解かれた封印
異変を最初に感じ取ったのは、凱嵐だった。
剛岩の家族との久々の再会にくつろいでいた凱嵐は、持ち上げていた酒盃をぴたりと止めると、広間の外に視線を向ける。そうして意識を集中させると、何やら嫌な予感が胸の内を支配した。
(なんだ? この予感は)
豊楽殿によからぬものが持ち込まれた気配がした。
盃を膳の上に置くと、凱嵐は賢孝に目配せをする。普段は次席に座る賢孝だが、本日は皇族の宴に参加している関係で末席に位置していた。にもかかわらず即座に意図を汲み取った賢孝が腰を上げ側へとやって来る。
「何事ですか」
「何やら妙なものがこの豊楽殿に入ってきた」
凱嵐が耳打ちすると、賢孝は目の色を変え、凱嵐を見た。凱嵐は静かに頷く。
「俺は様子を見てくるから、この場は任せる」
「しかし……」
「何、心配はいらぬ。万が一大ごとになりそうであったら、兵や父たちと共に貴人殿に泊まっている客人たちの誘導を頼む」
賢孝は逡巡した様子だったが、「かしこまりました」と頭を下げた。
「では行って来る」
「お気をつけて」
凱嵐は剣を手に取って広間を出、足早に進んだ。
廊下を進みながら気配のする方へと急ぐ。滲み出る禍々しい妖気は、まだほんの小さなもので、おそらく自分以外に気がついている者はいないだろう。それほどまでに微弱でか細い。
(これは封印されているな)
通称『封印の壺』と呼ばれる壺には、討伐が叶わなかった強力な妖怪が封印されている。
天栄宮の奥深くで厳重に管理されているはずのそれが一つ、この豊楽殿に持ち込まれている可能性があるという事実に凱嵐は歩く速度を早めた。
誰が、何のために封印の壺を豊楽殿に持ち込んだ?
いや、そもそも警備が厳重なはずのこの場所にどうやって入り込んだのか。
その答えは、廊下を曲がった先で自らやって来た。
柿色の着物を着た背の低い老婆が、ヨタヨタとした足取りで進んできて凱嵐にぶつかる。
今この豊楽殿にいる御膳所の人間は、調理を引き受ける紫乃と大鈴が統括する給仕番のみ。給仕番は広間近くで酒の準備に勤しんでいるはずで、厨に用があるならば大鈴に行かせるように命じてある。
ならばこの老婆は誰なのか。
凱嵐が思考する刹那、老婆は異様に爛々と輝く瞳で凱嵐を見上げる。
「はははは、は……一足遅かったようじゃのう。もう封印は解かれた……! 皆、死ぬ! 天栄宮の全ては、白元妃様の思うがままじゃ!」
「白元妃……!?」
様子のおかしい老婆に構っている暇はなかった。
刹那、先ほどまで感じていたものの百倍は強い妖気が間近から感じられる。
凱嵐は錯乱したように笑い続ける老婆を無視して廊下の先を急いだ。嫌な予感が全身を支配する。
この廊下の先にある場所は、ただ一つ。
厨に飛び込んだ凱嵐は、見た。
煙が充満する中で天井まで易々と届く巨躯、黒々とした毛並み、獰猛な赤黒い瞳を持つ妖怪を。
その妖怪の前で倒れている紫乃を。
「紫乃!」
血の気が引いていくのを感じながら、凱嵐は紫乃を抱き寄せた。額からどくどく血を流す紫乃は、まだ生きている。
妖怪は怨嗟の咆哮を上げながら、紫乃を抱いた凱嵐に肉薄した。
その巨体からは考えられない俊敏な動きを見せた妖怪は、凱嵐と紫乃を食いちぎろうと牙を剥き出しにして頭から突っ込んできた。
「!!」
凱嵐は妖怪の攻撃を鮮やかにかわし厨の出口に着地する。
戦おうにも、先に紫乃をどこかに連れていくのが先だ。そう考えていると、厨に誰かが飛び込んできた。
紫乃の使役する妖怪、猫又の花見と野弧の野菊だ。二匹は目の前の化け物を見ると、驚きの声を上げた。
「なんだコイツ!」
「大きいですのう、恐ろしいですのう……!」
「ちょうどいい、お前たち紫乃を連れてできるだけ遠くへ逃げろ。コイツは俺が引き受ける」
凱嵐は妖怪から目を離さず手短にそう告げた。
「言われなくても!」
「ですのう!」
凱嵐から紫乃を受け取った花見は、大切そうに紫乃を抱え野菊と共に厨をかけて後にする。
妖怪の地獄の底から響くような咆哮がまたしても轟き、ビリビリと鼓膜を揺らした。
凱嵐は剣を構えて舌なめずりをする。これで思う存分、戦える。
「よし、来てみろ……四凶が一角、『窮奇』」
漏れ出た微細な妖気から、それが一体何者であるのか凱嵐には見当がついていた。
天栄宮に封じられている中で最も凶悪かつ凶暴な妖怪、窮奇。
それはかつて十歳の凱嵐が三日三晩かけて倒した渾沌と同じ、四凶に数えられる大妖怪の名前である。
凱嵐の中には恐れなど微塵もなく、むしろ高揚する気持ちで窮奇へと突っ込んでいった。





