【番外編】賢孝不健康
夜の四つ半《午後十一時》、 天栄宮の正殿群、朝議が行われる御殿の一部屋にまだ明かりが灯っている部屋があった。
そこは賢孝が天栄宮にあてがわれている一室で、執務場所として使用している場所である。
行灯に火を灯し、窓を開けて月の明かりを頼りに書き物をする賢孝の筆を持つ手に迷いはない。
静寂が室内を満たし、開けた窓から虫の声のみが聞こえてくる。
と、部屋の外に控えている護衛が声をかけてきた。
「賢孝様、給仕番の大鈴がお見えです。夜食を持ってきたと」
賢孝はその言葉に顔を上げ、少し怪訝な表情を作ったが「入れ」と声をかけた。
襖を開けて入って来たのは見慣れた顔である。
「お仕事中、お邪魔いたします」
「私は夜食を頼んだ覚えなどないが」
「紫乃様がぜひにと。最近、ずっと働き詰めでございましょう」
言って大鈴は、膳を賢孝の座る文机の近くまで持ってきた。ちらりと視線を投げかけると、深めの腕に刻んだ青菜と賽の目状の豆腐が浮いているのが見える。
「豆腐粥にございます。まだ夜は冷えるからと、紫乃様が」
「……小賢しい」
「小腹が空く頃ではございませんか?」
「私があまり食べる性質ではないと、お前も知っているでだろう」
「まぁまぁ。でも、たまには夜食を頂くのもいいと思いますよ?」
にこにこしながら丸め込もうとする大鈴に賢孝は頭痛がするのを感じる。
「全く。大鈴、お前まであの小娘に入れ込むなんて……」
「あら、紫乃様は良いお方だと思いますよ。何せ最近陛下の顔色がよくなっておりますもの」
「それは空木を捕らえて要脚府から追い出せたのと、雨綾病の原因を突き止めたからだ」
「でも雨綾病に関しては、紫乃様のお力添えがあってこそですよね?」
大鈴は相変わらず笑顔を浮かべたままに賢孝に言った。的確すぎる指摘に賢孝の頬がひくりとひきつる。
「先日の見事な推理、私は感動しました。この皇都で流行っている病の原因が白米だったとは……まさに盲点。思いつきもしませんでした。でも言われてみますと、確かに納得できます。使用人の中でも御膳所で働く面々は栄養満点の食事をしているからこの病に罹らなかったのですね」
「…………」
「お認めなさいませ、紫乃様は素晴らしいお方ですと」
「大鈴、お前は悔しくないのか」
嬉々として喋る大鈴に賢孝はそう問いかける。
「もう二十年も陛下にお仕えしている我らに何の相談もなく、妙な小娘を大切な役職に据え置いた。……私は……」
「あら、嫉妬でございますか」
「なっ」
大鈴の指摘に賢孝は目を見開く。
「図星でございましょう」
「違う!」
即座に否定をすると、大鈴はおっとり首を傾げる。賢孝は矢継ぎ早に説明をした。
「いいか、私は陛下に変な虫がつかないように目を見張っているだけだ。陛下の失脚を狙い続けていた空木を捕らえたとはいえ、まだまだ政局が落ち着いたと言えない。あの娘が刺客だったら、どうする? 或いはこれから、白元妃の一派の息がかかって寝返らないとも言い切れない。迂闊に信用するのは危険だ」
「まぁ。紫乃様はそんな方ではないと思いますよ。裏表のない、料理に対してどこまでも真っ直ぐな職人気質のお方です。伴代様もお認めになっていますし」
「そうか、お前まであの小娘に絆されたのか」
賢孝は思いっきり不快なものを見るような目つきで大鈴を睨んだが、大鈴は気にも留めない。
「賢孝様は人一倍、凱嵐様への思いがお強いですから、疑ってしまうのもわかります。でも、陛下が直々にお連れになったのですからもう少し信用してもよろしいのでは?」
「…………」
「得体の知れない人間というなら、私だってそうでしたわ。大柄で、可愛げのない、『生まれた時から大きくて男児のようにうるさく泣き喚くから大鈴』などという名前をつけられて虐げられていた私に、凱嵐様が優しく手を差し伸べてくださらなかったら、今頃はまだ盗賊の慰み者か、もしくは女郎にでもなっていたでしょう」
「お前はまだ陛下が名を上げる前から陛下に付き従っていたから、あの小娘とは別だ」
「あら、あの頃から陛下は剛岩一帯では一目置かれている存在でしたよ」
痛いところばかりをつく大鈴から、とうとう賢孝は目を背けた。
「賢孝様の凱嵐様を思うお気持ちは痛いほどわかります。けれど、凱嵐様が味方とおっしゃっているのですから、信じる事も大切だと思いますわ」
では、と言って大鈴は一礼をすると賢孝の前から去って行った。
執務を続ける気も起きず、足を崩して畳に手をついた。その拍子に大鈴が置いて行った膳に手が触れる。
それを睨みつけて、心の中で呟く。
(わかっている)
紫乃という娘に邪気がない事くらいわかっている。
しかしあまりにも急激に陛下の心の内に入っていくあの小娘の存在が、賢孝には恐ろしい。
行方不明の元影衆・黒羽と通じ、妖怪を操る、山に住んでいた小娘。
母が先先代の御料理番頭・紅玉であるという点。
賢孝は目を細め考える。
(何がどう繋がれば、このような事態が起こる?)
考えても何もわからない。頭を一つ振った賢孝は匙を掴んで一口、粥を食べてみた。
とろりとした葛湯はまだ温かく、生姜がピリリと効いていて腹の底からぽかぽかとする。 滑らかな豆腐と青菜の味が疲れた体に染み渡る。
悔しいが、美味いという感想が出てくる己にも腹立たしさが感じられた。





