私は、
母はいつも紫乃に言っていた。
「高貴な身分の人に関わるとお前は殺される。山で誰にも見つからずひっそりと暮らせ」
つまりは紫乃が不義の子であるため、見つかれば殺されるという意味だったのだ。
先代皇帝は死に、病弱だった皇太子、つまり紫乃の実の父も死んだ。
新しい皇帝が即位し、血のつながっている唯一の人物である白元妃は身分違いの恋から生まれた紫乃を疎んでいる。
八方塞がりとはこうした状況を言うのだろうな、と紫乃は思った。
思ったと同時に、なぜか笑いが込み上げてくる。
人間どうしようもない状況に立たされると笑えてくるのか、と考える余裕すら、なぜかあった。
今、紫乃を守ってくれる存在はいない。
花見も野菊も調伏したばかりのタンタンコロリンも、雨綾に出てしまっている。
呼んでも声は聞こえないだろう。
隣に座る凱嵐は武芸に長けており、提げている剣を抜けば紫乃など容易く斬り伏せられる。
凱嵐からすれば、紫乃の存在は途方もなく邪魔なはずだ。
先代皇帝の血を引く者がいると言うのはそれだけで反乱の芽になりかねないし、生かしておいて良いことなど一つもないだろう。
「……それで、どうする」
紫乃の気持ちを知ってか知らずか、凱嵐は謎の問いかけを発してきた。
「どうする、って……」
「帝位に興味があるか?」
「いや、全然ない」
間髪入れずに紫乃は首を横に振った。
そんなもの欲しいわけがない。紫乃は政などわからないし、わかろうと思ったこともないのだ。そもそも読み書きすらも怪しい自分が、人の上に立つなど無謀にも程がある。
「私は……御料理番がいい」
ポツリとこぼれた言葉は、紫乃の本音だ。
紫乃はずっと母と暮らしていて、母の背中を見て育ってきた。
料理は亡き母から譲り受けた唯一の大切なもので、紫乃自身も料理がとても好きである。
紫乃が作る料理を「美味い」と言って食べてくれる皆の笑顔を見るのも好きだし、御膳所の人たちと協力しながらいろいろな料理を作り上げるのも好きだ。
「好き」で埋め尽くされた御料理番という仕事がとても気に入っているし、できればこれからも続けていきたい。
そんな気持ちを込めて、凱嵐を見つめると、彼もまた紫乃の思いに気がついているのか、頷いてくれた。
「今まで通りでいいと言うことか」
「今まで通りがいいです」
「ならば良い。俺も全力で、お前を守ろう」
言って凱嵐は、笑顔を浮かべた。
「いやぁ、これで『皇帝を志す』と言われたらどうしようかと思っていたところだ」
「絶対に言うはずないって、わかっていての言葉ですか」
紫乃が顔を顰めて言うと、凱嵐は真面目な顔を作る。
「わからんぞ。賢孝などは真剣に心配しておった。最悪、暗殺するかと言っていたほどだ」
「賢孝様が言うと冗談に聞こえませんね」
紫乃の脳裏に、柔和な微笑みを讃える賢孝の姿が思い浮かぶ。
あの男であれば、躊躇いなく紫乃を秘密裏に処分するだろう。やっていることが紅玉を処刑に追い込んだ白元妃と変わらない。先に和解をしておいて本当に良かった。
密かに顔を青ざめさせた紫乃の前に、手が伸ばされる。視線を辿ると、凱嵐の顔が。
「改めてよろしく頼む。遠縁とはいえ親族であり、変わらぬ俺の御料理番として」
差し出された手を、紫乃はそっと握ってみた。
「はい。よろしくお願いいたします、陛下」
大きな掌は、力強く、あたたかかった。
+++
天栄宮の深淵、奥御殿の奥に座する白元妃の前には、一つの壺が置かれていた。
鬼封殿に数多並んでいる壺と同じ形、大きさであるものの、貼られている札の数は段違いだ。
隙間なくびっしりと貼られてた封印の札は、それだけ中に収められている妖怪が強力であるという証。
愛おしそうに緑の瞳を細め、朱に塗られた爪先で、白元妃は壺をつうと撫ぜた。
「よおやった」
鬼封殿の奥深くに安置されているこの壺を、凱嵐側に知られずに盗み出すのは至難の業。
そこで白元妃たちは一計を案じた。
鬼封殿の浅い部分に置かれている壺を偽物とすり替え、該当する一覧を破り捨てる。
気がついた陰陽府の者たちが全ての壺を検分、他に異変がないのを確認したのちに一度見張りの手が緩んだ隙をついて最奥へと進入。
本命の壺を盗み出し、偽物とすり替えるという寸法だ。
凱嵐達が偽物に気がついた時にはもうすでに遅い。天栄宮の中でも白元妃の勢力が一手に集まっている奥御殿まで運んでしまえば、どうとでも隠し通せる。
「小物の妖怪騒ぎに惑わされている間に、史上最強の妖怪を封じた壺を奪われるーーあの男も随分と間抜けよのう」
鬼封殿を管轄する陰陽府には、白元妃の手の者が多数入り込んでいる。
だから、少し手を加えれば、凱嵐の目を欺いて壺を交換するなど容易い。
「利半にも礼を言わねばな」
凱嵐側を撹乱するため、協力を仰いだ男の名前を口にする。
アレは役に立つものだ。
「さて、必要なものは揃った。後は、日を待つだけじゃ」
壺に封ぜられている妖怪を解き放ち、凱嵐を、そして紫乃を討つ。
あの娘は生かしておいてはならない。
最愛の一人息子の心を誑かした、卑しい出自の女の子供。身分違いの恋の上に生まれた娘に己の血の一部が流れていると思うと、我慢がならない怒りが込み上げてくる。
皇帝として君臨する凱嵐が十年かけて築き上げてきた全てを、壊してくれよう。
真雨皇国に迫る春が寿ぐ時分。
誰も彼もが浮かれて騒ぐ季節の折に、白元妃は復讐の狼煙を上げることを固く心に誓った。





