どうかご武運を
凱嵐が広間を去って幾らも経たないうちに、事は起こった。
巨大な妖気が豊楽殿を包み込み、ビリビリと鼓膜を揺らすような咆哮が聞こえてくる。
異常事態を前にして、広間にいる面々の動きは早かった。
凱嵐から直前に知らされていた賢孝は勿論の事、凱嵐の父である我雄を筆頭に、母の天音、姉の風呼、弟の雷震そして末弟の烈牙に至るまで、皆が手にしていた盃や料理皿をその場に置くや否や立ち上がって武器に手をかける。
我雄はそれまでのくつろいだ表情から一転して歴戦の猛者の顔つきに変えると、大股で広間を横切り襖を開け放った。そして隣に並んだ賢孝に短く問いかける。
「賢孝、凱嵐から何を聞いた」
「豊楽殿に妙なものが入って来たので、様子を見てくると。大ごとになりそうであったら、兵や剛岩のご一族と共に貴人殿に泊まっている客人たちの誘導を頼むと仰せ使っております」
「なるほど」
賢孝の見据える先では、激しい衝撃音と妖怪の声、そして火の手が上がっているのが見えた。あの場所は確か、豊楽殿の厨の方角だ。
弟の雷震が側に寄って来て、険しい顔で言った。
「あの場所に助っ人は?」
末弟の烈牙も、腰に下げた剣に手をかけながら言う。
「必要であれば、僕も向かいますが。父上、母上」
しかし天音は首を横に振るとキッパリと言う。
「必要ありません。凱嵐が一人で戦うというのであれば、我らに手出しは無用です」
「ですが……兄上一人で、これほどの妖気を纏う妖怪と戦うのは些か重荷ではないですか」
兄を心配する烈牙はまだ幼さの残る顔を歪めてなおも言い募るが、我雄ははっきりと否定をした。
「凱嵐がそういうのであれば、我らは従うまで。賢孝、貴人殿に宿泊している客人たちの元へ案内せよ」
「はっ」
「賢孝様、これは一体何事でしょうか」
大鈴を筆頭にして近くの広間に控えていた給仕番たちが慌ただしくやってきた。
「豊楽殿に妖怪が入り込んだ。今、陛下が交戦中だ。危険なので全員豊楽殿から退去するように。大鈴、使用人たちの取りまとめと避難を頼む」
「かしこまりました」
危急の折には信頼できる仲間が必要だ。
賢孝は言葉少なにこちらの意図を読み取ってくれる大鈴と剛岩の一族に心の中で感謝をしつつ、己がすべき役割を考えた。
爆音が轟く厨のあたりで、巨大な獣の爪が見えた。建物を破壊するその手がいつこちらに向かってくるかわからない。
「剛岩のご一族の皆様、私について来てくださいませ」
賢孝は貴人殿群の構造を頭の中で思い返しながら足早に進んでいく。豊楽殿の方方に配置されていた兵たちが賢孝の姿を見て戸惑ったように近づいてくるので、矢継ぎ早に指示を出した。
「全員、この場を退避。貴人殿に滞在する客人たちを正殿まで避難させよ」
「はっ」
無数の建物が存在する貴人殿群の中で、豊楽殿は北東に位置している。隣は庭を挟んでの役人殿であり、この時間帯には詰めている者はいない。豊楽殿の真隣に位置しているのは先に春来の祝宴で使用した桜雲殿であり、やはり人はいないはずだった。
(となれば最も危険なのは、豊楽殿の向かいに位置している至誠殿……!)
まずは至誠殿に泊まる客人に事情を説明、その後正殿まで移動してもらうのが先決。
「剛岩のご一族、豊楽殿向かいの至誠殿に行き、そちらで客人の退避・誘導に手を貸していただけますか」
この賢孝の指示に、我雄は頷いた。豊楽殿は現在、いつ何時崩落するかもわからない危険な状況。武芸に富み、危機に強い剛岩の一族の手を借りられるならばこれほど力強い事はない。
「お安い御用だ」
「豊楽殿の見張り兵と共に行けば、誘導は可能。私は軍部に行きこの件を蒼軍へと連絡・今後の対策を立てます」
「おう、しっかり頼むぜ」
賢孝はこの場を豊楽殿の見張りについていた兵と剛岩の一族に託し、軍部に向かうべく離れた。
賢孝を見送った剛岩の一族は、速度を緩めずに依頼された至誠殿へと向かっていく。
大変な事態ではあるが、皆、自分に任された役割を全うすべく動いていた。
凱嵐は皆が逃げる時間を稼ぐべく、己が足止めに徹し。
賢孝は事の次第を軍部に伝え、宮中の人命被害が出ないよう体制を至急構築する。
そしてたまたまとはいえ居合わせた剛岩の一族は、その秀でた武芸の力を持って兵に協力する。
皆が皆、やるべき事に全力で取り組み、この緊急事態を乗り越えようと動いていた。
軍部は天栄宮に隣接する形で存在しており、南門から出るとすぐである。
通常、皇族しか使用できない南門ではあるが、火急の折にはあてはまらない。
賢孝は天栄宮を真っ直ぐ南門まで走り抜け、軍部を目指した。
背後では妖怪の地獄の底から響くような声が轟き、建物を破壊する音が絶えず聞こえてくる。
賢孝は歯噛みをし、拳を強く握った。
妖怪討伐において、賢孝は凱嵐に絶対の信頼を置いている。
賢孝が凱嵐に出会ったあの十三歳の日、当時十歳であった凱嵐は三日三晩の死闘の末に、たった一人で四凶が一角の渾沌を倒してしまった。
圧倒的なまでの力、抜群の剣技、そして類い稀な精神力と不屈の闘志を持つ凱嵐が一度剣を握って敵に向かえば負けなしだ。
だから賢孝が為すべきは凱嵐の心配ではなく、その他の人を安全な場所まで連れていく3段をつけること。
今までずっとそうだった。
敵陣に飛び込む凱嵐を補佐するのが賢孝の役目。
天栄宮に拠点を移し、凱嵐が皇帝になってからもなんら変わらない。
任されている以上、賢孝は賢孝にしかできない仕事がある。
それでも賢孝はいつも、胸の内でこう思わずにはいられないのだった。
(陛下……どうかご武運を……!)





