紫乃、面倒ごとに巻き込まれる
少し前に遡る。紫乃は小屋中の荷物をかき集め、荷造りをしていた。
「ヨイショ……と」
「紫乃、それ全部持っていくの?」
「当然」
「無理だと思うにゃあ」
花見は白、黒、茶色の見事な三色に彩られた二股の尻尾をゆらゆらと揺らしながら心配そうに紫乃を見上げた。
紫乃の背負おうとしている荷物は、紫乃の三倍ほどの大きさに膨れ上がっている。布から飛び出しているのは、鉄鍋やお玉、俎板、包丁といった料理道具ばかりだ。
紫乃の大切なものは料理に関するものだけであり、逆に言えばそれ以外のものには執着がない。紫乃は着物も一着しか持っていないし、装飾品の類も当然持っていなかった。
「母さんの形見だから、置いていけないよ」
「だとしてもだにゃ。漬物瓶は置いておくべき」
「これが一番大切なんだけど……」
「無理がある……」
紫乃の膝丈までもある漬物瓶は、糠と漬物が詰め込まれており非常に重い。細腕の紫乃が持ち上げるのは不可能である。
「もう、心配するなら半分持ってよ」
紫乃が苦言を呈すると、花見はビー玉のように丸い目を細めて髭をピクピク動かした。
二本足で立ち上がり、その場でくるりと一回転の宙返りジャンプをする。
すると、花見の姿は三毛猫ではなく、十歳ほどの少年の姿に変化した。
緑と白の縦縞の着物に、淡い桜色の帯を締め、柔らかな茶色の髪を持つ儚げな少年である。その姿を見て紫乃は言った。
「もう少し大人に化けないと、この荷物の量は持てないよ」
「にゃ?」
「あと、耳と尻尾……残ってるよ」
「!」
そうだった!と言わんばかりに目を見開いた花見は、「人間は難しい」と呟きつつも紫乃の指定した「大人」へと化けるべくもう一度一回転宙返りをした。
「これでどうだ」
「ばっちり」
指で輪っかを作った紫乃は、早速荷物の半分を花見へ渡す。二十歳後半の男へと化けた花見は軽々と荷物を背負うと、紫乃と二人で川沿いを歩いた。
「どこへ逃げるかにゃあ」
「うーん、とにかく雨綾からは遠ざかりたい。山を抜けて光健に行って……それからどっか真雨皇国の端の街でひっそりと暮らそうか」
幸い料理の腕ならば自信があるので、どこかの茶屋か宿の厨房ででも雇ってもらえるだろう。花見がいれば道中の野盗なども怖くないし、こっそり目立たないように生きれば、きっとあの男も紫乃のことなどころりと忘れるに違いない。
「全く、厄介な事になったもんだ」
ブツブツと言いながら川縁をしばらく歩いていると、花見の耳が不意に動いた。
「紫乃、誰か来る」
「誰? あの男?」
「違う。……戦ってる」
「へ……」
紫乃が事態を把握する前に、花見が背負っていた荷物を放り捨てて軽やかに地を蹴った。
目にも止まらぬ速度で左腕を動かすと、空中で何かを掴んで着地する。
「矢……!?」
驚き目を見開く紫乃の耳に、男たちの怒声と剣がぶつかり合う音が聞こえてくる。花見が警戒しながらそちらを伺い、どうすればいいかわからない紫乃もひとまずじっと佇む。
やがて剣戟が止むと今度はガシャガシャという音と共に崖の上から男たちがこちらを見下ろして来た。武装した男たちは、兵士だ。
あ、やばい。どこかに隠れていればよかった。
そう考えても後の祭りである。
兵は紫乃と花見を指差すと、大声で怒鳴った。
「このような山間を歩いているなど、何者だ!? 名乗れ!」
「…………」
紫乃と花見は目を合わせた。阿吽の呼吸で、次の行動を示し合わせる。花見が放った荷物を背中に背負い直すと、二人で川縁を一直線に走り出した。
「待て!」
「紫乃、ひとまず岩に身を隠しながら走るにゃあ!」
「了解!」
追い縋る兵の言葉を頭上に浴びながら、なんて面倒な事に巻き込まれてしまったんだと内心であの男を呪った。
山間をひた走る、大荷物を持った普段着の紫乃と花見の二人組は、どう見ても普通の人間ではあり得ない。
そもそも猿すら住まない秘境中の秘境に若い男女がいれば、一体何事かと思うだろう。
しかもそれが、今代陛下が行方不明になった場所となれば尚更だ。
「怪我をさせても構わない、多少手荒でも捕らえろ! 空木の手下かもしれんのだ!」
空木って誰だと内心で思いつつも、紫乃は姿勢を低くして走るので精一杯だ。絶えず飛んでくる矢は、花見が全て防いでくれている。花見の俊敏な動きに兵たちは驚き、おかげさまでますます二人を警戒してくる。
もう完全に敵だと思われてしまっていた。
「花見、大丈夫!?」
「問題ないにゃあ!」
「何なんだ、あの男は……! とても人間の動きとは思えない!」
兵の焦った声がして、そりゃ人間じゃないからねと紫乃は心でツッコミを入れる。攻撃を防ぐ花見は背中にでかい荷物を背負っており、そんな状態で一矢たりとも取りこぼさずに止めているのだから驚くのも無理はないだろう。
足場の悪い河原を走る二人に追い縋る兵たち。今までは崖により分断されていたが、段々と高低差がなくなってきている。
やばい、追いつかれる。
流石に至近距離で囲まれれば逃げるのは困難だろう。
「紫乃、漬物瓶を捨てれば紫乃くらい背負って逃げられるけど、どうかにゃ!?」
「…………!」
どうするか。考え焦る紫乃の脳裏に母の声がよぎる。
『紫乃、命が惜しいのであれば、決して高貴な方々に関わってはなりません』
逃げなければ。
兵の腕に巻いた蒼い布が目に入る。蒼い布を巻いているという事はすなわち、皇帝に関わる兵という事だ。
逃げなければ。
母の教えに従って、とにもかくにも蒼い布を身につけた者たちから逃げなければ。
もはや「逃げる」という三文字のみが頭をぐるぐると巡っている。
足を動かし、ひたすらに兵を撒くことだけを考えて走り続ける。
その、刹那。
川と崖との高低差がほとんどゼロになった時、草むらからざっと蒼い影が飛び出してきて、紫乃の行く手を遮った。
「…………!」
「よう、俺の兵を相手に何をしているんだ?」
つい先ほど助けたばかりの男、今代陛下、雨 凱嵐その人のご登場である。