといって、そのまま眠り続けていればヴァルデシウスに何をされるか。それも気持ち悪かったし、怖かった。


 モニータは部屋を掃除をする時も寝具を交換する時も文句ばかりで、わざわざ大きな声で嫌味を聞かせてくる。ヴァルデシウスの渡りさえなければ、きっとアーテの部屋を綺麗にしようとはならないのだろう。

 言葉の刃でアーテを容赦なく切りつける彼女と顔を合わせないように、浴室に逃げているようなものだ。ただでさえ精神がすり減っているのに、これ以上煩わしいことを増やしたくなかった。


 見かねたエミュとメグリムが食事やらなにやらの世話を焼きに来るが、二人の訪問もアーテは拒絶した。どんな顔で会えばいいのかわからなかったからだ。

 どれほど優しい言葉をかけられようと心をさいなまれる気がしたし、万が一「その程度のことは我慢しなさい」だとか「もっと苦しんでいる人は他にも大勢いるの」だとか言われようものなら心が砕けてもう自分ではなくなってしまうような気がした。



「皇帝陛下。あんな小娘より、わたくしのほうがあなたさまをご満足させてさしあげられます。ですからどうか、今宵からはこのわたくしにお慈悲をいただけませんこと?」

「黙れ。奴隷の分際で余に指図するな。図々しいにもほどがある。余の寵愛を失うと思って焦っているのか?」


 エミュがヴァルデシウスに縋りつく。アーテが部屋で臥せっている間、プリゼイル宮の玄関ホールでは毎日のようにこんなやり取りが行われていた。


「ならば安心しろ、お前のことなど最初から愛してもいない。五年前のあの時に献上された奴隷の中でお前が一番毛並みがよくて従順だったから、仕方なく選んだだけだ」


 ヴァルデシウスは取りつく島もない。エミュを邪魔そうに押しのけて、さっさとアーテの部屋に行こうとした。それでもエミュは必死に食い下がる。


「で、ですが陛下は、わたくしが無垢腹の御子を宿すまではわたくし以外の寵姫をお選びにならなかったではありませんか」

「気に入った奴隷がいなかったからに決まっている。……まさかお前は、自分が特別だとでも思っていたのか? とんだ面の皮の厚さだな。昔のお前はもっと謙虚だったぞ? 命惜しさに浅ましく振る舞って。犬でももう少し恥じらいがあるぐらいだ。従順すぎるのも考えものだと呆れたな、あれは」


 嘲笑われて、エミュの頬が羞恥で赤く染まる。自分を犠牲にしておとなしく従っていればハフリトを助けてくれると約束してくれたのはこの男だ。だからエミュは、どれだけ屈辱的な見世物扱いを受けても耐えてきた。そのせいで裸体はもう二度と他人の目に晒せないほど無様に変わり果てたが、それなら美しいドレスで覆い隠せばいい。人の命が失われることに比べればなんてことなかった。


 五年前にエミュの故郷が襲われた時、戦士達は万全の備えをもって襲撃者達を迎え撃った。砂の氏族は戦士の部族。特に族長が住んでいたその里には精鋭達が揃っていた。

 魔法を使う隙を与えない奇襲を中心にした激しい抵抗によって、防衛は成功したかに思えた。けれど結局押し切られ、エミュは一計を案じた。自分の身柄と引き換えに、カンナビの人々を見逃してもらおうと思ったのだ。氏族の姫である自分にはそれだけの価値があると、エミュは信じていた。


 エミュは家族の反対を無視して襲撃者のリーダーに取り入り、交渉を無事に成功させた。自分なりの戦い方で勝利をもぎ取ったエミュの次の戦場が、聖ドラクレイユ帝国だ。

 そこでもエミュは皇帝に媚びを売り、自身の尊厳と引き換えに同族の安寧を勝ち取った。エミュはそう思っているし、そうでなければいけない。だってもし違っているのであれば、恥辱にまみれたこの五年のすべてが無駄になる。


「無垢腹を宿したお前にもう用はない。せいぜい良い魔力の子供が生まれるよう祈るんだな」

「お待ちになってくださいまし、皇帝陛下!」


 もうエミュの声は届かない。ヴァルデシウスはとうとうアーテのいる二階に行ってしまう。取り残されたエミュは顔を覆った。


(なんてこと……)


 おそらくヴァルデシウスは、かつてのエミュよりアーテのほうを気に入っているのだろう。夜伽の相手をするのはヴァルデシウスだけだったのはエミュもそうだったが、それ以外の行為を求められて下劣な催しの場に見世物として貸し出されたことは数えきれない。顔を広げるいい機会だと自分に言い聞かせて臨んできたあの地獄に、連れてこられてまだ日が浅いとはいえアーテは呼ばれていないのだ。女奴隷でありながら、彼女は皇帝の手元でと言っていい。

 けれどその代わり、エミュが五年かけてゆっくり受け止めてきたヴァルデシウスの欲望を、アーテは一気に流し込まれている。それはどれほど暴力的な濁流なのだろう。あの華奢な少女なんてたやすくし潰されて、跡形もなく壊されてしまうのではないだろうか。


「アーテ……あなたを守ってあげられなくてごめんなさい……」


 結婚を約束した恋人がいると言っていた、不憫な女の子に思いを馳せる。氏族は違えど同じハフリトなのだから、彼女もまた自分が守るべき存在だった。けれど何もしてあげられない。それが苦しくてさめざめと泣くエミュを、物陰からメグリムが痛ましげに見ていた。


*


 一か月が経つ頃には、廷臣達の予想通りヴァルデシウスはプリゼイル宮に入り浸り、一日中アーテをなぶるようになった。

 ヴァルデシウスは政務のほとんどを廷臣に任せきりにしたので、アーテの安息の時間はなくなった。全力で抵抗するたびに契約の魔法によって激痛ばつを与えられ、昼夜を問わず尊厳を踏みにじられる。少女は、もはや空っぽの人形も同然だった。


「あまり食事を摂っていないな。ほら、ここに座れ。余が手ずから食べさせてやろう。嬉しいだろう?」

「……ぃぁ……れ……ぅ」

「余の命令が聞けないというのか?」


 ヴァルデシウスは足を大きく広げ、アーテを無理やり自分の膝の間に座らせる。押しつけられた熱が気持ち悪くて、淀んだ目から涙が滴り落ちた。

 アーテは必死で顔をそむけたが、顎を掴まれて骨ばった指で強引に口をこじ開けられる。どろりとしたミルクリゾットを掬ったスプーンを突っ込まれる行為にも嫌悪感しか湧かない。吐きそうになるが、むせるたびに同じことを繰り返される。


(わたし……なにしてるんでしたっけ……。なんで……)


 時間の感覚があいまいだった。いつからここにいるのかよく思い出せず、そもそもここがどこなのかもわからない。


 ここにはいないけれど、大切な人がいた気がする。顔も名前もおぼろげで、手を伸ばすと消えてしまう。まるで水面に映る月のようだ。


 月。ここしばらく、雲に遮られてずっとその姿を見ていない。

 そういえば、月が好きだったような。どうして? 空の上で冷たく輝くだけなのに。その手の届かない美しさに焦がれていたんだっけ。それも正しい気がするが、別の理由があった気もする。


「アーテリンデ。お前の喉はまだ枯れていないはずだ。さあ、もっとお前のく声を余に聞かせてくれ」


 何かが喉を撫でた。悲鳴と嗚咽と、思いつく限りのつたない罵倒……それから、自分のものだと思いたくないぐらい最悪な嬌声。それを聞きたがる、気色の悪い変態の手。逃れようと顔を背けるが、構わず首を強い力で掴まれる。思わず苦悶の吐息が漏れた。


「フフッ、やはりまだ歌えるようだな」


 息が苦しい。けれどそれに比例して、徐々に頭がすっきりしてくる。ぼやけた世界がはっきりくっきり見えてくる。死の恐怖が、感覚を鋭敏に研ぎ澄ませているのだ。


「まさかこの余が、尖り耳ごときに溺れることになるとは」


 ヴァルデシウスがアーテの耳を甘くむ。舌がじっとりと耳を這うたび背筋が震えた。

 けれど生物としての自己防衛本能が、この怖気おぞけを強制的に快楽に変換していく。だってそうでなければ、襲い来る恐怖と憎悪に殺されてしまうのだから。


 アーテは今、強大な力でねじ伏せられている。彼に従わなければ生命がおびやかされるに違いない。

 ああ、そうだ。どうせ泡沫うたかたのような記憶ゆめしか残っていないのだから、もう紛い物の快楽に溺れてしまってもいいのではないだろうか。このおそろしいほど美しい男に身をゆだねてしまったほうが、いっそ楽に──


「愛しているぞ、アーテリンデ。お前は実に面白く、そして恐ろしいメスだ」

「あい……?」


 愛。その単語が虚ろな瞳に火を灯す。

 雲間からやっと顔を出した月の光が窓から差し込み、少女の折れた心を、踏みにじられていた矜持をもう一度照らし出した。


「……この国では、これを愛と呼ぶんですか……?」


 アーテは大きく息を吸い、背後の男に向けて頭突きをする。それはヴァルデシウスの無駄に高い鼻に直撃し、彼は驚いて手を離した。

 アーテにも罰の痛みが返ってくるが、割れそうなほど強く奥歯を噛み締めながらこぶしを握る。悲鳴の代わりに指の隙間から血が滴り落ちた。


「ア、アーテリンデ?」


 忘れたくないことがあった。自分には愛している人がいる。自分を愛してくれる人がいる。そうだ。夢でも幻でもなく、確かにそんな記憶おもいでがある。


「まるで、動物の……発情期……みたい……。これじゃ……どっちがけだものか、わかりませんね……」


 ──だからアーテは、屈しない。


「何が『天舞う太陽の御子』ですか……。人をたくさん殺したり攫ったりするしかできない、ただの蛮族の……首長おうさまのくせに……」


 思い出せ。愛する人の顔を、声を、匂いを、ぬくもりを。


(ロカ……! そうだ、わたしの大切な、大好きな人! ロカ! わたしはロカのことが、ずっと……!)


 身体がどれだけ穢されようと、心だけはもう二度と明け渡さない。背後にいる男の顔を、アーテは強く睨みつけた。


「わたしはあなたを愛してませんし、あなたに愛されることも望んでません」


 はっきりと、ゆっくりと。自我を取り戻したアーテは明確な拒絶の言葉を放った。それを聞き、ヴァルデシウスは愉快そうに口元を歪める。


「そうか、そうか。まだそれだけ吠えられるとは。蛮勇もここまでくれば見上げたものだな」


 ヴァルデシウスの闇のように黒い目は情念に染まっている。けれど少女が反抗を表明した瞬間、濁った欲望以外の小さな想いがそこに芽生えたことに、アーテはもちろん彼自身でさえ気づかない。

次話から四話、ロカ視点の話が続きます

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